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金森穣×井関佐和子『Liebestod-愛の死』インタビュー!

Noism芸術監督であり演出振付家の金森穣さんが、最新作『Liebestod-愛の死』を発表。創作活動25年を迎えた今、18歳のころから温め続けてきた構想のもと、振付家としての原点を改めて見つめます。開幕を前に、金森さんと副芸術監督であり舞踊家の井関佐和子さんにインタビュー。作品への想いとクリエイションの様子をお聞きしました。

デュオのパートは井関さんの相手役に吉崎裕哉さんが抜擢されています。

井関>デュオになると聞いたとき、私の中では相手役は穣さんしか見えてなかった。実際“穣さんが温めてきたものを踊るとなると、私のパートナーはあなたしかいないでしょう”と言ったんです。それくらい“こういう男性であって欲しい”という穣さんの強烈なイメージを感じていたということかもしれません。

金森>でも自分じゃないんですよね。この音楽への想いは振付の原点であって、自分にとっての原点は自分のためにつくることではないから。実際『Under the marron tree』も自分で踊ってはいない。自分の直感とかある種の期待とかいろいろな想いを込めた結果、今回は裕哉に決めた。

ただ自分がどういう理由で選んだにせよ、最終的には彼自身が舞踊家としてこの舞台に立つ必然性を見い出して欲しい。もちろん手取り足取り教えてはいるけれど、彼は今一生懸命自分で立とうとしてるから、それはリスペクトしないといけない。いろいろな批判や賞賛があるだろうけど、全て彼に背負って欲しいと思ってる。それはどのメンバーであれそうで、この作品は相当背負わなきゃ表現しきれない。“なかなか良くできてたね”とか“まだまだだね”というレベルではなくて、吉崎裕哉というひとりの舞踊家として立ってもらわないといけない。自分はそれを望んでるし、みなさんもぜひ期待しててください。

 

撮影:遠藤龍

撮影:遠藤龍


クリエイションを経て、今作品に思うこととは?

井関>死んでしまった男性を想い悲しみにくれて踊る、という単純なことではなくて、もっと大きな世界を見ているような気がします。植物でもありながら、人間でもありながら、宇宙的でもあり、全ての感覚が入っているような……。すごく抽象的だけど、一筋縄ではいかない。残された女性の悲しみとかそういうものではなく、その全ての一線を超えたところに持っていかなければいけない。身体の動きというよりは、心の揺れみたいな作品だなと思っています。

金森>道徳的なものではないし、あるいは世話もの、人情ものでもないから、本当に言語化できないんです。音楽の力ってその抽象性にあって、感情の割り切れない部分を全てわし掴みにしていく。それを言語ではない身体表現にするという舞踊の根源に立ち返っているから、言葉では言えないものがある。愛する男が死んだと言うこともできるかもしれないけど、肉体はいなくなったけれどそこにいる、あるいはふたりともはじめからいなかったと言えるかもしれない。

大きな枠組みの中での男と女だし、もしかするとひとりの男とひとりの女を超越した何かかもしれない。もっと大きなものをイメージしてつくっているから、言語化するのは難しい。今回つくっているものって、それくらいのことなんですよね。

井関>ソロの振付けをするときはいつも穣さんとふたりでスタジオにこもって作業をしますが、今回は裕哉がスタジオにいてずっとクリエイションの様子を見ていたんです。終わった後“どうだった?”とたずねたら、昔穣さんから聞いたベジャールとジョルジュ・ドンのクリエイションの様子に重なって見えたと言う。彼の目には、私と穣さんのクリエイションがどこか特別なものに見えたんでしょうね。

穣さんが純粋につくりたいものをつくって、そこに私たちがいた。穣さんが頭でつくり出すと、私も舞踊家として“自分はこうしたいんだ”という自我が出てくる。でも今回はそういう感覚が全然なかった。穣さんの波に乗っていった感じがして、そういう意味では特別だった。『Liebestod』の最後に、“溺れ、沈み、我を忘れ、この上なき歓び”という私の大好きなテキストがあって、よくよく考えたらそういう感じでしたね。ただひたすら穣さんがつくり出すものに浸っていた感覚でした。

 

撮影:遠藤龍

撮影:遠藤龍


18歳のころから温めてきた想いを表現しきれたという手応えは?

金森>手応えはある。金森穣という人間の精神性が出てると思うし、死生観が出てると思う。これを生み出して良かったなと思ってる。だからぜひ観てもらいたいですね。

 

撮影:遠藤龍

撮影:遠藤龍

 

 

-コンテンポラリー