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谷桃子バレエ団新芸術監督 高部尚子インタビュー!

谷桃子バレエ団の新芸術監督に、同団プリマの高部尚子さんが就任! 芸術監督就任第一弾公演として、この夏『コンテンポラリーダンス・トリプルビル』を上演します。開幕に先駆け、高部さんに芸術監督就任の想いと公演への意気込み、今後の展望をお聞きしました。

高部さんにとって谷先生はどういう存在でしたか?

高部>一見ふんわりされてるけれど、芯は強くて踊りに対しては非常に厳しい人でした。私は先生が亡くなるまで一度も褒めていただいことはなかったです。自分の中で“今日はまあまあだったんじゃないかな”と思う日でも、“良かった”という言葉はついぞ聞いたことはなく、一番の褒め言葉は“頑張ったわね”でした。先生が亡くなる一年くらい前のこと、ジゼルのミストレスで私が後輩に指導していたときに、“尚子ちゃんのジゼル、ちょっと私が思ってたのと違うのよね”と言われたことがあって、あれはかなり堪えましたね。たしか狂乱の場で、私は私のジゼル像をつくりたいという気持ちもあったので、そこが先生のイメージするところと違っていたんでしょう。

バレエには本当に厳しくて、全てが先生の思うイメージと合致しないと認めてくれなかった。でも普段は本当にやさしいんですよ。私は中学のときから先生に習っていたので、その印象が強かったんでしょうね。会話のはしばしに“先生きっと私の年齢わかってないな”と思うことがよくありました。いつだったか“先生、私の歳わかっています? 今年40いくつですよ”と言ったら、“えー、もうそんなになるの!”と驚かれたことも(笑)。先生の中では、私はいつまでも子供のままだったのかもしれません。

 

『リゼット』初主演(1987年)

『リゼット』初主演(1987年)

 

1984年にローザンヌ国際バレエコンクールに出場し、スカラシップ賞を受賞されました。ローザンヌで賞を受賞した日本人ダンサーの先駆けのひとりでもあります。コンクール出場は谷先生の薦めだったのでしょうか。

高部>私はもともと谷先生のお弟子さんだった小野正子先生のところでバレエを始めたので、谷先生にとっては孫弟子にあたります。中学のときに大先生のところにいきなさいと送り出され、ローザンヌに出たときはもう谷先生のもとにいました。ただローザンヌに出なさいと言われたのは小野先生で、日々の稽古は小野先生にみていただきつつ、月に何回か谷先生にみていただいていました。ローザンヌも当時は今と違って日本から3〜4人しか行かない時代。あのときはまだビデオ審査もなかったですね。日本のバレエ界の中で、今年は誰と誰が行くという感じで先生方の間である程度調整されていたんじゃないかと思います。

コンテンポラリーの審査は当時からありました。アルビン・エイリーの先生がその場で振付けをして、私たちはそれを1時間くらいで覚え、そのまま舞台に放り出されてお客さんの前で踊るんです。だからかなり大変でした。なかには振りを忘れてしまう人もいて、曲が終わるまでずっとスキップをしていたり、それもまだいい方で、立ち止まって動けなくなった人もいましたね。私にとってはそれがコンテンポラリーとの最初の出会い。コンクールって厳しかったり怖かったりするけれど、あれはすごく刺激的であり楽しい時間で、伸び伸びと踊った記憶があります。

 

『令嬢ジュリー』

『令嬢ジュリー』

 

ローザンヌで見事スカラーを獲得し、英国ロイヤル・バレエ・スクールに一年間留学しています。そのままスクールに留まり、海外のバレエ団を目指すお気持ちはなかったのでしょうか?

高部>私としてはロイヤルに残りたいという気持ちがありました。実は学校側からも、“よければもう一年残らないか?”と声をかけてもらっていたんです。でもうちの両親は古い人間で、特に父親にはプロのバレエダンサーになるという感覚がわからない。高校を卒業しないというのは考えられないと言われました。もしあわよくばプロのダンサーになれたとしても、ケガをして踊れなくなった、じゃあ就職だというときに高校も卒業していなかったらどこにも就職できないと。ローザンヌに行くときも、“これでダメだったらバレエは趣味でやりなさい”と言われていたんです。“え、じゃあもしダメだったらバレエを職業にできないんだ!?”と思って、それはもう必死でした。だからこそ賞がとれたのかもしれません。

高校2年のときに学校を一年間休学してロイヤルに行きましたが、留学するときに“一年したら絶対に帰ってこい”と言われていたので、帰らざるをえない状況でした。今の時代だったら、学校はもういいよとなるかもしれないけれど、あのころはまだそういう雰囲気でもなくて。私に反骨精神があり、“親の言うことは聞きません!”というような子だったら残っていたかもしれません。けれどまだお金もなかったし、親のスネをかじっていた身分だったので、泣く泣くではありましたが一年で日本に帰ってきました。帰国後はバレエ団に通いながら高校も無事卒業しました。

 

『リゼット』

『リゼット』

 

帰国の翌年、『リゼット』で初主演させていただきました。役をもらったらもう楽しくてしょうがなくて、海外に行こうという気がおこらなくなってしまった。それ以降バレエ団の全ての公演に出演しています。また谷先生が外部の公演にも出ていいという方だったので、いろいろな振付家の作品に出させていただきました。石井潤先生、佐多達枝先生、後藤早知子先生など、日本の創作バレエの礎をつくってこられた方々の作品です。踊る場所が常にあったから毎日充実していて、だから外に行く機会を失ってしまったというか……。それに“どうしても海外で踊りたいんだ!”という感じでもなく、どこか日本人タイプだったのかもしれません。よく野球でも“みんな大リーグに行ってしまって日本の球界はどうなるんだ”と言うけれど、それに近い気持ちで“日本に誰かいた方がいいんじゃないか”と考えていたような気がします。

ロイヤルといえば、帰国後バレエ協会主催の『眠れる森の美女』に、吉田都さんとWキャストで出演しました。王子は熊川哲也くんです。当時都さんはロイヤルでばりばり踊っていて、哲也くんもロイヤルで活躍していたころ。奇しくも三人さんともロイヤルで学んでいた仲です。それぞれ年代は違うけど、私が研修で現地にいたときロンドンでふたりと会っていたので、一緒に舞台に立ててうれしかったですね。

 

『ドン・キホーテ』全幕初主演(1993年)

『ドン・キホーテ』全幕初主演(1993年)

 

26歳のときに文化庁在外派遣員として再び留学されていますね。

高部>あるとき谷先生が在外派遣員の申し込み用紙を私の前にばんと置き、“これを書きなさい、そろそろまた海外に行って勉強してきなさい”と言われたんです。でも私の中にはそういう考えはなくて、海外のバレエ団に入ってプロとして踊るならまだしも、勉強しに行くという感じではないなという気持ちでした。そのとき私はもう26歳です。海外のカンパニーだと25歳過ぎて勉強に来たといわれても困るんですよね。研修員として団員と一緒にレッスンし、舞台に立ち、それでいてお給料はもらわないとなるとユニオンの問題もあって、いろいろややこしいことになる。だからすごく難しくて、それでも受け入れてくれるところを探しました。

 

『令嬢ジュリー』

『令嬢ジュリー』

 

最初にナショナルバレエ・オブ・カナダを視察に行きましたが、みんなものすごく背が高くて、私はきっとコール・ド・バレエにも入れない。これはムリだなということで、グランバレエ・カナディアンというモントリオールにあるカンパニーに行きました。ただそこにいたのも3〜4ヶ月で、その後はロンドンで女性の先生について個人レッスンを受けていました。ロンドンでは基本のあらい直しだとか、いろいろなヴァリエーションを学んだり、あと舞台をたくさん観ましたね。そこで吸収できたものは多かったと思います。だけどロンドンで足首をケガしてしまい、日本に帰ってきたときはかなり悪くなっている状態でした。

帰国後バレエ団の公演で『白鳥の湖』の主演を踊らせてもらいましたが、やはりまだ足の調子が良くない。そこで長いバレエ人生の中ではじめて三ヶ月間舞台を休みました。バレエはお休みしていましたが、今でいうピラティスのようなトレーニングをしたりと、身体のメンテナンスは続けていました。

 

『リゼット』

『リゼット』

 

 

 

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