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川口隆夫『大野一雄について』インタビュー!

大野一雄の舞台映像を完全コピーするというかつてないアプローチで話題を呼んでいる川口隆夫さんの『大野一雄について』。2013年の初演から4年。世界各地での上演を経て、この秋日本で待望の再演を叶えます。舞台を控えた川口さんに、創作の発端とその経緯、作品への想いをお聞きしました。

作中は大野一雄の代表作の中から3曲をコピーして踊ります。

川口>アーカイヴからビデオをお借りして、いろいろ観た中から『ラ・アルヘンチーナ頌』と『わたしのお母さん』『死海』の3作品を選びました。自分が素直に面白いと思ったものをピックアップしたというのが一番正直な気持ちです。この3作は土方巽が演出をしていて、つまり土方と大野のコラボでもあり、そういうところもすごく面白いなと感じたところです。

一曲に絞ったり、一分を克明にコピーするといった方法もあったと思いますが、そうしたフォーカスをあえてしなかった。欲張っちゃったんですよね。初演のときも結局90分くらいありましたが、そのくらいしないとコピーしているというプロセスが炙り出されてこない。当初から長さは必要だと考えてました。

初演を観たいろいろな人が、“ちっとも似てない”と言うんです。ちっとも似てないんだけど、僕を見てるとふっと大野一雄の記憶が蘇ってきて、川口隆夫なのか大野一雄なのかどちらを見ているかときどきわからなくなる錯覚に陥ることがある、というようなことはかなり幅広い方から言われました。そこで僕自身、“もしかしたらそういうことがこの作品の本質に近い面白さなのかもしれないな”と思うようになりました。

 

川口隆夫『大野一雄について』

大野一雄


完全コピーの方法とは? 映像を観ながら振りを覚えていったのでしょうか?

川口>映像を観てはポーズをかけて、大野の動きをひとつひとつスケッチしていきました。動きをつぶさに観察して描き起こしていくので非常に時間はかかるけど、そこで“ここか!”というものが自分の中でより意識できる。ビデオを観ながら覚えようとするといちいち巻き戻さなければいけないけれど、この方法だと並べたスケッチを見ながら覚えられるというメリットもあります。

あまり抽象的に覚えないようにしよう、というのも意識した部分です。“ここは楽しそうにふわふわと”というよりも、“手の位置がどこでどのくらいの高さで”というように、できるだけ具体的な動作をメモしていきました。本当は抽象的にした方が覚えやすいけど、抽象化するとどうしても川口隆夫の解釈に引き寄せてしまう。この作品ではそういうことはできるだけしないようにしようと思い、形やスケッチで覚えていきました。

 

川口隆夫『大野一雄について』

 

緻密で気の遠くなる大変な作業ですね。

川口>よくめげなかったなと自分でも思います(笑)。ただこの作品に関してはスイッチが入ってしまったというか、どこかハマってしまったんですよね。大野と重ならない部分が川口隆夫をあらわすんだと思ったら、もう迷う暇もなかったというか。そのまま勢いでとにかくやり切ってしまった。

ただツアーをする過程で公演ごとに毎回ビデオを見直していると、それまで見えていなかったディティールが徐々に見えてくるようになって。見えてくると、それを新たにコピーに入れていくことになる。それが大変といえば大変なところかもしれません。例えば間違いだとか滑ったところとか、がくっとコケそうになるところとか、そういったものも全て含めてコピーしようとしているので、余計にそうなんですけど……。

 

川口隆夫『大野一雄について』

©Bozzo

 

ディティールが鮮明になり、現在の方が初演以上により大野一雄的になっているということでしょうか?

川口>それはどうなんでしょう……。何が大野一雄的かという判断や解釈というのはコピーの中にはあまり入れないようにしていて、価値判断はできるだけ排除した上でアプローチしています。映像を観る度にもちろん細かいところが見えてきます。そこで改めて気づいたのが、自分がやりにくいもの、不得意なものはできるだけ見ないようにしているんだということ。

例えば僕は頸椎を痛めていて首を左に曲げるのが辛いせいか、ビデオを見ていても大野が左に首を動かしているのが見えていなかったんです。実は大野って首をよく動かしているけれど、初演の時はその部分をあまりコピーしていなかったと気づかされた。たぶん他にも見えていないところはあると思います。だから大野一雄的になってきたかというと、それはよくわからない。

初演のときの批評で、大野は動き出すときに躊躇する瞬間があるのに対して川口は前のめりになって動いているようだといわれたり、大野は揮発するような軽さがあるが川口にはそれがないといった声もありました。きっとそういう部分が大野一雄的なんだというのは思うところであり、もちろんそこは意識はしますが、それはまた一体どこにあるのだろうかとも思う。

魂だとか精神的なもの、メンタル的なものが大野一雄にそう表現させているんだという言い方はわかるし、実際そうなんだろうけど、ビデオの中にそれを見つけていくのはできない相談でもあって。そのオーラの秘密を動きの中でどう見つけるか。それを自分の中にどう写すか、というのはとても大きな課題だし、どうしたらできるものなのか、それは誰にもわからない。コピーしていて秘密に迫った手応えもなければ、それが秘密なのかどうかさえわからない。その鉱脈を探しあてることができているのかさえわからなくて、むしろやればやるほど違うところに進んでいるのかもしれない。それは僕にはわからないところなんだろうなと思います。

目を皿のようにして細かくコピーした先に秘密の部分を発見して、なんとかして自分のものにできたら素晴らしいだろうなとは思う。だけど逆に秘密を暴いてしまったら価値がなくなるものもある。わからないものはわからないことにしておくべきなのかなとも考える。そこはビデオを見て誠実にコピーすることに徹するしかないんだな、というのがこの作品の宿命のような気もしています。

 

川口隆夫『大野一雄について』

 

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