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川村美紀子 ダンサーズ・ヒストリー

16歳でダンスをはじめ、大学生のとき発表した処女作でダンスコンペティションの最優秀新人賞を受賞。コンテンポラリー・ダンス界の新星として一躍注目を集めた川村美紀子さん。しかし彼女の活動はダンス・シーンに留まることなくーー。ダンス界の異端児、川村美紀子さんのダンサーズ・ヒストリー。

受験のためのモダンダンス。

ダンスをはじめてからはもう興味の全てがダンスに向いてしまってて、ダンスの歴史について研究論文を書いて提出したり、といったこともしてました。何かに興を持つと、良くも悪くも周りが全く見えなくなってしまうんです。大学も日本女子体育大学の舞踊学専攻に行くと決めていました。

オープキャンパスに行ったとき、“ダンスをはじめてまだ二年なんですけど、この大学に入りたいんです!”と言ったら、先生に“えっ?”とばかにされた感じで言われて。ならばということで、クラブ通いの傍ら、大学受験のためにモダンダンスの教室に通うようになりました。

 

川村美紀子

高校時代

 

モダンダンスとヒップホップって一見違うようでいて、縦社会という意味では似ているのかなって思います。モダンダンスの世界ってはっきりとしたヒエラルキーがあるけれど、ヒップホップにも“オレが認めたらオッケイ!”というところがあるんです。受験のためにはじめたモダンダンスでしたが、それはそれで楽しかったです。『モダンダンス五月の祭典』など公演でも踊らせてもらいました。

 

川村美紀子

モダンダンス

 

異端児だった大学時代。

大学の試験は実技もあって、綺麗にくるくる踊っている子の隣で布を持ってダッシュしました。“ここでヒップホップを踊るのは逆にヒップホップじゃないな。もうちょっと何か他にあるのでは?”と考えたんです。みんな笑ってましたけど……。周りは小さい頃からダンスを習ってきた人たちばかりで、ヒップホップだけやってきた人間が入学したのは私がはじめてだったみたいです。私を入学させるというのは、大学側にとっても弱冠実験的な意味合いがあったのではないでしょうか。

 

川村美紀子

大学2年。現在も活躍する同期たちと。(手前中心が川村)

 

入学してはじめて知ったんですけど、なんと日本女子体育大学にはヒップホップのクラスがなかったんです。バレエ、モダンダンス、コンテンポラリー・ダンス、タップ、フラメンコ、シアタージャズ、日舞、アフリカンが実技にあって、自分で選択することもできますが、一年のときは座学の方が多く組まれていましたね。きちんとバレエを習ったのは大学に入ってから。全くついていけなかったです。完全に落ちこぼれでした。

得意だったのは哲学です。当時大学図書館でアルバイトをしていたので、いろいろな書籍を読むことができました。ヨーロッパの芸術学校では哲学をしっかり学ぶと聞くけれど、日本の場合はあまり重要視されてない。だから議論が平行線だったり、マウンティングしあうのかなって気がします。

 

川村美紀子

クラブ時代

 

大学時代は病んでましたね。入学したばかりの頃は楽しかったけど、新鮮さを失ったらただひたすら飲み明かす日々。たぶん病んでる自分に酔っていたんだと思います。20歳手前あたりって身体はよく動くけど、精神的な方で参ってて、親にもすごく迷惑をかけました。大学2〜3年の頃が一番クラブに行っていて、“わー、楽しいな!”と踊って飲んですごく盛り上がるんだけど、家に帰ってふっと抜けた瞬間に過呼吸になってしまうんです。そうまでしてなぜクラブに行くのか? もう魔力ですよね。あの頃はキャリーバックを引きずってはクラブに行き、学校でシャワーを浴びて、授業を受けて、図書館でアルバイトをしてーーの繰り返し。大学には友達もあまりいなかったし、たいていいつもひとりで行動してました。

 

川村美紀子

大学の屋上が住処だった

 

クラブから呼ばれてイベントにゲスト出演することもだんだん増えていきました。イベントに出るようになってからは、本番前に新宿の明治安田生命ビルの前に行って練習していましたね。明治安田生命ビル前はダンスの練習場所みたいになっていて、私が通っていたときは大学のサークルとかイベントのゲストで出てるダンサーがよく踊りに来てました。

 

川村美紀子

安田ビルにて

 

創作を開始。処女作で最優秀新人賞を受賞。

大学一年生のときにギャラリーでソロを踊ったことがありました。絵描きやダンサーらしき人たちが集まる謎のアートイベントです。作品と言えるようなものではなかったけれど、反響も大きくて、私の中ではすごく印象に残っています。思えばあれが“うわー、ダンス楽しい!”という絶頂期だった気がします。

初めてきちんと作品をつくったのは大学3年生のとき。AVの音源やアヴェ・マリアの音を使って踊った『むく/muku』というソロ作品です。創作は初めてでしたけど、あまり意気込んでいた記憶はないですね。きっとできちゃったんだと思います。

 

川村美紀子

『むく : muku』©Hiro Ohtake

 

『むく/muku』やその後の『がんばったんだね、お前の中では』、『へびの心臓/Alphard』もそうですが、初期はほとんどがソロ作品です。人見知りという訳ではないけれど、当時は友達もいなかったし、“この人たちは自分とはあまり関係ないな”と思ってた。周りが見えていなかったんでしょうね。

誰かと踊るようになったのは大学を卒業してから。ダンスを続けている子たちが声をかけてくれて、一緒に仕事をするようになりました。自分で自分に振付けをするのも、他の人に振付けをするのも、自分の中ではあまり差はないですね。自分の身体も自分のものではないと思っているところがあるので、別物だとは考えていない気がします。

 

川村美紀子

クラブ時代

 

『むく/muku』で横浜ダンスコレクションEX2011 コンペティションⅡ新人振付家部門の最優秀新人賞を受賞しました。これは若い振付家向けの賞で、お客さんのすごく近くで踊るんです。もともとダンスの他にもいろいろ賞を取っていて、家には賞状やトロフィーがたくさんあります。賞を取るのが好きなんでしょうね。

クラブで開催されたコンテストやバトルで賞を取ったこともありましたし、学生時代から成績も一番じゃないと気が済まないところがあって、高校時代には“すごく勉強できましたね賞”をもらっています。自慢では決してないけれど、ムダに溜まっていくプライドがあって。いつか賞状で服をつくって、『プライド』というタイトルで発表したい。何だかすごく楽しそうじゃないですか。

 

川村美紀子

『へびの心臓 : Alphard』©bozzo

 

だけど、賞の存在って不毛だなって思ってしまう。でも出場した時点で周りには受賞する気があるとみなされるし、そこで引き上げられた人に可能性が与えられるということ自体が何だか不思議。支えてくれた人たちに対するお礼の意味でも一応喜んでみるけれど、自分の中ではさほど感慨はないというか、“そうだよね”という感じ。たぶんたいして興味がないんでしょうね。賞を取ることよりも、どちらかというと全体のシステムとしてどう成り立っているか、という方に興味が向いています。

『むく/muku』の受賞公演で発表したのが『へびの心臓』。あの動きはたぶんヒップホップなんでしょうね。ただ私自身はずっとヒップホップダンスをスクールで習っている人たちに背中を向けてはきたし、ヒップホップの人たちからすると“変わってるね”と言われるようなタイプだったと思います。この音だとこうでしょ、ここはこうだよね、というルールみたいなものってあるじゃないですか。私はそうではないことをずっとやっていたんです。ヒップホップを踊る人の中にはすごく上手い人もいて、私もそういうかっちりした動きをしてみたかったけど、できなかったのでそうせざるを得なかったというのもありました。“どうしてあんなにかっこいい動きができるんだろう?”とは思ってましたけど。

 

川村美紀子

『へびの心臓』上演後、日高屋にて©Manaho Kaneko

 

賞を総ナメにした『インナーマミー』

一番たくさん賞をもらったのは『インナーマミー』。トヨタコレオグラフィーアワード 2014で「次代を担う振付家賞」(最優秀賞)と「オーディエンス賞」をW受賞して、横浜ダンスコレクション EX 2015では「審査員賞」と「若手振付家のための在日フランス大使館賞」を受賞しました。

トヨタ コレオグラフィーアワードの一次審査には『へびの心臓』の映像を送りました。最終審査会の2日前にd-倉庫で新作を上演していたのでものすごく疲れてて、本番の始まる直前まで楽屋で寝ていたのを覚えています。受賞の打ち上げは、まず沖縄料理屋さんに行き、イタリアンに行って、焼き肉屋に行ってと、朝までずっと飲み明かしました。ところが、受賞式のときにいただいた盾をどこかに忘れてしまったことにふと気付いて……。打ち上げで行ったお店に電話をしても、三軒ともないと言う。でも実は私の思い違いで、スタッフさんに預けていたことが後で判明して、無事盾を受け取ることができました。

 

川村美紀子

『インナーマミー』©bozzo

 

 

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