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川村美紀子 ダンサーズ・ヒストリー

16歳でダンスをはじめ、大学生のとき発表した処女作でダンスコンペティションの最優秀新人賞を受賞。コンテンポラリー・ダンス界の新星として一躍注目を集めた川村美紀子さん。しかし彼女の活動はダンス・シーンに留まることなくーー。ダンス界の異端児、川村美紀子さんのダンサーズ・ヒストリー。

アルバイトとダンス活動。

就職は全く考えてなかったです。大学の先輩は一般企業に就職したり、インストラクターになる人が多かったと聞きますが、同期の子たちは神がかったようにダンス界にたくさん行って。今でも現場で会ったり、海外で会うこともあるし、だからすごく楽しいですね。

大学卒業後はテープ起こしのアルバイトをしながらダンス活動を続けてました。ひとりでひたすら打ち込んでる瞬間が大好きだったんです。1〜2年その状態が続き、生活ができるほどではないにしても、ダンスの方でも少しずつお金をもらえるようになりました。

 

川村美紀子

卒業公演©スタッフ・テス

 

ナメてると思われるかもしれないけれど、今でもダンスでやっていきたいとはそんなに思っていないんですよね。幸い協力してくれる人や関わってくれる人たちがいるので、首の皮一枚でかろうじて続いている感じです。

他のダンサーの舞台も観に行かないし、演劇を観に行くこともありません。ただ、戸川純のライブに行ったことはあります。一時期“戸川純に似てるね”とよく言われて、“戸川純って何者だろう?”と思って観に行ったんです。ライブでは“この人、ヤバイ!”って感じでしたけど、若い頃の映像を見たらものすごく可愛くて。“私は平成の戸川純になる!”と宣言したら、あるプロデューサーに “とりあえずダンスを頑張れ”と言われてしまいました。

 

川村美紀子

©oi-chan

 

トヨタ コレオグラフィーアワードの賞金で『まぼろしの夜明け』をつくりました。いろいろなことを言う人がいたし、舞台に耐え得るものではないと捉える人もいたようです。ビリビリに破ったチラシを投げつけられるようなこともあったし、“金返せ!”とか“二度と来るか!”とアンケートに書かれたこともありました。周りには“やっちまったな”とみなされているんでしょうか。お客さんの反応は参考程度にはします。だけど、それで自分の活動がどうなるということはないですね。

ただあの作品は私の中では結構腑に落ちていて、かなり筋は通っているなという気持ちです。20歳そこそこの粗しかないざらざらした感覚の身体がそこにあるということが大事だったし、そこに全てがあったから、だからあえて何もいらないと思った。あの作品は、できれば50年後にもう一度再演したいんですよね。もし50年後に同じ作品を舞台に上げたら、それぞれが重ねてきた年月が滲み出てしまうはず。比較ができるということが大切なのはと。それをやるということが大切なので、私としてはできて良かったなと思っています。

 

川村美紀子

『まぼろしの夜明け』© bozzo

 

賞のご褒美でフランス留学。

『まぼろしの夜明け』の初演後に、フランスへ半年間行きました。さんざんやった後に、“さようなら!”と日本を離れた感じです。現地ではノーパンでバレエのクラスを受けていました。楽しかったですね。

フランスに行ってすごく意識が変わりました。それまでは“何かをすること”の優先順位が高かったけど、フランスではまずあくびをすることからはじまって、ご飯をつくって、みんなで食べて、“おいしいね”って言うことのプライオリティが高いんだなってことに気付いた。“食べていくのは大変だけどダンスをやるんだ!”という生き方も、それはそれで美学としてあると思う。だけど、まず生活があって、その上で自分ができることが成り立っているんだな、ということをフランスですごく実感したんです。

 

川村美紀子

『地獄に咲く花』パリ ©Duron Cedric

 

フランスで『地獄に咲く花』を上演して、帰国後半年経ってから日本で再演しました。現地で録った音源を使っていたので、一年間ずっとフランスがいい感じで続いていた感覚です。

フランスには2016年のはじめに行き、7月の初旬に帰ってきました。日本に帰ってきたら東京がそれまでとは別の国に見えて、逆に面白いなって思えきた。これはちょっと東京にいる必要があるぞと思って、しばらく東京に腰を据えようと決めました。

 

川村美紀子

『地獄に咲く花』©bozzo

 

危ういバランスを取るために。

フランスではいろいろ心境の変化があったけど、すごく辛かったのが、その時点で自分を取り巻く環境が全てダンスになってしまっていたこと。だからそこからどう逃れられるか、あえてダンスをしないということに挑戦していたような気がします。自分の置かれた状況に危機感を覚えて、それを保ち続けることなんてくそくらえと、その中で安穏としてしまったら成長がない、止まると思った。そういう環境で何かを見つけられる人もいるでしょうけど、私の場合はヘリの方が見つけやすい。

私はできるだけヘリにいたい。そう思って、SMクラブで働きはじめました。他から見たらわからないけど、自分の中では生き方としてすごく筋が通っているんですよね。だから今までで一番バランスが良くて、一番安定しているかもしれません。

 

川村美紀子

就寝

 

 

SMクラブには、募集を見て、普通に面接に行きました。社長に“おまえ普段何やってるの?”と聞かれたので、“ダンスです”って答えました。私のYouTubeを見せたらすごく気に入ってくれて、“オレ、おまえの動画16時間見ちゃったよ!”と言われました。お客さんにもよく“普段何やってるの?”と聞かれるんですけど、あるとき六本木にあるSM専用ホテルのロビーに私が出演した『サディスティックサーカス』のチラシが置いてあったので、“これに出てます”って渡したら、“えーっ!”とびっくりされました。

SとMのどちらもやりますが、私はあまり女王様の需要がないみたいで、Mの方で入ることが多いですね。ゆくゆくは女王様もやってみたいなとは思っているんですけど……。

 

川村美紀子

『サディスティックサーカス』

 

この仕事をしてから気付かされたことも多いですね。はじめて仕事が入ったとき、お客さんに3時間怒られたんです。“おまえ、ばかにしてるの? ナメてるの? オレ、女の子にこんなこと言うのはじめてだよ!”と、こんこんと説教されて。事務所に戻ったとき、社長に“どうだった?”と聞かれので、“ダメでした、かくかくしかじかで”と説明しました。実はそのお客さんというのが、店の上客だったらしくて。

社長には“オレは芸術のことはよくわからない。ただお客さんの感性の欲というものを受けてきたからおまえもきっとわかるはず。こっちはこっちで性欲だからお客さんの欲望の質が違うだけなんだ”と言われて、なるほどなと。その上で、“おまえはそこらの可愛い女の子じゃないから、コアな人にはハマるだろうから”とすごく労ってくれたんです。どの社会でも大事なことってたぶん同じで、挨拶とか人間としての基礎がちゃんとしてればいいんじゃないかなって思います。その後はどんどん指名が入るようになって、待機所にあまりいないような状況になりました。

 

川村美紀子

 

 

-コンテンポラリー