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バレエ、ダンス、舞踏、ミュージカル……。劇場通いをもっと楽しく。

小野寺修二 ダンサーズ・ヒストリー

手がける公演は一年間に10本以上。演出、振付、ダンサーと多彩な顔を持ち、作品ごとに新たな世界を提示する。小野寺修二さんのダンサーズ・ヒストリー。

40歳のフランス留学。

文化庁新進芸術家海外留学制度の研修員として、2006年の9月からフランスへ一年間留学をしています。フランスを研修先に選んだのは、マイムの本場かなと思って。近代マイムはフランスであるといわれていて、マルセル・マルソーの師匠がドゥクルーシステムというシステムをつくり、それが派生してアメリカに渡り、結果マイケル・ジャクソンにつながっている。だけどシステムって教える人の視点が入ってくるので、派生する過程で少しずつ変わっていくんですよね。

僕の師匠もドゥクルーシステムの直系でしたけど、舞踏的なものが入っていたりと、かなり独自のものになっているんです。本場でシステムを改めて学んで、そのシンプルさに驚きました。同時に、“師匠はこういうところを変えることで独自の方法論としたんだ”ということも知った。フランスで何か新しいことを学んだということではなく、初心に返るというか、“マイムって好きだな”と思えた。

 

フランスにて

 

フランスでは、マイムの学校に行ったり、劇場の仕事を見せてもらったり、公演で作品も発表しています。ただ自分の中で何が残っているかというと、大変だった日常生活しか覚えていない。“あ、生きてくのって大変だな”ってこと。まず言葉が通じないところにぽんと放り出されて、地図の見方もわからなければ、人に尋ねることもできない。カフェに入ってもコーヒーの注文すらままならない。マイムの学校が一番ほっとする場所でした。なぜなら、言葉がわからなくても参加できるから。当時40歳だったけど、フランスでは赤ちゃんみたいに全く何もできなかった。

あるとき、隣にいた異国風の男性が突然警官に取り押さえられたことがあって。自分自身もこの国では外国人で、守られていない存在なんだということをひしひしと感じました。滞在許可書がなかなか下りず、何度も役所に通ったのですが、それも忘れられない経験です。

水と油が休止になって、留学ということで表現活動を先延ばしにしていたけれど、漠然と“この先活動を続けてはいくことは難しいだろうな”と感じてました。やりたいビジョンも明確にはない。そもそも水と油自体演出家を立てずに共同でつくっていくスタイルだったので、自分自身が責任を持って演出というものをしてきた訳ではなく、先については全くの未知数だった。もう40歳にもなっている……。

 

フランス研修

 

フランス留学中の大きな拠り所は、バレエダンサーの首藤康之さんと2008年頭の上演を予定していた『空白に落ちた男』について話せたこと。水と油の最終公演のトークショーに首藤さんがいらして、お話をしたのがそもそものはじまりでした。首藤さんは“水と油のお芝居的な部分に興味がある”と言ってくれて、“じゃあ何か考えましょうか”ということになって……。その頃首藤さんもベルギーで仕事があって、パリで会ってはよくカフェでお茶してました。具体的な作業は日本に帰ってからのスタートでしたが、セットはこういうものがいいだとか、構想的なことはパリで随分話しましたね。

フランス留学は、自分の出どころだとか、自分に何ができるのかといったことを考える時間になった。そういう意味ではすごく助かりました。それにフランス生活も一年が経つ頃になると、僕もいい加減“また何かつくりたい”って気持ちが沸いてきた。フランスでの生活も、二次的効果があったということなんでしょう。

 

フランス研修中

『空白に落ちた男』誕生。

帰国したはいいけれど、『空白に落ちた男』だけがぽつんと決まってて、その後の予定は全くなしという状態。『空白に落ちた男』のためだけにある時間です。創作はとにかく無我夢中で、つくっている最中は手応えも全然わからなかったですね。首藤さんがバレエ界の大スターだということは知ってたけれど、“マシュー・ボーンの公演のチラシに載っているのを電車の中で見かけたな”、というくらいの認識。一体何をしてもらったらいいのかわからないし、何ができちゃうのかもわからない。

水と油のときはみんなで話し合いながらつくっていたので、合議制の良さというか、意見を出しあって、それが幾重にも膨らんでいくスリリングさがあった。でも『空白に落ちた男』は“自分が面白いと思えるもの”を探したし、首藤さんからもそういうことがやりたいと言われた。『空白に落ちた男』は、水と油でやってきたことを自分の中でもう一度精査する時間。“自分はこういうことが腑に落ちているんだな”ということを確認してた。それが結果として、小野寺ワールドと言われるとうれしい。

水と油のとき、新しいことをやると“水と油っぽくない”と言われてしまうことがあって。何をもって“ぽい”というのか、斜めに立てば“水と油っぽい”のか。視覚的に面白いことや仕組みといったものよりも、“自分が本当に面白いと思うもの”が意外とわかってなかった。それに気付かされたのは大きかったと思います。

 

(C)鹿島聖子

 

53回公演というのは最初から決まってました。あれはある意味事故みたいなもの。あのときは僕も53回公演のスゴさがわかっていなかった。何より、どこかで企画が頓挫する可能性も感じてた。だから、夢みたいなことも言えたんです。首藤さんがいろいろな所にかけあってくれて、何とか上演できそうだとなったとき、一番ビックリしたのは僕ですよ。“え、本当にできるんだ!?”と。幕が開いてもしばらくは不安でいっぱいでした。首藤さんのファンも、森下のベニサン・ピットとなると躊躇する部分もあったみたいです。実際アンケートにも“夜道が怖くて行けません”と書いてあったりしましたから。

『空白に落ちた男』を経て、“続けてもいいんだな”という気持ちになれた。53回公演をやり切れたという自負もありました。賛否両論はあったけど、“良かった”という意見も聞けたし、“水と油と一緒だね”とも言われなかった。首藤さんという世界的ダンサーとご一緒させてもらったことで、違う人とも一緒にできるかもしれないという気持ちにもなった。コラボレーションというものを臆せずできるようになったきっかけになった作品かもしれません。だから浅野和之さんに声をかける勇気が持てたし、片桐はいりさんとご一緒することもできた。確実に自分にとってプラスだった作品ではある。だけど、“これでもう大丈夫”とは全く思わなかった。それは今でもそう。毎回“次はあるかな?”と思っています。

 

『異邦人』撮影:杉能信介

三年限定カンパニー『白い劇場』発足。

2014年の終わりに白い劇場シリーズを立ち上げました。オーディションで集まってもらった若者たちと共に公演を行うカンパニーで、三年間という期間限定でのスタートです。稽古では、僕がまずコンセプトを言って、グループごとに創作してもらい、それを修正したり、こんなニュアンスでと伝えたり……。白い劇場ではつくってもらう作業を重視していたので、その場面に出る人も出ない人も一緒になってまずは動いてみて、参加者同士がお互いから刺激を受け合う部分が多かったのではないかと思います。

毎年3月に公演を行い、当初の予定通り三年間の活動でいったん区切りを付けました。白い劇場を通してずいぶん多くのことを教わりました。“まだやれるな”と思えたことが一番の発見かもしれません。それはもしかしたらみんなの若さかもしれない。50歳を過ぎたおじさんがひとりで頑張っても新しいことってなかなか見つけられないから、それはみんなのお陰だと思います。

 

ロミオとジュリエット 撮影:伊藤華織

 

当初はもっと劇団化のようなスタイルが出来たらと思ってはじめた企画でしたが、それは今の時代少し違うのかもと感じたところがあります。結果目論見とは違っていたけれど、それも実際に集まってもらって会ってみなければ分からないことだった。すごく濃い、二度とない時間が過ごせたと思っています。白い劇場は幕を閉じたけど、いずれにせよ共犯できる人を探していることに変わりはない。作品は出演者に負うところが多いので、出会いを切望しています。

白い劇場で行っていたラインという稽古があって、それを一般向けに公開稽古という形で継続しています。これは白い劇場のひとつの遺産。対象者はデラシネラに興味を持ってくれた人はもちろん、デラシネラを知らない人が身体をちょっと動かしに来るというのでもいい。身体を見つめる場として集まれる場所をつくれたら、という考えです。

 

『白い劇場』ライン稽古

 

-コンテンポラリー