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堀田千晶『メシュラシュ』インタビュー!

イスラエルのバットシェバ・アンサンブルで活躍する堀田千晶さんが、独自プロジェクト『メシュラシュ』を発足。スウェーデン、イスラエル公演を経て、この夏日本公演を敢行します。日本初お披露目に先駆け、イスラエルの堀田さんにインタビュー。プロジェクト発足のきっかけと現地での日々をお聞きしました。

海外へ行く前は、2006年から二年間に渡りNoismに研修生として在籍していました。

堀田>Noismにいたのは17歳から19歳まで。若かったですね。家族と離れてひとり暮らしをするのも、自炊をしたのもあのときが初めて。Noism時代はすごく大変で、やっぱり自分は向いてないと思ったし、何度も辞めようと思いました。だけど、一番成長した場所でもある。あのときの私がなければ今の私はいないと思う。とにかく必死で、毎日毎日上手くなりたいということばかり考えていたのでキツかったです。きらいになるまでひたすらダンスをやらなくてはならないような環境で、日々自分と向き合ってた。身体をいたわらずにムチャばかりしていたので、よくケガもしてました。身体の訴えをきかずに打ち込んでいると、次第に心も落ち込んできて。Noismにいた二年間は舞台に立てなかったのもすごく辛かったです。“踊らせてほしい”って言わないと踊られてくれないので、穰さん(Noism芸術監督の金森穰)によく“踊らせてください!”と身体でアピールしていましたね。

穰さんはすごく怖かったけど、すごく愛のある人でもある。だからこそ最後まで付いていけたんだと思います。私のことを期待してくれているんだなというのは伝わってきたし、育ててもらったという想いはすごくあります。本当に親のような存在ですね。当時はまだNoism2(現在の研修生カンパニー。2009年設立)はなかったので、今の研修生の子たちは恵まれてるなって思います。

もちろんNoism1(メインカンパニー)に行きたいという気持ちはありましたけど、穰さんが“まだ若いんだから海外を見てこい”と言ってくれて……。優しいですよね。ネザーランド・ダンス・シアター2のオーディションで踊ったソロ作品も穰さんがつくってくれました。

オーディションに見事合格。ネザーランド・ダンス・シアターのジュニアカンパニー、NDT2入りを果たしました。

堀田>オーディションには世界中から300人くらい集まっていて、受かったのは3~4人だったと思います。そう考えるとすごいけど、記念オーディションというか、試しに受けてみようという感じの人もいたし、本当にぴんきりですね。自分が受かったのは、何故でしょう……。それこそ、“踊りたい!”って気持ちが強かったからじゃないでしょうか。たぶん全身から滲み出ていたんだと思います。これが受からなかったらダンスを辞めてもいい、ここで認められなかったらもういいや、という覚悟もありました。あのときオーディションに受かってなければ、今頃日本に住んでいたかもしれないですね。

初めての海外生活で大変だったことといえば?

堀田>18歳でオーディションを受けて、19歳からオランダで暮らし始めました。まず言葉が話せないのがいやでしたね。カンパニーでは基本的に英語です。でもみんないろいろな国から来ていたので、誰もちゃんとした英語を話さないし、そうこうしているうちに通じ合うことができた。本当にいい仲間ができたと思います。ダンスの内容はNoismでやっていたことの延長線上ではないけれど、役に立つことをたくさん習っていたので、それほど違和感はなかったです。だけど、働き方という意味では大きく違う。プロとしてお給料を得るのは初めての経験だったし、お金をもらって踊るのは日本人の感覚としてはなんかヘンな気分で、一年くらいずっと戸惑っていましたね。

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NDT2での日々はいかがでしたか? ツアーも多かったのでは?

堀田>9時半から10時半頃までバレエクラスがあって、その後午前中いっぱいリハーサルで、ランチブレイクを挟んで17時半までまたリハーサル。NDT2は国内ツアーがあったので、公演の日はバスで1〜2時間かけて地方へ行って踊ってました。国内ツアーが年に2〜3回あって、一回につき一ヶ月半くらいあちこちで公演を行います。毎日バスで出かけては、踊って夜返ってくる。それが一ヶ月も続くと、その生活に満足できなくなってくるような感覚がありました。ただツアーが多かったので、いろいろな国に行けたのは楽しかったです。なかでも一番印象的だったのは中国。日本人と顔は似てるけど、人のエネルギーが全然違って、すごい国だなって改めて思いました。中国公演のときはお母さんやおばあちゃんが観に来てくれたので、それはとても嬉しかった思い出です。入団一年目にニューヨークのジョイス・シアターでパフォーマンスができたのもいい経験でした。

ツアーに行くとわかるけど、やはりNDTは世界的に人気のあるカンパニーなんだなって感じます。ただキリアン(元NDT芸術監督のイリ・キリアン)がいなくなってからはちょっと衰退してきた感じもありました。私がNDT2にいたときはまだキリアンがゲスト振付家のような形でカンパニーに来ていたので、キリアンの作品もたくさん上演していたし、メインカンパニーはもちろんジュニアカンパニーでも作品をつくっていました。カンパニーを離れる前にキリアンと一緒に仕事ができたのはすごくいい経験になりました。

NDT2には3年間いました。基本的にNDT2の在籍は3年が上限で、そこから先はメインカンパニーに上がるかカンパニーを離れるかのどちらかになります。当時日本人はメインカンパニーに湯浅永麻さんと小尻健太さんがいました。私もメインカンパニーに入りたいという気持ちはありました。というのもその年にオハッド・ナハリンの作品を上演することになっていて、どうしても踊りたかったんです。だけどメインカンパニーに空きがないと言われ、ヨーテボリ・オペラ・ ダンスカンパニーのオーディションを受けました。

ヨーロッパに数あるダンスカンパニーのなかで、何故ヨーテボリ・オペラ・ ダンスカンパニーを目指したのでしょう。

堀田>ヨーテボリ・オペラ・ ダンスカンパニーは当時ホットなカンパニーで、世界的にもすごく注目されていたというのがまずひとつ。あと、いろいろな振付家と仕事ができるのもヨーテボリの魅力でした。ヨーテボリはシアター系というか、例えば舞台の上で喋ってみたりと、実験的な作品が多かったですね。ダンサーの年齢層も幅広いし、すごく面白いカンパニーです。ジュニアカンパニーはなく、ダンサーは全部で35人くらい。日本人率が結構高くて、私がいたときは木田真理子さんや児玉北斗さんなど5人くらい在籍していました。公演数は年に50~60回くらい。ちょうどディレクターが海外ツアーに力を入れ始めていたころで、アメリカやポルトガルなど年に2〜3回海外公演に行きました。

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