dancedition

バレエ、ダンス、舞踏、ミュージカル……。劇場通いをもっと楽しく。

中村恩恵ダンサーズ・ヒストリー vol.1

ネザーランド・ダンス・シアターでイリ・キリアンのミューズとして活躍し、退団後は日本に拠点を移し活動をスタート。ダンサーとして、振付家として、唯一無二の世界を創造する。中村恩恵さんのダンサーズ・ヒストリー。

3歳で家族と共にイタリアへ

生まれは横浜で、ひとつ違いの姉がいます。横浜といっても家の辺りは里山が広がるのどかな場所で、そこが私の原風景。実家は印刷業を営んでいましたが、私が3歳のときに父が突然仕事を辞め、両親と姉と私の家族4人でイタリアへ渡っています。

東京で幼稚園を経営していた祖母が、体調を崩したのを機に転地療法をすることにした。家族と共に移り住んだのが、横浜の中でも自然豊かなその場所でした。ただ幼稚園を引き上げてきたものの、絵描きをしていた祖父にはこれといった稼ぎがない。祖父は反戦の心を貫くために、戦争中に筆を置いた人でした。家族を養うために何か仕事をしなければいけないと必要に迫られた父が、兄弟とはじめたのが印刷業。祖父の専門がエッチングだったので、印刷業を選んだのもその流れだったのではないかと思います。

当時の印刷業は文字を組み合わせて刷る活版印刷が主流で、機械もとても大きなもの。まだ印刷が盛んな時代で、朝から夜中まで絶えることなく一日中稼働していました。家業は軌道に乗っていたけれど、父たち兄弟にとってそれはあくまでも生活の糧であり、誰もずっとその仕事をしたいと考えていた訳ではなかったようです。それぞれがそれぞれの本当にやりたいことを探した結果、父が行き着いたのが幼少の頃から独学で取り組んでいたヴァイオリン制作の道だった。

ヴァイオリン教育のスズキ・メソードを日本に広めた広瀬八朗先生がお若かった頃、東京の祖母の家に下宿をしていて、その縁で幼稚園の子どもたちに音楽教育をしてくれていたことがありました。父も広瀬先生の教え子のひとりです。父が小学校の頃のこと、はじめて買ってもらったヴァイオリンをその日のうちにばらばらにして、さらに家にあった立派なテーブルを壊し、自分でヴァイオリンをつくりなおしてしまったという逸話が残っています。もしかすると父は、当時から楽器を弾くことよりもヴァイオリン自体に興味があったのかもしれません。後に父はヴァイオリン職人の道に進み、父と一緒に印刷業を営んでいた叔父は、スズキ・メソードを広めるためにオーストラリアへ移住しています。

 

母と

 

当時は1ドル360円。ヨーロッパへ行くのはものすごくお金がかかる時代で、きっと大きな覚悟を決めて行ったはず。けれど当初はヴァイオリン職人になると決めていた訳ではなくて、ホテルを転々としながらいろいろな街を家族で渡り歩く日々でした。港町では岸に舟がぷかぷか浮かんでいたり、湖のある避暑地へ行ったら小手毬の花がわっと咲いていたり……。

当時イタリアでコレラが流行っていて、予防接種を受けたら私だけ具合が悪くなってしまった。そんなときに限ってホテルがどこも満室で、犬の寝泊まりする部屋しか空いてないという。昔ながらのヨーロッパの小さなホテルで、仕方なく犬と同じ部屋に泊まることになりました。ものすごく大きな犬と一緒に寝ていたら、暴走族の音が聞こえてきて、とても心細かったのを覚えています。

何を思ったのか、ある日母が突然“クレモナに行きましょう!”と言い出した。特に何か目的があった訳ではありません。後になってわかったことですが、実はクレモナというのは世界的に有名なヴァイオリン工房が集う楽器のメッカのような街。不思議なことに、そうした神がかったことが母にはあって……。そのときも何か啓示のようなものがあったのでしょうか。父はクレモナで工房に入り、ヴァイオリン制作を学ぶことになりました。流転の暮らしもそこで終わり、私は現地の幼稚園に入園しています。けれど私は幼稚園に行くのがものすごくいやで、毎日のように泣いていました。

イタリアにいたのは一年ほど。姉が小学校に入る年齢だったこともあり、家族で日本に戻っています。帰国後姉は小学校に入学しましたが、私は日本では幼稚園に入らずじまい。帰国後も父はたびたび単身イタリアに渡って修業を続け、その後日本でヴァイオリン職人をはじめます。あまり日本では馴染みのない職業ではありますが、最近は目指す人も増えていると聞いています。

 

 

テレビをきっかけにバレエ教室へ

バレエをはじめたのは5才の頃です。イタリアのテレビの天気予報で何故か女の人が踊っているのを見た私が、“こういうのをやりたい!”と言い出したのがきっかけでした。リトミックや体操など母があれこれ調べてみたものの、娘がやりたいのはどうもそういうものではないらしい。知り合いにいろいろたずねた結果、横浜の音楽堂で働いていた父の知人が紹介してくださったのが小倉礼子バレエ・スタジオでした。“小倉先生のお教室がいつも音楽堂で発表会をされているのだけれど、ご父兄の感じがとてもいいのできっといい先生だと思います”と推薦してくださり、教室に通うことになりました。

当時は情報も限られていたし、今のようにあちこちの教室へ見学に行ったり体験レッスンをしてから決めるという時代ではありません。またひとたびその先生についたらずっと同じ先生に習う、という風潮がありました。私も5歳で小倉礼子バレエ・スタジオに入り、その後高校卒業まで小倉先生のお世話になっています。

 

小倉先生と

 

姉妹のうちバレエを習ったのは私だけ。姉は幼い頃からヴァイオリニストになるよう親から託されていて、生まれたときすでに一番小さい子ども用のヴァイオリンから大人用のものまで全て揃えられていたと聞いています。姉はイタリアにいた頃からヴァイオリンを習っていて、その他にもソルフェージュを習い、ピアノを習い、絵を習い、習字やそろばんも習ってと、バレエを習う隙はすでにありません。実は私もヴァイオリンを一時期習っていたけれど、どうもタイプ的に向いてない。まず覚えるのが苦手で、何回弾いても間違えてしまう。それ以前にじっとしているのが苦痛で、しまいには楽器を構えたとたんに“お腹が痛い”と言い出す始末。そんな調子だったので親の期待を背負うことも特になく、姉と違って私は自由に育った感じです。           

バレエの稽古は木曜と土曜の週二回。家から教室まではちょっと遠くて、バス、電車、バスを乗り継いで母と一緒に通ってました。生徒さんは大半が地元の子どもでしたが、私同様電車を乗り継いで来ている人もなかにはいましたね。小倉先生は服部島田バレエ団のプリマとして活躍されたとても美しいバレリーナだったので、彼女の教えを請いたいと遠方から習いに来ていたようです。厚木三杏さんもそのひとり。そのほか同時代に在籍していてプロになった方に岩田唯起子さんがいます。あと同世代ではないけれど、安達悦子さんも小倉先生の教え子でした。安達さんはその後関西に引っ越してしまいましたが、活躍されているという噂はよく聞いていて、私たちにとっては憧れの先輩でした。

最初の頃はレッスンに行っても何もせず、壁に張りついてじっとしているような状態でした。自分からやりたいと言ったはずなのに、教室に行くと緊張して、身体がひゅっと縮こまってしまうんです。母が呆れて“何もしないなら帰りますよ!”と言うのだけれど、頑なに動かない。その状態はかなり長く続いたように思います。私の娘もバレエを習いはじめた頃は、教室に行っても何もせずじっと動かない。そのくせ家に帰ると、“今日はこんなことを習ったよ!”といろいろ披露してくれる。自分の小さい頃と同じだなと思って、何だかおかしくなったものです。とはいえバレエというのはプリエにタンジュと毎回同じことの繰り返し。それがだんだんわってきて、少しずつみんなと一緒にレッスンができるようになりました。

初舞台は5歳のとき。発表会でトリオを踊っています。すごくうれしくて、家で何度も練習しては家族の前で披露していましたね。振付も今だに覚えています。お人形さんを持って、一歩、二歩、歩いて、とんとん。走ってきて真ん中でエシャッペをして終わる……。人形は祖母がつくってくれたもの。作品は小倉先生の振付です。小倉先生は創作するのがお好きで、ご自身のオリジナル作品のほか、お嬢さんが書いた物語を舞踊に置き替えて上演するといったことをよくされていました。発表会は年に一度で、みんなでチャイナを踊ったり、サン=サーンスの『動物の謝肉祭』に小倉先生が振付をした作品を金魚の格好で踊ったこともありました。小倉先生は身の丈以上のことを求めるようなくとはなく、また生徒が競い合うような空気もなかったため、発表会では舞い上がるようなこともなくいい緊張感を持って踊ることができました。

 

中央が中村さん

 

バレエは天職です!

幼稚園には行かずに済んだけど、小学校は行かない訳にはいきません。けれど私はやはり学校がきらいで、毎日学校に行くのがいやで仕方ありませんでした。通学路を歩いていて、学校が向こうに見えてくると、わーっと涙が沸いてきて……。姉はすごくしっかりしていて、下駄箱で私の靴を替えさせて、教室まで連れて行って私を椅子に座らせて、クラスの友だちに“妹のことよろしくね”といつも頼んでくれていました。楽しいはずの給食も、私にとっては大きな苦痛でした。学校に行くと何故か物が食べられなくなってしまうんです。今と違って、給食を残したらダメという教えが一般的だった時代です。昼休みになってみんな外で遊んでいるのに、“食べ終わるまで遊んじゃいけません”と言われて、私はずっと席に座らせられたまま。それでも食べないから怒られて、怒られるからまた学校に行きたくなくなってーー。

運動能力がとびきり高くてダンサーになった人と、運動能力はないけれどダンサーになった人と、ダンサーって二分化されるように思います。私の場合は後者で、運動が苦手なタイプ。体育の授業はきらいではなかったけれど、とにかく走るのが遅いんです。ただ不思議と持久走はいつまでも走れてました。駆け足をしながら“おかしいな、早く走れるはずなのに”と自分でも思うのだけれど、そのスイッチがどうやったら入るのかわからない。泳ぎもダメで、全くのかなづちです。水泳の授業は水の中で歩くことしかできません。中学の担任は体育の先生でしたが、体育の成績は当然悪い。でも中学の二学期に創作ダンスの授業があって、はりきって作品をつくったら、そのときだけ良い点がつきました。

得意科目は数学です。国語も好きだし本もよく読むけれど、漢字を覚えたり書いたりということは苦手なタイプ。古典は好き。高校の担任が古典の先生で、彼の影響で興味を持つようになりました。同じ言葉なのに人間の生活習慣や意識が変わることによって使い方が変わったり、もしくは同じ言葉なのに表現が変わるといったことを研究されている先生で、その授業をきっかけに言葉の歴史や社会との関係性に関心を持つようになりました。

       

 

学校はきらい。だからといってバレエのお稽古が楽しかったかというとそういう訳では全くなくて、先生もぴしっとされていたし、すごく緊張感がありました。私にとってバレエというのは習い事や趣味ではなくて、小さい頃から天職だと思って取り組んでいたところがありました。その気持ちはたぶんバレエを習う前からで、“自分は何かしら身体表現をしていくんだ”という強い気持ちを抱いてた。姉にとっての天職が音楽なら、自分は踊りの世界で生きていくんだと思ってた。あるとき学校で“趣味は何ですか?”と聞かれ、“読書です”と答えました。先生に“バレエを習っているんでしょう? バレエが趣味なのでは?”と言われましたが、私は“バレエは趣味ではないんです”と答えています。小さいのに、今考えるとへんですよね。

何より家にいるのが一番好きでした。私の家は里山のてっぺんにある自然に満ち溢れた場所で、野性の動物もたくさんいます。当時は井戸水で、石炭でお風呂を沸かしていました。今でもあの辺りは乱開発ができないよう保存すべき里山に指定されていて、横浜の中でもプチ観光できるような場所になっています。ある時期、家でものすごい大量の鳥を飼っていたことがありました。ブロイラーは20羽、孔雀や七面鳥はつがいで飼っていて、鴨やチャボ、烏骨鶏もいます。鳥たちがいっぱい卵を生むけれど、たいていそれは私たちの口には入ることなく、野性の蛇に食べられてしまっていましたね。

印刷機械を全て売り払い、そのお金で父が購入したのがスーパーカー。それらの車でスーパーの開店祝いや七夕など地元のイベントに繰り出しては、ポラロイド写真を撮ったり、当時流行っていたスーパーカー消しゴムを売るんです。イベント用なので車も何台か必要で、赤や白のスーパーカーと、車種もときどき変わっていました。当時の我が家は放し飼いの鳥たちと派手なスーパーカーが行き交っていて、かなり不思議な光景だったと思います。さらに父は金魚すくいや綿菓子売りもはじめて、家で綿菓子の機械を試していたこともありました。父がイタリアから帰ってきた後、ヴァイオリン制作をしながらのことです。父が母を連れてあちこちのインベントへ出掛けてしまうので、叔母が家に泊まりに来て私たち姉妹の面倒を見てくれました。合宿生活みたいで、はらはらどきどき毎日すごく楽しい時代でした。そういう歴史があるからか、今でも車が好きなんです。

 

横浜にあった実家。豊かな自然に包まれていた

 

バレエの稽古はずっと週二回。それ以外の日も必ず家で自習をしてました。姉がヴァイオリンを毎日何時間も練習するので、自分だけ遊んでいるのはどうなんだろうという気持ちもありました。ヴァイオリンもそうですが、楽器を習う人は週に一回くらいしかレッスンがなくて、後はひたすら家で練習してる。だから私も習い事というのは家でひたすら自習して、稽古はその成果を見てもらう場所という感覚を持っていた。そういう意味では稽古に対する捉え方がちょっと違ったのかなと思います。

印刷工場だった建物の仕切りを取り払い、簡易的な稽古場を父がつくってくれました。そこが私の自習場所です。小さいけれど、床は木張りで、バーもあり、エクササイズやちょっとしたセンターができる空間もあります。森下洋子さんが解説された本を手本にしたり、アンシェヌマンが入っているカセットに合わせて練習することもあれば、講習会で習ったものをやってみることもありました。またボリショイ・バレエやモーリス・ベジャールバレエ団など、来日したカンパニーのテレビ放映を見ては鏡の前で真似してみたりと、自分で自由にレッスンをしてました。

 

姉と

 

がちがちだった初コンクール

初めてコンクールに出たのは小学校5年生の頃。今のようにいろいろなコンクールがある訳ではなくて、おそらく当時唯一だった東京新聞全国舞踊コンクールに出ています。舞台に出ることによって成長する、というのが先生の方針で、コンクールもその一貫だったのでしょう。舞台で踊るチャンスはほかにもあって、年に一回のお教室の発表会と、日本バレエ協会や日本舞踊協会で先生が作品を上演するときに出演させてもらってました。コンクールはそれらとは違い、ソロを踊ることができる場でもあります。また先生の作品は創作バレエがほとんどでしたが、コンクールの場合は古典作品が課題曲になってくる。最初のコンクールで踊ったのは『コッペリア』です。古典を練習していると、よく小倉先生に“これは型ものですので、そのように踊って下さい”と言われました。古典は古典らしく踊る。それも先生が重視されていたところです。

初めてのコンクールは衝撃の連続でした。楽屋は畳の大部屋で、出場者が一斉に着替えてる。場当たりではみんな我先にと舞台に出て練習をしています。先生がひとりずつ丁寧に場当たりしてくれて、細かく注意をしてくれて……、という教室の発表会とは全然違う。ものすごく圧倒されて、舞台袖にいたらガタガタ震えて思うように足が動かない。すっかり上がってしまって、最初の頃は毎回舞台に出るだけでもうガチガチ。上手く踊れたというようなレベルではなく、もちろん賞どころではありません。

 

 

コンクールに出るようになった頃のこと、小倉先生のすすめで服部智恵子先生に個人レッスンを見てもらうようになりました。黒鳥のヴァリエーションを見ていただいたとき、服部先生が“この演目を踊るにはまだこの子は小さすぎる。ふさわしくないチョイスだったかもしれない。だから今回は賞に結び着かないかもしれないけれど、将来ローザンヌ国際バレエコンクールを目指すといい”と母に助言してくださって。そこで母もローザンヌ国際バレエコンクールの存在をはじめて知り、ひとつの目標として記憶に刻まれることになりました。私が小学校高学年のときなので、ローザンヌ国際バレエコンクールもまだできたばかりの頃だったと思います。

コンクールには定期的に出てました。賞にはなかなかつながらなかったけれど、コンクールの出来に関して小倉先生から何か言われた記憶はないですね。たぶん先生も賞がどうのという感じではなくて、コンクールへ出場すること自体が教育の過程だと考えていらしたんだと思います。先生はおいしいレストランをたくさんご存じで、コンクールの帰りはいつも家族で行かないようなお店に連れて行ってくださいました。コンクールが終わるとステキなお洋服に着替えて、先生とふたりで帰りにおいしいものを食べに行くーー、というのがお決まりのコース。ナンを壺で焼く本格インド料理を食べたのも、目の前で揚げる出来たての天麩羅を食べたのもそのときがはじめてでした。

高校生になったとき、小倉先生のすすめもあって、森龍朗先生のところに週一回レッスンに行くことになりました。森先生は服部島田バレエ団の出身で、そのご縁があったようです。森先生はフランスで踊った経験をお持ちで、私がヨーロッパに憧れを抱いているのを見て、次の段階に進むために紹介してくださったんだと思います。森先生の教室は中野のスポーツクラブにある広くてきれいな総鏡張りのスタジオで、そこに週一回オープンクラスを受けに通っています。          

 

初めて自分で創作をしたのもその頃です。高校に入った頃にはじまった日本バレエ協会のコンクール用に作品をつくったのが私の処女作でした。ドビュッシーのピアノ曲を使ったソロ作品で、『波光』というタイトルをつけました。ただ小倉先生に“ダンスというのは人間の感情に触れないとなかなか表現にならない。『波光』ではなくて『憧れ』に変えた方がいい”とアドバイスをいただき、最終的に『憧れ』というタイトルなりました。

小倉先生はいつもご自身で創作されるので、私もいつか創作してみたいとずっという気持ちがありました。まず主題と音楽と衣裳を決めて、これくらいのペースで創作が進んでーー、という経緯をずっと間近で見てきたので、作品というのはこういう風につくるんだというのが何となくわかっていましたし、特に構えることなく自然とつくるようになった感じです。振付はもちろん音楽や衣裳まで小倉先生がいろいろ助言をしてくださったので、ひとりで悪銭苦闘することもなくスムーズにつくれたように思います。

 

 

母は私がバレエを続けることに懐疑的で、できれば別の道に進んで欲しいと考えていたようです。高校生になると何かと“もうすぐ試験なんだからバレエのお稽古は休みなさいよ”と言われるようになりました。親としてはそれが普通の感覚なのかもしれません。けれど私は大学に行くつもりは全くなくて、だからといってどうするという具体的なプランもなく、バレエを続けたいという気持ちだけが強くありました。とはいえ今ほど情報がオープンでなはなかった時代で、海外のバレエ事情なんてよくわからない。パリ・オペラ座バレエ学校の本を見ていても、劇場はデコラティブだし子どもたちも妖精のようで、自分がやっているバレエとは別世界のもののような気がしてどうも結び着きません。“自分がプロになったら”とか“ヨーロッパに行くならどうする”といったことも皆目わからないし、全く想像がつかない状態でした。

母は私を医者にしたいと考えていて、いろいろな大学の医学部の情報を集めてました。父の家系は代々医者をしていましたが、祖父の代になって誰も跡を継ぐことなく、ひとりが学者になり、ひとりが芸術家になった。次の代で誰かを医者にしようと思ったら、ヴァイオリン制作者とヴァイオリンの先生になってしまって、また誰も跡を継がなかった。じゃあ3代目にあたる私が継ぐかもしれないと、ひとつの期待をかけたんでしょう。でも私は医者ではなくてバレエの道に進みたい。そうと宣言すると、“国際的に認められたらバレエを続けてもいいけれど、そうでなければダメ”と言われました。ローザンヌ国際バレエコンクールで賞をもらって海外に出る足がかりができたけど、もしダメだったらサポートをしてもらえずに、バレエを辞めることになっていたかもしれません。       

自宅で

 

ヨーロッパに渡るきっかけになったのはローザンヌ国際バレエコンクールではあったけど、私の中でそれ以上に多くを学んだのが講習会でした。日本バレエ協会が主催する年に一回のバレエの講習会でバーゼルのピーター・アペール先生に毎年教わり、成長過程を見ていただけたのもいい経験でした。マーゴフォンテインが講習会をしたときは、中学生ながら清水哲太郎さんや森下洋子さんなどプロのバレエダンサーに混ざって参加させていただきました。マーゴに『コッペリア』と『海賊』のヴァリエーションを教わったのも貴重な経験です。

私が小学生の頃、ボリショイ・バレエが神奈川県民ホールで来日公演をすることになりました。私はリュドミラ・セメニャカが大好きで、テープがすりきれるまで繰り返し彼女の踊りを観ていたくらい。ボリショイ・バレエが横浜に来るならば、どうしてもセメニャカに会いたい。父があれこれコネを駆使して大使館とやり取りした結果、特別にボリショイ・バレエの朝のレッスンを見学させていただけることになりました。そこでセメニャカから直々に第一アラベスクを教えていただいたのも忘れられない思い出になりました。

工藤大弐先生の講習会もすごく印象に残っています。工藤先生はパリ在住で、年に一回日本で講習会をされていました。バレエのレッスンって長々と説明を聞かされて、少し動いたと思ったらぱちっと音が止まって説明がまた入り、バーが終わった頃には帰らなければいけなかったりと、注意事項が多くてあまり実際に動けないことがよくあって。けれど工藤先生は一切止めずにどんどんクラスを進めていくので、センターになったとき身体が有効に働いて、今までできなかったことがするするできるようになるんです。さらに講習会ではそれまで触れたことのなかったネオ・クラシック作品を教えていただいたりと、すごく楽しかった覚えがあります。

あるとき工藤先生が講習会の生徒の中から数名をパリに短期留学させるという取り組みをスタートされて、私もそのひとりに選んでいただきました。パリに行ったのは高校二年の冬休み。私にとってはイタリア以来の海外です。パリの印象は、すごい大都市だなということ。工藤先生はパリにある大きな私立のバレエ学校で教師をされていて、先生の担当している上級クラスでレッスンをさせていただくことになりました。先生のお宅は郊外にあって、車で学校に行くこともあれば、地下鉄を乗り継いでレッスンに行くこともありました。先生はパリ・オペラ座バレエ団の公演を観に連れて行ってくださったり、ヴェルサイユ宮殿に連れて行ってくださったりと、レッスン以外の部分でも大変お世話になりました。

外国人に混ざってレッスンをするのは初めての経験です。みんな本当にスタイルが良くて、脚が腰から出ているのかしらと思うくらい。日本人とヨーロッパの人たちでは股関節の状態も違っていて、四番プリエなんてもう見たことのないようなプリエをしてる。そのクラスの生徒は選ばれた人たちだったので、余計に優れて見えたのでしょう。自分とは肌の色も頭の大きさも違うし、すごく違和感がありました。その後フランスのバレエ団に入ることになりますが、日本人でこういう骨格に生まれた私が何で彼らに混ざってチュチュを着て肌を白く塗って踊っているんだろう、という違和感は常に感じていましたね。           

パリにて

 

初の受賞はローザンヌ

ローザンヌ国際バレエコンクールには二回出場しています。一回目は1987年。パリに短期留学している最中で、ローザンヌにはパリから直接行っています。コンクールは高校二年の冬休み明け。それまで数学が一番好きな科目だったのに、向こうに行っている間に授業が進んでしまい、帰国後に受けた試験がさんざんだったのはちょっと悲しい思い出です。

ローザンヌ国際バレエコンクールの課題は古典2曲と創作1曲。クラシックは『海賊』と『ジゼル』、創作は自分で振付けた『風の歌』という作品を踊りました。『風の歌』の楽曲にはピアノの先生から教えていただいた邦楽を使っています。ピアノのレッスンは一応続けていたけど、私は全然弾けないダメな生徒でしたね。レッスンに行くと先生がいつもおいしいおかしを用意してくださっていて、私はそれらを食べながら、私が弾くはずだった曲を先生が弾いてくださるのをのんびり聴いているという……。これでは上達する訳がありません。

先生はたくさんレコードを持ってて、家で聴かないようなタイプの曲をいろいろ教えてくださいました。あるとき尺八で演奏された『風の歌』という曲を聞いたとき、“これで作品をつくりたい!”という気持ちが沸いてきた。今ほどあれこれ込み入ったことを考えずにつくっていたので、創作にしてもやりたいことを楽しくやったという感覚でした。風の音を聴いているのか、自分自身が風なのか、その両方を行ったり来たりするようなソロ作品です。ストーリー性がすごくあるという訳ではなく、抽象的な作品で、白い衣裳を着て踊っています。

        

 

当時のローザンヌ国際バレエコンクールはビデオ審査がなくて、アラベスクやルルベなど決められたポーズの写真を何枚か提出することになっていました。私は森先生が撮ってくださった写真を送り、その後実技審査を受けに現地へ飛びました。コンクールで最初に受けるのがバー審査。それがとても過酷で、バーについた途端にどんどん落とされていくんです。レオタードを着てプリエもせずに、並んだだけで落とされてしまう。ヨーロッパの人はまだしも、日本やブラジルから来てもそう。お金も時間もかけて、希望を抱いてはるばる行くのに、何もしないうちに落とされるなんてショックですよね。審査の過程でどんどんセレクションされていき、ようやく衣裳をつけて踊れるのがセミファイナルです。

私はセミファイナルまで残ることができました。セミファイナルまで残ると、旅費と滞在費が戻ってきます。またローザンヌ国際バレエコンクールのセミファイナリストまでいくとひとつの肩書きにもなって、ヨーロッパのバレエ団に応募するときなどは“ローザンヌ国際バレエコンクールのセミファイナリスト”と記載することができます。日本のコンクールではずっと予選落ちばかりだったので、“あれ、私、セミファイナルまで残ってる。ここまでいけたんだ!”という驚きがありました。それまではコンクールで落とされても、“残念だな”と思う一方で、“たぶん決戦まで行ける人と私ではタイプが違うんだ”と思っていました。でもローザンヌ国際バレエコンクールでセミファイナルまでいったことで、“もうちょっと何か努力したら自分も決戦に行けるんだ”と強く思えた。その努力すべき点が具体的にわかった気がしました。

ローザンヌ国際バレエコンクールのあと、初めて日本のコンクールで賞をいただきました。日本バレエ協会がはじめたアジアパシフィック国際バレエ・コンクールのIBM賞で、賞金が出る賞でした。そのときは『ジゼル』と『海賊』を踊っています。また日本舞踊協会の公演で『レ・シルフィード』の主役を踊る機会をいただいたりと、それまで以上に他の先生に指導していただくことが増えて、すごく刺激を受けました。          

 

 

翌年、再びローザンヌ国際バレエコンクールに挑戦しています。年齢的に受けられるのはそれが最後のチャンスだったので、もう一度挑戦しようと決めました。ローザンヌ国際バレエコンクールにはじめて出たとき思ったのが、“大きなスタジオで踊ったことがないから、もしかすると踊りが小さくなっているのかもしれない”ということでした。小倉先生のお教室は小じんまりとしていたので、トンベ、パドブレ、グリッサードまで思い切り動くと、ジュテを跳ぶスペースがなくなってしまう。二回繰り返す技の場合は両方とも小さく動くか、一回目を大きく動いて二回目を小さく動くか、その逆にするか、チョイスしながらいつも練習してました。大きなお稽古場で踊る必要があるかもしれない。ならばということで、家の前にできたマンションの公園に行って、『海賊』のヴァリエーションをひとりで練習してました。子どもたちが遊ぶ運動場で、運動靴を履いての練習です。

思い出の公園で

 

課題曲の創作作品は中島素子先生につくっていただきました。『雪女』というタイトルで、トゥシューズに白い総タイツ、薄い透けた着物を羽織って踊っています。摺り足ですすっと舞台に出ていって、正座をして振り返るところからはじまります。楽曲は能の中でも乱を思わせるようなもの。冒頭はとても静かで、途中からテンポが変わっていきます。私は般若のお面を持っていて、最後に着物をはらりと置いて、ふっと見るとお面をかぶっていて……。古典は『海賊』を踊りました。ローザンヌ国際バレエコンクールでは公式カメラマンが撮った写真を販売していて、『海賊』のビッグジャンプしている写真を父が購入し、ポストカードをつくってくれました。

決戦は舞台の上で、観客の前で踊ります。楽屋は渡辺レイさんと同じで、席も隣合わせ。レイさんが言うには、“恩恵ちゃんはお人形を持っていて、楽屋でずっとしゃべりかけていた”、それで出番になると“踊ってくるからちょっと待っててね”と言って出て行ったそうです。私は全く覚えてないけれど……。決戦の発表は舞台上で行われます。みんなそれぞれ衣裳を着たまま袖に待機していて、名前が呼ばれると舞台上に出て行きます。ローザンヌ国際バレエコンクールは名前を呼ばれるのが後になればなるほど大きな賞がもらえるので、袖で待っている間はとにかくどきどきしてました。

賞は私のようにバレエ学校に属していない人を対象にしたスカラシップがもらえる賞と、学校に属している人を対象にした賞金が出る賞があります。またスカラシップはより一層の成長を目指すために留学の権利が与えられますが、プロフェッショナル賞はすでにプロとして踊れる状況にありますという意味を持っていて、留学権がないかわりに賞金が出ます。私はプロフェッショナル賞をいただきました。賞がとれなかったらバレエを辞めなければいけなかったけれど、これで無事続けられることになりました。

        

 

vol.2に続く。

 

-コンテンポラリー