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中村恩恵ダンサーズ・ヒストリー vol.4

ネザーランド・ダンス・シアターでイリ・キリアンのミューズとして活躍し、退団後は日本に拠点を移し活動をスタート。ダンサーとして、振付家として、唯一無二の世界を創造する。中村恩恵さんのダンサーズ・ヒストリー。

キリアンとのはじめての創作『Bella Figura』

私がキリアンと一緒にはじめて創作したのは25歳のとき。『Bella Figura』にオリジナルキャストとして出演しています。キリアンとの創作はとても大切な時間で、NDTに在籍していた9年間の中でもとりわけ大きな出来事でした。

振付家のキャリアの中で、キリアンの創作法も時代ごとに変遷がありました。20代と若くしてNDTの芸術監督になったキリアンは、その重責に対する不安を少しでも和らげるため、当初は振付を全部あらかじめつくっておいて現場でダンサーにそれを教える、という方法を取っていたといいます。ただそれも少しずつ変わり、私が入団した頃は、まず創作初日にダンサーが車座になって作品のコンセプトと使用する楽曲を聴き、振りは現場でダンサーと一緒につくっていく、というスタイルが取られていました。

その後キリアンはソノロジー(音響学)の音楽家と仕事をするようになり、そこからまた作品づくりが飛躍的に変わっていきました。舞踊と音楽の創作を同時進行ですることで、楽曲の構成にとらわれず作品をつくることができようになった。キリアンが言葉で何かを伝え、それをダンサーが身体で体現していく、といった即興的な作業も増え、より自由な作品づくりが可能になったように感じます。なかでも『Bella Figura』はキリアンにとって、自由な踊りという新たなひとつの挑戦になった作品でした。

 

『Bella Figura』の新聞評

 

『Bella Figura』のキャストは9人。作品は基本的に男女のデュエットで展開していきますが、私のパートだけはソロでかなり自由に踊るようにつくられています。自由に踊るパートの動きは、キリアンとのやりとりの中から生まれました。例えば、自分の中にある言葉にならないような想い、どんな言語でも言葉にできないような、でも自分の中にしっかり内在している想い、それらを手振りでやってみて、と言われたり。ダンサーとしての個が重視され、自分の存在というものが浮き彫りになっていく。だから同じ役を踊ったとしてもダンサーが違うとまた変わり、決して同じものにはなりません。

とりわけキリアンがよく口にしていたのが、“人間は誰しも目覚めると常に何かを演じているものだ”ということでした。父親だったり、すてきな女性だったり、悪女だったり、あるときは良い生徒だけど、家に帰ると反抗期の娘だったり、みんな常に何かを少しずつ演じてる。“その全ての演技を辞めたときの自分、本当にニュートラルな自分というのはいったいどんな自分なのか?”と、キリアンは問う。問いに対して自分が提示したものが、また次の問いに結びつき、形にならない形で置き換えられる。ひとりの芸術家がゆっくりと成長し、ひとつひとつ年輪を刻み付けていく道程に、ダンサーとして関わっていく。それは何より得難い経験でした。NDT2時代、NDT1の先輩たちが醸し出す何とも言えない雰囲気はどこから来るのだろうといつも不思議に思っていました。キリアンとの創作で、あれはこういう作業から生まれてきていたんだ、ということを改めて実感させられました。

私は第一キャストに加えて第二キャストにも入っていたので、両方の動きを身体に入れる必要がありました。第一キャストの方は比較的ゆっくりとした動きで構成されているけれど、第二キャストは難しい技や早い動きがふんだんに盛り込まれています。私も頑張って早く動こうと思うのだけれど、どうしてもスピーディーとはいきません。それを見ていたキリアンに“もうちょっとスタッカートに動いて”、“うーん、もうちょっとシャープに”、“クリスピーに”、“もうちょっと早く動ける?”と言葉を変えて注意され、しまいには“ねえ、英語わかる?”と呆れられてしまいました。私としては、英語もわかるし、言ってることは全部わかって、ベストを尽くしているのだけれど……。その印象が強かったのか、後々私がカンパニーを辞める頃、“ずいぶん早く動けるようになったね”と言っていましたね。

 

NDTでの新聞評

 

『Bella Figura』の衣裳は赤いドレスで、それは『Arcimboldo』のフィナーレの衣裳が用いられたものでした。『Bella Figura』がつくられる前年にNDTの創立時からファイナンシャル・ディレクターを務めていたカレル・ビルニが亡くなり、彼への哀悼の意とバレエ団創立35周年に向けキリアンが創作したのが『Arcimboldo』でした。NDT1、NDT2、NDT3、さらにハーグのコンセルヴァトワールの生徒も含めた総勢50名が登場する大作です。

Arcimboldoというのは16世紀に活躍した画家で、エンターテインメントの要素を含んだ作品を描いた人物でした。彼の有名な作品に細部が全部野菜で描かれた絵があります。人参や玉葱など野菜を寄せ集めて描かれていて、それでいて離れて見ると人間にしか見えなかったりする。キリアンの『Arcimboldo』もまた全てのパートがモザイクのようにつくられた、短編が集まった作品になっています。作品の終盤、赤いスカートの男性と赤い衣裳の女性ダンサーが舞台に登場し、手の中に持っていたスパンコールをぱっと放つ。そして花火が天井から降ってくる。最後にシューベルトの『冬の旅』と共に時事ニュースが流れて、NDT3のダンサーがゆっくりと舞台上でメイクを落として終わる……。華やかでいて、とてもメッセージ性の強い作品です。

『Bella Figura』のパートナーは当時の私の恋人で、彼と一緒に踊ることができるのをすごくうれしく思っていました。彼はコンセルヴァトワール出身のダンサーで、後にカリブ海の島に移住した男性です。NDTは海外ツアーが多く、治安が悪い場所に行く時は、カンパニーから“ひとり行動禁止”のお達しが下されます。ただツアー先でも常にみんなが団体行動をしている訳ではなくて、リハーサルではまず群舞の練習をして、デュエットの練習をして、ソロの練習をしてーー、といった具合に続くので、出番が終わった人から順々に解散していき、また本番で集合となります。一人行動禁止だと、必然的にデュエットを踊る相手と一緒に行動を共にすることになり、そうなるとやはりパートナーとの関係も近しいものになりがちです。

私がお付き合いした男性はダンサーばかり。やはり一番気が合うし、ダンサー同士だからこそわかることも多い。ダンサーというのは感情のアップダウンも激しく、内面の苦しみを常に個々で抱えています。それらを全てひっくるめて尊重し、受け入れていかないと、なかなか一緒にいるのは難しい。とはいえよく知っていると思っていた相手でも、“え、この人ってこんな人なんだ”という部分を舞台上で感じることもよくありました。実生活では見えない側面が舞台に立つと見えてくる、それはすごく不思議な感覚です。

『Bella Figura』の初演は大成功を収め、すぐハーグでの再演が決まりました。キリアンにとって『Bella Figura』は、ある意味エポック的作品だったと思います。即興性の導入や、上半身裸での踊りも含め、従来のキリアン作品とは違った新しい境地があった。それまでは難解な音楽を使った抽象性の高い作品を多く手がけていたけれど、バロック音楽を使ったうつくしく繊細で個人的なメッセージを持つ作品へと変化していった。

キリアンの初期作品の中でも特に『Forgotten Land/Vergessenes Land』は名作と呼ばれ、ツアーでも多く上演されていましたが、『Bella Figura』は次の時代の代表作となり、『Whereabouts Unknown』、『Wing Of Wax』と並ぶキリアンの名作として広く知られるようになりました。

 

『Bella Figura』初演の新聞評

 

『One of a Kind』が退団のきっかけに?

『Bella Figura』と並び私のNDT1時代の代表作となったのが『One of a Kind』でした。ただ『Bella Figura』はうつくしく受け入れやすい作品ではあるけれど、『One of a Kind』はより哲学的で咀嚼するのに労力が必要だったりと、ちょっとテイストの違う作品ではありました。

『One of a Kind』はオランダの憲法記念のためにつくられた作品で、“個”をテーマに扱っています。冒頭、客席に座っていたひとりの女性が舞台へ上がり、いつしか彼女は見ている存在から見られる存在になる。からっぽの舞台で踊る彼女のソロからはじまり、ダンサーたちが群舞やデュオを踊る間も、彼女はそこに居続ける。幕間も女性はずっとひとり舞台上で踊り続け、最終的に暗闇の中に消えていき、場だけがそこに残される。

キリアンは“このメインキャストに抜擢したダンサーはだいたい一年後にみんなカンパニーを辞めると言い出すんだよね。『One of a Kind』という作品自体がダンサーに独り立ちのきっかけをつくる。すごいアイロニーだと思わない?”と言って嘆いていました。キリアンとしてはそのとき一番いいと思うダンサー、育てたいと思うダンサーを起用する訳だけど、この役を踊るとみんなカンパニーを離れてしまう。作品に込められた“個”というテーマが独立を促し、ダンサーとして独り立ちしようと考えさせるのかもしれません。『One of a Kind』は私が27歳のときに初演して、その後2年間踊りました。私の場合はこの作品がきっかけという訳ではないけれど、NY公演でこの作品を踊ったのを最後にカンパニーを離れています。

『One of a Kind』は『Bella Figura』、『Black & White』、『Falling Angels』と並ぶカンパニーの看板作品となり、たびたび上演を繰り返すようになりました。日本ツアーのプログラムにも選ばれ、彩の国さいたま芸術劇場で踊っています。当時館長をされていた諸井誠さんがそれを観て、“うちで中村さんにソロ作品を踊って欲しい”と依頼をしてくださり、それが後に彩の国さいたま芸術劇場でキリアン振付作『Blackbird』を上演するきっかけになりました。

 

NDTでの新聞評

 

不安要素を抱え続けて

足首のケガとその後遺症による腰痛は、長い間私の中の不安要素になっていました。手術をしたものの足首はベストとはほど遠く、完全ではないという状態が続いていました。足首の不調はまた身体全体の不調にもつながり、腰痛の引き金となりました。

NDT2のツアーでドイツを訪れていたときのこと。レストランで食事をした帰り道、氷点下の街中で“あれ、私の腰、何かヘンな感じがする?”と違和感を覚えたのが、私の腰痛人生のはじまりでした。痛みが出ると、立っても、座っても、寝てても辛い。何をしてても辛くて、くしゃみすらできないほど。おまけに下半身に痺れも出る。踊れないほど痛みがひどく、自分の身体とどう向き合っていいかわからない。

NDTには専属の主治医と外科医、マッサージ師、リハビリを兼ねた治療師、トレーナーがいて、5人がチームになってダンサーの健康やメンタルを支えています。またカンパニー内には治療室のほかにジムとサウナとプールが完備され、ダンサーは自由に使って身体を整えることができるようになっています。

腰痛の原因を探っていった結果、腰椎のすべり症だということがわかりました。これは下半身と背中の強さのアンバランスなどなりやすい要素があるらしく、なかなか完全には治りにくいものだそうです。カンパニーの専属医をはじめいろいろな医者に診てもらったけれど、治療法は特にないという。カイロプラクティックなどにも行ってみたものの、治るどころかますますひどくなるばかりです。

あるときオーケストラでヴィオラ奏者をしている姉から、長いことひどいヘルニアに苦しんでいた同僚がカイロと針を組み合わせた治療をしたら劇的に良くなったという話を聞き、休暇で日本に帰国したタイミングでその治療院へ行ってみました。姉の友人も音楽家で、楽器を常に抱えているので腰痛が起こりやすいということでした。

治療の効果は絶大でした。最初は“どうやって家まで帰るんだろう?”というくらい揉み返しが出たけれど、3回通った頃から“あれ、こんなに良くなるの?”というくらいウソみたいに痛みが消えていた。とはいえ完璧に治るものではなく、今でも腰痛は抱えています。

治療に行かない時期が続くとまた痛みが出て、だましだまし動いていると、“痛くなってもしょうがない”といつしか持病のように思えてくる。でもあまり痛いからと先生のところへ行くと、一回で痛みが消える。効きがすごく長いので、例えば夏の休暇時にリセットしたら、次の夏まで元気に踊れたりする。素晴らしい先生との出会いがあり、腰痛も大きく改善されました。

 

『カーモス』の新聞評

 

ダンサー生命を救ったオハッド

腰痛に悩まされていたとき、大きな救いになったのがオハッドの出会いでした。オハッドもヘルニアを患っていて、身体を動かすことで不調を克服する方法を研究してた。当時はまだGAGAとしてメソッドを確立する前で、彼が自分自身の訓練のために使っていたり、クラスを教えるときに取り入れていたようです。

オハッドが創作のためNDTに長く滞在し、その過程で身体の使い方を教わったことで、腰痛を抱えつつ身体が動くようになっていった。腰痛のせいでムリがきかなかったり、あまり身体が使えなかったり、なかなか軌道にのりにくかった時期を経て、オハッドの作品に関わることで少しずつ身体が動きはじめた。自分の身体について知らなかった部分を見出すことができた。それはダンサーとして大きなターニングポイントになりました。ちょうどその頃『Bella Figura』の創作がはじまって、車輪がようやく噛み合い動きはじめた時期でした。

キリアン作品に加え、NDT1時代はオハッド作品を踊る機会もたくさんありました。私の在団時はキリアン作品とハンス・ファン・マーネンの振付作がNDT1の二大柱になっていて、次に多かったのがオハッド作品、さらにマッツ、フォーサイス、ドゥアトの6人の作品を多く上演していました。

“キリアン・ダンサー”といわれるキリアン作品を多く踊るダンサーと、オハッドが常にキャスティングするダンサー、また両方に属す人もいれば、マッツが特に起用する人もいたりと、振付家によってそれぞれ好んで起用するダンサーのタイプがあります。ただツアーに持って行くのは基本的にキリアン作品で、これはもちろんどのダンサーも出演します。またオハッドも大作をつくることが度々あって、そのときはみんな出演してました。あるときオハッドがNDTのために『カーモス』という作品をつくったことがありました。カーモスとは北欧の極夜で、真昼も太陽が昇らずに真っ暗な状態が続きます。

オハッドがNDT1で『カーモス』の創作をしていたとき、キリアンは『Tiger Lily』という難しい作品に取りかかっている最中で、加えて過去のキリアン作品を記録するという作業がカンパニーの中で同時進行で行われていました。いくつかの作品が並行している場合、ダンサーはまず一時間こちらでリハーサルをし、次の一時間はまたこちらの作品の創作をしてと、並行していろいろな作品に携わるのが普通だけれど、そのときは『Tiger Lily』に出演しているダンサーは朝から晩までそこにかかり切りで、記録グループはずっとそれに専念し、『カーモス』のチームはずっとオハッドと創作に打ち込むという、カンパニーが3つに分かれて活動をする形を取っていました。私は『カーモス』チームです。

 

『カーモス』の新聞評

 

NDT2時代もオハッドと仕事をしましたが、そのときはレパートリー化されている作品だったため、オハッドは最後に仕上げをしに来るだけでそれほど密になることもありませんでした。はじめてオハッドを見たときは、“この人なんだかすごく怖そうだ!”と強烈なインパクトがありました。頭が大きく、身体もがちっとしてて、あまり笑うこともないような、どこかとっつきにくい印象です。でもNDT1で一緒に仕事をしてみたら、すごくユーモアがあって懐の深い人だった。

『カーモス』の創作中は、朝のクラスからリハーサルまでオハッドと一日中同じスタジオでずっと一緒に過ごしてました。オハッドのクラスは、プリエやフォンデュを取り入れるなどバレエストラクチャーにのっとった彼独自のレッスンです。腰痛があっても大胆に動けるよう、身体を使うコツがエクササイズ化されていて、そこで触発されたものはとてもたくさんありました。

オハッドはすごく気さくで、みんなをご飯に誘ってくれたりと、仕事以外の時間も一緒に過ごすことが多くありました。『カーモス』のチームに入っていたダンサーは、オハッドとの関係が日に日に深くなっていきました。彼は永遠の少年ではないけれど、インスピレーションの塊のような人。動きに対してすごく厳格で、一見すると曖昧に思える動きでも、身体の使い方に確固たるものを持っています。

彼が見せてくれる動きを同じように動いてみせると、そうではないという。やってもやっても“No、No、No”と言われてばかり。ひたすら“No”と言われ続けていると、だんだん何が正解なのかわからなくなってしまいます。でも他のダンサーを見ていると、オハッドの“No”はすごく明確なんだということがわかる。オハッドが自分の身体を使って動いて見せて、それをまたダンサーがなぞって動いて見せるのだけれど、“No”と言われるものはやっぱり違う。けれどいざ自分が動いてみると、客観的に見えないからそれがわからない。でもひとたび何がオハッドの“Yes”なのかがわかりはじめると、すごく自由になってくる。私自身が作品をつくるときも、一瞬曖昧に見えてもそれは意外と曖昧ではなかったりする。そういう部分はオハッドと共通するものがあるように感じます。

 

『カーモス』の新聞評

 

念願叶ったマッツとの創作

マッツとの創作で思い出深いのが『Sort Of』。マッツがNDT1のためにつくった大作で、かなり長い期間NDTに滞在して創作をしていました。

私がはじめてマッツの作品を観たのはカンヌ・ロゼラ・ハイタワー・バレエ学校に留学していたとき。カンヌで開催された国際バレエ・フェスティバルに出品された彼の振付作を観て、“こんな作品があるんだ!”と大きな衝撃を受け、以来自分の中に“いつかマッツの作品を踊ってみたい!”という強烈な想いを持ち続けるようになりました。なのでマッツとの創作はとても感慨深いものがありました。

『Sort Of』はポーランドの現代音楽家・グレツキの楽曲に振付けた作品で、非常に抽象的でありながら具象的な要素も加わった作品です。私の衣裳はふにゃふにゃとした柔らかいドレスで、バレエシューズのような靴を履き、お腹の中に風船を入れ、妊婦のような姿で登場します。そこへひとりの男が近づいてきて、風船をバンッっと割られ、ワーッと気が狂うーー、という強烈なパートです。表現も強烈なら動きも強烈で、はじめはなかなかマッツの求める動きが上手く体現できない自分がいました。マッツは自ら繰り返し動きを見せてくれて、またマッツがやるとわからなかった表現もすとんとわかるから不思議です。

マッツはとても言葉が巧みで、動きやニュアンス、表情、シーンであらわしたい心情を、うつくしい単語を使って伝えてくれます。ひとつのシーンがマッツによって言葉に置き換えられ、ニュアンスが形成されていく。私はマッツの選ぶ単語のひとつひとつが大好きで、彼との創作はとても充実した時間でした。

マッツの『grass』という作品も印象に残っています。草むらのステージに、背景には青い空と白い雲が広がり、少し夕陽を帯びている。ラフマニノフのピアノ曲で踊る作品で、出演者は黒いスーツの男と赤いワンピースの女のふたりだけ。男が芝の中から生まれ、死に向かっていく。そこへ若い女が関わり、愛の時間があり、やがて男が死に、女だけが残される。私はヨハン・インガーと踊りました。ヨハンとはとても仲が良かったけれど、背丈の関係でなかなか彼と組む機会がなく、そのときはじめて一緒に踊ることができました。

当時よくペアを組んでいたのが、恋人のユーリと『Blackbird』で共演するケン・オソラ。そのほか、後に芸術監督になるポール・ライトフットとも踊っています。私はキリアン作品のラストでロングドレスを着てゆったり踊るシーンに配置されることが多く、その相手役に背が高くて手脚が長いポールがキャスティングされることがありました。ポールはかなり若い頃から振付の才能を発揮していて、私が入団した頃にはもうNDT2に彼の作品がレパートリーとしてあり、私も何度か彼の作品を踊っています。彼は入団したのもかなり早く、若くしてダンサー兼振付家として活躍してた。NDTの中でも選りすぐりのエリートでした。

 

1996年の新聞評

 

ワークショップから生まれた振付家たち

毎年イースターの夜に、NDT1、NDT2、NDT3がそろって出演するチャリティー公演があり、それがまたダンサーが自身の振付作を発表するワークショップの場になっていました。ワークショップで優れた作品があるとカンパニーがレパートリーに取り入れることがあり、金森穣さんの作品『アンダー・ザ・マロンツリー』もそこからNDT2のレパートリーになり、ドゥアトの『ジャルディ・タンカート』という有名な作品もそれがきっかけでレパートリー化されました。

またワークショップで優れた作品を発表したダンサーに“NDT2に作品提供してみませんか”と声がかかることもあれば、その後“NDT1に作品を提供してみませんか”とオファーに繋がることもある。NDTの元ダンサーで振付家として芽が出る人はたいていそうして見出されていて、ポールのパートナーのソル・レオンや後に入団するクリスタル・パイト、そしてマルティーノ・ミューラーもそのひとり。マルティーノは私が入団した頃にNDT2のために作品をつくり、続いてNDT1にいくつか作品をつくり、その後ミュージカル『ノートルダム・ド・パリ』を手がけています。

 

 

ワークショップでの発表は希望者が行いますが、私が在籍していた頃は振付が盛んで、出品希望者が大勢いました。ただ発表の場となるチャリティー公演は労働時間外のイベントなので、創作も労働時間外に行わなければなりません。振付をしたい人がたくさんいる一方で、自分の自由時間を割いて出演するというダンサーはある程度限定されていて、そうなるとひとりの人が何作品も掛け持ちで踊ることになる。私は後者で、自分で作品をつくりつつ、何作品も掛け持ちして踊ってました。今思うとすごい体力だったと思います。労働時間外の活動になるので、ツアー先でもどこでも15分でも時間があれば創作に取りかかるという状態です。そうでもして用意をしないと、発表に間に合わなくなってしまいます。

NDT1のツアーでパリに行ったときはパリ・オペラ座が会場で、公演の隙間時間を使ってガルニエ宮で自分の振付作品をつくっていました。ガルニエ宮には小さなスタジオがたくさんあって、空いていれば使いたい放題です。ただオペラ座のダンサーは通常ピアニストの生演奏で練習するので、スタジオの音響システムが整ってないことがよくあります。“あれ、音が出ないね?”なんてあれこれ試していたら、マニュエル・ルグリがふらりとやってきて、“ラジカセ貸してあげるよ”と親切に声をかけてくれたことがありました。オペラ座は地下のつくりもすごく面白い。私はガルニエ宮の迷路のようなつくりが好きで、あの空間で作品をつくることができたのは大きな経験になりました。またカンパニーを退団後のはじめての仕事がオペラ座での教えだったりと、ガルニエ宮にはどこか不思議な縁を感じています。

チャリティー公演はダンサー自身が主体になって行うので、ダンス以外の作業も自分たちで手がける必要があります。例えば広報の担当になってポスターをつくったり、あちこちに掛け合ってそれを貼ってもらったり、制作の担当になって衣裳費用をみんなに分配したり、ケータリングの手配をしたり。それぞれがそれぞれの才能を発揮し、またそこから制作やマネジメントに転向していく人もいます。

私が最初に振付けたのはNDT1にいた26歳のときで、バッハのピアノ音楽を使った自作自演のソロ作品を発表しました。振付をしたのはローザンヌ国際バレエコンクールの課題曲以来です。続いて二作目にウィリアム・ブレイクの詩『一粒の砂の中に』にインスピレーションを得た自作自演のソロ作品をつくっています。このときは友人が作曲をしてくれて、音楽家の女性に歌ってもらい、生音楽で踊りました。ワークショップなのでプロとはいえないし、まだまだ習作ではありましたが、この作品は自分の中でひとつの手応えがありました。NDTで発表したのはその二本。本格的に作品をつくるようになったのは、29歳でカンパニーを離れた後のことでした。

 

 

vol.5へつづく。

 

-コンテンポラリー