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中村恩恵ダンサーズ・ヒストリー vol.6

ネザーランド・ダンス・シアターでイリ・キリアンのミューズとして活躍し、退団後は日本に拠点を移し活動をスタート。ダンサーとして、振付家として、唯一無二の世界を創造する。中村恩恵さんのダンサーズ・ヒストリー。

ノー・プランでNDTを退団

NDTを辞めたときは全くのノー・プラン。“カンパニーを退団した、さぁ、何をしようかな”という状態でした。

もともと将来の展望をいろいろと立てるタイプではなくて、今もそう。例えば数学の問題を解くとする。問題を見て“これならこういう展開で進めば答えまで辿り付きそうだな”と閃きが生まれてきたりするけれど、そこであせって答えを出さずに、あえてひとつひとつ道筋をつけて解いていく。そうすると違うやり方に出会うことがある。もしかするとその方がもっと楽しいかもしれないし、そちらの方が自分の感性に合っているかもしれない。

最初の閃きとはまた違うもの、着実に向き合うことによって得るインスピレーションというのが確かにあって、先に答えを出してしまうと、その先はただすでにわかっているものをなぞるようでつまらない。いつも今に一番近いことをする。今に向き合うことによって、身体や直感がまた新たにいろいろ閃いてきたりする。その作業がすごく大切な気がしています。

新しい作品をつくるするときはたいてい2、3年前から取りかかるので、この先こういうことが待ち受けているというのはわかっているし、そこに向けて構想を練っていかなければいけないというのもわかってる。ただ同時に今やっている課題を今の自分が乗り越えることによって、今信じていることが180度違う価値観に育っていくかもしれないとも考えていて。常にオプションをオープンな状態にしておいて、閃きに従って流されていきたい。そういう状況を常に意識していたいという気持ちがあります。

でもそれはきちんと土台があってのこと。土台の上に柱をつくり、その上に屋根ができてと、ひとつひとつ積み上がって行く作業でなくてはならないし、土台ばかりつくっていても何も完成することはないでしょう。どこかで何かを構築しているというイメージはありつつ、でもひとつひとつの作業をしているときはそこに集中するようにする。

それは長期の展望だけではなく、一日単位でも同じこと。トリプルビルに出演するとする。“今日はこれから3つの作品を踊る”というのはしっかり理解しているけれど、ひとつの作品を踊るときはそこに集中する。“この後の作品でトゥシューズを履くからこういう準備をしておこう”というのではなく、切り替える。それは私の基本姿勢としてあって、ずっとそうしてきたように思います。

迷ったときはまずプリエをする。立ち返る基礎の部分がきちんとあれば、迷子になってもそこに戻ってくることができる。またそこから新しい閃きがあったりする。作品づくりにしてもそう。新しいことを試してはいるけれど、実は5歳からやってきたことの延長でもある。毎回毎回その人生の中の一番最先端にいる感覚です。

展望という訳ではないけれど、カンパニーを辞めた頃、ひとつ興味を持っていた仕事がありました。当時北海で油田の油によりアザラシなど野性動物たちが汚染されていて、大きな社会問題になっていた。とある施設がそれらの野生動物たちを保護し、治療して、また野性に戻すという一連の作業を行っていて、そこでは実地で働きながら環境問題や動物保護全般の知識を身に付けることができるという。そこで働いたらどうかと考え、いろいろ下調べを重ねてました。私自身幼い頃からたくさんの鳥や動物たちに囲まれて育ってきたので、その影響もあったのでしょう。環境問題もそうだし、野性と人間が隣合わせに住むこと、動物たちとの共生に深い関心を持っていたんです。結局具体化はしませんでしたが、もし実際にそこへ行っていたら、今頃アザラシの世話をしていたかもしれません。

退団後の初作品で金賞受賞

ハーグに小さいながらも面白い企画を精力的に手がけている劇場があって、最後のNYツアーから戻ってきたタイミングでふらっとそこに立ち寄りました。私がお邪魔したとき劇場は夏期休暇中で、ディレクターがホールにあるカフェでひとりでコーヒーを飲んでいた。“今日でカンパニー辞めたんです”“これから何をしようかと思って……”と世間話をしていたら、“1月に『Four Steps Forward』というタイトルで新進振付家4人がひと作品ずつ創作する企画を考えている。そこで作品を発表してみないか”と言う。その場で“ぜひやらせていただきます”と答え、作品をつくることになりました。

カンパニーを辞めて半年後の2000年1月、『Four Steps Forward』で新作『Dream Window』を発表しました。退団後はじめて仕事として振付をした作品です。

『Dream Window』は夢窓疎石という庭師がつくった京都の石庭に触発されたのが発想のきっかけになりました。私ともうひとりの女性とのデュエット作で、私たちは白いロングドレスを着て踊ります。衣裳は伸縮する素材でできていて、産道を通って胎児が生まれ落ちるかのようにレースが引っぱられ、もうひとりの女性がそれを着る。ふたりは双子のようでもあり、分身的な存在でもある。大きな墓石を思わせるセットが舞台上にあり、私はその上で踊ります。後から気づいたのですが、私は一貫して墓石や記念碑など死後の世界のようなものをテーマに作品をつくっているようです。『Dream Window』はおそらくその原型なのでしょう。

パートナーの女性はロッテルダム・ダンス・アカデミー出身のダンサーで、とても才能のある人でした。私よりも少し若く、強いものがあり、彼女のことがダンサーとしてとても好きだった。当時彼女はオランダでフリーランスとして活動していましたが、あるとき“あなたが本当にしたいことは何?”と訊ねたら、“フォーサイスがすごく好きでフォーサイスカンパニーに憧れている”“だけど自分にはムリだ、とうてい入れない”と言うので、“諦めたらダメだよ、自分のことを信じてアプローチした方がいい”と伝えました。彼女はその後フォーサイスカンパニーのオーディションに合格し、念願のカンパニー入りを果たしています。

『Dream Window』はオランダのGolden Theater Prize賞を受賞しました。ノミネートされたのは、私とヨハン・インガー、そしてアムステルダムにあるオランダ国立バレエ団の男性ダンサーの3人です。この受賞をきっかけに仕事が舞い込むようになり、だんだんアザラシも遠ざかっていきました。

雇われる立場から雇う立場に

NDTは民営なので、ダンサーは日本でいう厚生年金を積み立てています。舞踊に限らず舞台に関わる芸術家が入る保険のシステムで、私が入団した頃は60歳から年金が支給されることになっていましたが、いろいろ積み立ての方法に変更があり、今は65歳から受給がスタートすることになっています。

カンパニーにはいわゆる退職金というものはありません。それに代わるシステムがふたつあり、ひとつがカンパニーを辞めてセカンドキャリアを始めるまでの期間をサポートするもの。現役で踊っていると、なかなか退職後に何をしようかということまで考えるに至らない。カンパニーを辞めた、次に何をしようと考えて、新しい道が見つかるまでだいたい6ヶ月くらい必要だろうということで、最後に受け取っていた月給とほぼ同じ額が6カ月間支給されることになっています。これは保険のように自分たちが掛けていて、実際にその立場になると支払われます。

もうひとつもやはり自分たちが掛け金を積み立てているもので、10年間その職業につくと、カンパニーを辞めて次の職業探しをするとき最後に支払われていたお給料の何割分かが3年間に渡り継続的に支払われるというシステム。これはキャリアのはじまりが早くてベテランになるのも早ければ終わりも早くきてしまう職業に就く人たち、例えばダンサーやスポーツ選手を対象にしたシステムで、次の道を模索するための学費と生活費として支給されます。

ある人はその3年間で大学に通い直して弁護士の勉強をしたり、なかにはマッサージの学校に通って技術を身につける人もいる。退職金としてぽんとお金をもらう訳ではないけれど、カンパニーを辞めて6ヶ月間この先どうしようと悩み、その後3年間勉強して次のキャリアに滑り出すまで、計3年半はサポートされる。あとオランダは社会保障が安定しているので、カンパニーを辞めて仕事にあぶれても、最悪その保証に頼ることもできる。私はカンパニーを辞めてすぐ振付の仕事をはじめたので、それらのサポートを使ってまた次の道を探すということはありませんでした。ただもしあのとき北海に行っていたら、3年間の保証を使って動物たちを救う勉強をしていたかもしれません。

オランダの場合、仕事をする人間は雇い側と雇われ側に立場が分かれていて、ダンサーは雇われ側の立場になります。誰かが雇ってくれないと仕事として成り立たたないので、基本的に自営というのはあり得ないという考えです。一方振付家は自身が主体となってダンサーを雇う立場なので、仕事を与える側であり、自営業ということになる。私はカンパニーを辞めてもダンサーとして踊ってはいたけれど、退団後は振付家として自営の立場に切り変えています。

オランダではカンパニーを辞めたダンサーが失業補償に移行するための条件として、カンパニーからクビにされ、なおかつ次のカンパニーに就職するためのオーディションを毎月受けていなければいけないという規約があります。移行するための手続きにしても、カンパニーから“このダンサーをクビにしました”という書類を書いてもらわねばなりません。私は退団するまでたくさん舞台で踊っていたので、そうしたダンサーをクビにするのは基本的なルールに則っていないことになる。これだけ踊っているトップダンサーが突然クビにされるのはけしからんということで、訴訟を起こしたりしなければいけない。もちろん私は自分が辞めたくて辞めた訳ですから訴訟など全く考えてはいませんでしたが、“カンパニーを辞めた、じゃぁ失業手当をもらおう”という訳にはいきません。

なかには踊りたいのに辞めされられて、オーディションを受けても仕事が得られず困っているダンサーも実際にいる。そういう人のために保障がある。自分は外国人ではあるけれど、オランダという国できちんと働いていて、きちんと税金を収めることができる。この国の社会保障が安定するのも働ける人が働いているからで、自分は働けるのだからがんばって稼がなければという気持ち、自分が生きていくためというよりは、社会の構成メンバーとして働ける人が働き、働けない人がサポートをしていくという気持ちにそこで切り替わったような気がします。ただ子どもが生まれて託児所に預けるような場面が出てくると、いろいろなサポートを受ける機会も出てきて、こうして働ける人が働いてくれていることで生活が難しいときに保障が受けられるんだということを強く実感させられました。

日本では同じ時期にいくつかの仕事を同時進行で掛け持ちして働くこともできますが、オランダではそれは許されていないので、フリーランスのダンサーは上手くプランニングしなければなりません。例えば新作をつくってパフォーマンスをするまでの期間として、とある劇場と3ヶ月間の契約をしたとする。その3ヶ月間は社会保障や年金制度、13ヶ月分の休みの分の給料に月割りや日割りで換算されるので、専属契約となる。契約もそれに伴う保障もしっかりしているけれど、その分Aと契約しながら同時期にBと契約するというダブル契約ができないよう定められています。

退団したばかりの頃は生活も心配だったし、稼いでおかなければという気持ちも強かったので、仕事が来ると何でも受けてしまいがちでした。けれどひとつの仕事を受けた直後にもっと自分がやりたかったもの、本当にやりたかった仕事が来て、でもそのときもう予定が埋まってしまっている、というジレンマに悩まされるようなことが度々あって。そんなときキリアンに教わったのが、「一度約束した仕事はそのままやるべきだ。後でどんなにいい仕事が来ても、ムリやりねじ込んだり、こちらの方がよかったからキャンセルしてしまおうといったことはしてはいけない」ということでした。その結果次に仕事を選ぶとき、これは本当にやりたい仕事なのか、ただ不安だから入れている仕事なのか、真剣に考えるようになる。もし本意ではなかった仕事でも、その仕事を入れないと生きていけないなら感謝して精一杯やるべきだ、というのがキリアンの考えです。

あのときキリアンに言われたことは、今も自分の中で大きなひとつのルールになっています。仕事は吟味するけれど、一度約束したら精一杯取り組む。その後他の仕事が入ってきて、タイミングが悪く断ることになったとしても、縁があればまた必ず戻ってくる。断るときはこれで縁が切れてしまうと不安になるけれど、“今回はできないけれどすごくやりたいんだ”と伝えておけば、その先に繋がっていく、ということがだんだん身をもってわかるようになりました。

パリ・オペラ座へ教えに行く

『Dream Window』をつくっていた頃、並行してキリアン作品のレパートリーを教える仕事をはじめました。『Bella Figura』、『Pette Mort』、『Falling Angels』、『Sechs Tanze/Six Dances』など、いろいろな作品を教えに世界中のあちこちのカンパニーに行っています。

キリアン作品の教えをするメンバーは3人いて、ひとりは東京バレエ団などにも教えに来ていたハンス・クニールという男性で、もうひとりがオーストラリア人の女性、もうひとりはベルギー人の女性で、NDTに在籍していた元ダンサー。キリアンと同年代で、当時50代・60代の大ベテランです。世界中のいろいろなカンパニーがキリアン作品を上演しはじめた頃で、彼らと手分けしてあちこちへ教えに行きました。

教えの新米だった私はハンスと組んで一緒に教えに行くことがよくありました。というのも彼は膝を痛めていて、なかなか実践で動いて教えるのは難しくなっていた。古い作品は口頭での説明に加えて映像も合わせて見せることでかなり教えられはするけれど、新しい作品や即興性のある作品の場合はビデオを見て踊ると物真似になってしまう。やはり実際に動いてみせつつリードする人間がいてはじめて伝わるものがある。ハンスと組むときは、私がまず現地へ行ってダンサーに教え、後から彼がやって来て作品の仕上げをし、並行して舞台照明、オーケストラとの交渉、プランニング、カンパニーとの話し合いを進め、最後に数日間キリアンが来て最終の仕上げをする、という流れです。

パリ・オペラ座バレエ団に『Bella Figura』を教えに行ったのが最初の仕事でした。そのときハンスは別のカンパニーに教えに行っていて、ジュネーブで踊っていた元ダンサーでバレエマスターになった男性と組んで教えています。

振付家や教える立場の人間は、スタジオではダンサーに向かって鏡を背にして座ります。最初の頃はそこに座るのは居心地が悪くて、いつも緊張してました。パリ・オペラ座の場合はダンサーの中にルグリもいたりと、尊敬する大スターたちが目の前で踊っていて、そこで教えるのは重圧でもあります。ルグリは『Bella Figura』のキャストには入っていませんでしたが、同じプログラムの中にキリアンの作品がいくつかあって、そちらの方へ出演が決まっていました。そのとき『Bella Figura』のキャストに入っていたのは、オーレリー・デュポン、レティシア・プジョル、エルヴェ・モロー、バンジャマン・ペッシュなど。同年代もいれば、私より年上のベテランダンサーもいましたが、みんなすごく親切で、“ここで教えをはじめられて良かったな”としみじみ思ったものでした。

カンパニーによっても違いますが、教えの期間はだいたいひとつの作品につき3週間くらい。週に5日以上、一日3時間以上を教えの時間として割いてもらうことになっています。ただ私が教えはじめた頃は、そこまではっきり決まっている訳ではなかったように思います。おそらくハンスがいろいろ交渉をして、ひとつひとつルール決めていったのでしょう。基本的に現地に滞在して教えることになりますが、ケースによっては分割することもあります。例えばバレエ団のスケジュールがタイトになる前に一週間滞在してあるところまで仕上げておき、その後また時間を置いて2週間教えに行ったり、ということもある。またあるときは私が最初に一週間教えて、ハンスが残りを教えたり、ということもありました。ある程度融通がきく仕事だったので、自分の作品をつくりつつ並行してできたように思います。

ブランデンブルクで作品をつくったときに、作品に出演するダンサーたちのために朝の稽古をつけたことがありました。いわゆる従来のバレエクラスではなく、自分たちの身体づくりをより理解しやすくするためのクラスで、それが教えるということをしたはじめての経験でした。ただキリアン作品を教えるときはクラスの指導はなく、ひたすら振りを教えていた形です。

いずれにせよ人に教えることで自分に返ってくるものはとてもたくさんあるのを感じます。自分自身がダンサーとして作品の中にいるときは、自分の視点から他のダンサーや振付家を見てしまいがち。世界を俯瞰するのではなく、決まったひとつの視点から見る感じ。ただ作品を教えていると、“そうか、このときはこうなっていて、こういうことが起こっていて”と、いろいろ気づくことになる。現役で踊っているときはわからなかったけれど、“こういう全体像の中でこういう役割でここに立っているんだ”ということが辞めてからはじめてわかった。何故これが現役の頃わからなかったんだろうと歯がゆくも思ったけれど、でもあの頃はたぶんわからなかったでしょう。

作品のニュアンスを伝えるのは難しいですね。『Bella Figura』は特にそう。自分の中にある言葉にできない想い、どんな言語でも伝えられないようなものを手振りとして外の世界に伝える、という作業がこの作品には求められるけど、でもそれは個人のものでもある。その人が伝えたいことだから、その人自身が見つけなければならず、手ぶりでは決して真似できません。オリジナルキャストのニュアンスや作品の雰囲気を損うことなく、その人らしさを最大限に引き出さなければいけない。難しいけれど、とても楽しい作業です。

教えの仕事はかなり長く続けていて、子どもを生んでからも娘を連れてあちこちのカンパニーに行っていました。ただ子どもの成長につれ、拘束時間の長いカンパニーに教えに行くのはだんだん難しくなってくる。特に拘束時間が長かったのがパリ・オペラ座でした。パリ・オペラ座はコール・ド・バレエとソリストのルールが違っていて、ソリストのように会社でいう役職がつくとルールに縛られず労働時間外も拘束できるようになる。例えば朝9時半からダンサーを呼び出せたり、夜7時半まで居残りをするといったことも可能になってくる。でもそうではないダンサーの場合は拘束できる時間がきっちり決められていて、階級が下になるほど一般的な労働基準で守られています。

またパリ・オペラ座では“なるべくみんなに機会をあげたいから、踊ることはないけれど第5キャストまで手取足取り指導してあげて”という要望がカンパニー側からあって、絶対に踊らないとわかっていながら遅くまでコーチングしなければなりませんでした。お腹の大きいときまで何とか頑張って教えてはいたけれど、子どもが生まれてからはやはりこれはムリだと改めて思った。そうそう子どもを他者に預けっぱなしにもできないということで、パリ・オペラ座の仕事は難しくなっていきました。

ドイツのように比較的拘束時間が短い国のカンパニーの仕事を引き受けるようにしたり、カンパニーに託児所があるところを選んだりと、できる仕事、できない仕事が出てきた。また子どもの教育がはじまると学校を休ませて連れて行くということが厳しくなり、次第に自分たちの暮らしている場所でできることを探すようになっていきました。

Bella Figura

 

-コンテンポラリー