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山田うん『NIPPON・CHA!CHA!CHA!』インタビュー!

振付家/ダンサーの山田うんさんが、如月小春の戯曲『NIPPON・CHA!CHA!CHA!』を舞台化。ダンス版と演劇版の二部構成という異例の上演で、山田さんは振付に加え、演劇作品初演出、さらに自身も役者として出演し女優デビューを果たします。山田さんに発想のきっかけと作品への想い、クリエイションの様子をお聞きしました。

如月小春の戯曲をもとに、山田うんさんが構成・振付・演出を手がける『NIPPON・CHA!CHA!CHA!』。ダンス版と演劇版の二部構成という異例のスタイルでの上演ですが、これは山田さんの発案だったそうですね。

山田>もともとは“この戯曲でダンス作品の創作をしてみないか”というお話でしたが、台本がとても素晴らしかったので、まず演劇で観たいと思いました。この戯曲を煮たり焼いたり切ったり貼ったりとコラージュのようにダンスに落とし込んでいくよりも、言葉のうつくしさ、構造の強さを演劇で観たかった。でも観るにはつくらなければいけないと思いました。

演劇の演出をしたことはなかったので、私にとって言葉を扱うのはとても困難なことでした。ダンスにしてしまおうと思えばいくらでもできたけど、そこは身体より言葉に向き合いたいと思いました。真面目な性格なんです(笑)。

台本は全130ページあります。その限られたページの中で物語を進めていくために、“もっと言いたいことがあるけれど、どうしてもこういう言葉遣いになる”ということが起こっていたと思うんです。またそうやって縛られることで面白いセリフも出てくるでしょうし、遊びや余韻が生まれてきたりもするでしょう。『NIPPON・CHA!CHA!CHA!』の台本には言葉ではないものがたくさん書かれているように感じて、そういった物語の中に入っていけなかったものをダンス版で表現できたらと考えました。

今回はあえて演劇とダンスに分けることで、それぞれの面白さが強調されたり、双方が際立った表現ができるのではないかと考えました。ダンスと演劇は絶対に分けたかったんです。そして、演劇だけ、ダンスだけではなく、両方上演したかった。たぶん私は欲張りなんでしょうね。

『季節のない街』©Naoshi Hatori

ダンス版と演劇版の両方の演出を手がけている訳ですが、クリエイションはどのように進めているのでしょう。

山田>1日のうちダンスの時間が4時間、演劇の時間が4時間、という感じで時間を区切って全く別々に稽古をしています。

演劇版はきちんと台本の通りに物語が進み、ひとつの演劇作品として完結します。ダンス版は台本を完璧に追っている訳ではないので、演劇版とタイムラインは一緒ではないけれど、なんとなく同じ時間軸を見たような感覚になるようにつくっています。演劇版の後でダンス版を上演しますが、この両者はリンクして見えるでしょう。

演劇はみんなで台本を読むところからはじめて、そこからどういうテンポや音程、ニュアンスで台詞を言ったらいいか、というようにひとつひとつ検証しながら進めています。

ダンス版のクリエイションは、まず最初にやや複雑なフレーズの振付を全員に渡しています。今回に限らず、私の作品はたいていこの作業からはじめます。

今回は物語が題材であり、音楽に振付をするのではなく戯曲をダンスにするので、動きも人と人との関係を連想させるようなものを考えています。また『NIPPON・CHA!CHA!CHA!』の昭和の背景にあった身体性や精神性といったものを凝縮して、身体を動かすとどうなるか。それは具体的な物語を連想させるものではなくて、苦しいとか楽しいといった人間の感情、そして町や丘や山といった日本の風景も含め、生活まで見えてくるような断片が含まれた動きをダンサーに踊ってもらいます。

ダンサーに“こういう動きをつくってみない?”と提案をして、ダンサーが身体で理解する。そこから“じゃあ僕の肉体だったらこういうことができる”というダンサーからの提案があり、そこでダンサーがつくった動きをピックアップすることもあります。それらをとことん練習して、またちょっと違う形のものをみんなでつくったり、私が提案したり、それらをもとにまたダンサーと一緒につくり、生まれたものを再構成して……、の繰り返しです。

小さな物語のような断片が生まれてから、つくったものを一気に編集しました。ある意味映画を編集する作業にも似ているように思います。取捨選択の判断基準は、動きのある種のリアリティと面白さです。そのリアリティや面白さが『NIPPON・CHA!CHA!CHA!』的であり、それを超えているかどうかが大切です。

『モナカ』©Naoshi Hatori

キャストも山田さんが選んだそうですね。

山田>キャストはオーディションで決めました。ダンス版だけ、演劇版だけ出る人もいれば、両方に出るキャストもいます。ダンサーは主に私のカンパニーのメンバーです。ただダンス版の人も街の人として演劇版に出るので、結局両方出演します。そのほか、演劇版には現役高校生に女子学生役で出てもらいます。

主演のカズオ役とハナコ役など主要なキャストは、ダンス版と演劇版の両方に出るという大仕事をしていただいています。役柄を越える魅力と底抜けの体力を生み出してくれる人だと思い選びました。主要キャストに限らず、ひとりひとりについて選んだ理由があります。

主演のカズオ役に関しては、原作の設定と同様に高校生くらいの男の子に演じてもらいたいという想いがありました。なかでもいいなと思ったのが前田旺志郎さんでした。彼は大学一年生でカズオとほぼ同い年です。彼はダンス版にも出演しますが、ダンスは全く経験がなく、初めて人前で踊ることになります。漫才や俳優としてはたくさん芸歴を重ねているけれど、ダンスは全くの未経験で、本当にゼロからのスタートです。身体をどう動かすか、動かせるか、というところからはじめていて、何ともいえないフレッシュなエネルギーそのものだなと感じます。

スタートしたばかりの人にしかつくれないエネルギーや、スタートしたばかりで全く足りてないことだらけでしかつくれない動き、そういうフレッシュなエネルギーというのがこの作品には必要です。前田さんはまだ10代ですから、俳優としても人間としてもこれからきっとどんどん成長していくのでしょう。その初々しい10代のエネルギーというものを、今回この作品で存分に発揮していただこうと思っています。

ダンス版での前田さんはカンパニーのダンサーたちと同じ瞬発力や同じリズムで踊るので、相当大変だと思います。でもそこに食いついていき、そして進化している様子は驚きです。本当に物語を見ているような、夢と現実が混ざったような気持ちになる、そんな稽古の日々を過ごしています。カズオは高校生の役なので、若い少年の姿が見えるようなダンスにすることがまず大前提で、さらに物語の中のカズオが背負っている役割もダンスの中に垣間見えると思います。

山田さんご自身も演劇版に出演し、喫茶店のママ役で女優デビューを果たします。

山田>演劇は経験がないので挑戦したいという気持ちもありましたし、自分でセリフを言うという経験が気づかせてくれることもたくさんあるだろうという期待もありました。ママ役というのは自分で決めました。“これは山田うんがやったら面白いだろう”と思い、そこで“そういえば山田うんって私だったな”と気づいて(笑)。

物語の中でママは20年後に批評家になりますが、そういう俯瞰でものを見ている存在を、演出をする私が演じるというのは悪くないと思いました。

『プレリュード』©HAL KUZUYA

楽曲はヲノサトルさんによるオリジナル曲を使用します。ヲノさんとはこれまでもたびたびタッグを組まれていますね。

山田>ヲノさんには具体的に作品の構成を説明し、そこからヲノさんがつくってくれたものに対してすり合わせていくという作業をしています。私の一方通行だけではないやりとりがあるのでとても面白いですね。

演劇版はヲノさんのバンド「BLACK VELVETS」が出演します。バンドの特徴でもあるムード歌謡のような楽曲を舞台上で生演奏していただきます。

構成、演出、振付、そして女優業と何役も担っていますが、なかでも一番大変だと感じるのは?

山田>全部大変です。でもやっぱり、演劇の演出が一番大変です。壁に突き当たると、すぐ演出助手に相談します。またスタッフや俳優さんたちもたくさんの意見を持っているので、みんなの意見を聞き“じゃあこうしよう”と決めては進めています。

ただ稽古場で出た着地点を家に持ち帰ると、“やっぱり違うかも”と思うこともよくあって。ひとりでしか出てこないものというのもたくさんあります。

『いきのね』©Naoshi Hatori

演劇の演出を初めて経験して、何か発見はありましたか。

山田>言葉というのはダンスよりも日常的に使っているものだから、無意識のうちに口にしていることがとても多いんですよね。特に私は俳優ではないので、あまりよく考えずにやり過ごしてきたことが多くて。お芝居にするからには全て意識的でありたい。でもあまりにも無意識だった時間が長かったので、意識に置き換える作業にすごく時間がかかります。

それに“何か違うぞ”と思っても、どう直せば自分が聞きたい言葉になるのかというノウハウが私には欠けている。すごく悩んだり悔しかったり気づきもあったり、いろいろな想いを抱きながら稽古をしています。迷ったとき判断基準になるのは如月さんの言葉です。100%台本です。

『プレリュード』©HAL KUZUYA

この台本にそこまで惹かれる理由はどこにあるのでしょう?

山田>20年くらい前、如月さんのお芝居を観たことがありました。そのとき私が観たのは『NIPPON・CHA!CHA!CHA!』とは全く違って、誰が何の役なのかすらよく分からない抽象的な作品でした。『NIPPON・CHA!CHA!CHA!』は如月小春さんの作・演出された作品の中ではちょっと特別な位置付けだったように思います。初演は1988年で、世田谷美術館の庭で野外劇という形で上演されたそうです。

今回『NIPPON・CHA!CHA!CHA!』をきっかけに改めて如月さんの戯曲をいくつか読んでみて、こんなに音楽的で知的で美しい戯曲を書く方だったんだなということにはじめて気付きました。20年前に如月さんの作品を観たときは、まだ芝居やダンスを観はじめたばかりで、芝居よりダンスに興味があった。『NIPPON・CHA!CHA!CHA!』をつくってみないかという提案がなければ、自分から取り上げようと考えることはなかったかもしれません。ただ如月さんに影響を受けたという人が私の周りにすごく多くて、ずっと気にはなっていました。『NIPPON・CHA!CHA!CHA!』の本にこれだけ惹かれるということは、如月さんの台本の中に再現したいと思う作品がもっとあるような気がします。

私自身“言葉と身体というものをどう結びつけることができるだろうか”というのはずっと模索していることであり、一度きちんと言葉に向き合いたいと思っていたところでした。それに2020年はオリンピック・イヤー。2020年だからこそ、この戯曲を再現したい、生身の体でつくってみたい、と迷いなく思えたのかもしれません。

『ワン◆ピース』©Naoshi Hatori

これまでもダンス作品の中で言葉をたびたび扱われていますが、演劇作品の中で発する言葉はまた違うものなのでしょうか?

山田>私が今までダンス作品で扱っていた言葉は翻訳ものや小説が多く、それを私が短いダイアログや台詞に書き直して発するという形を取っていました。なので他人が考えた言葉を話すという違和感はとても大きいものがあります。その人のつくったおにぎりを“どうぞ”と言われているみたいな感じがします。

台詞を発する時の感覚は、言葉をお借りするという感じですね。振付や身体も同じで、私の中には“借りている”という感覚が強くあります。自分で考えたものではあっても借りてるという感覚は大きくて、あまり自分のものという感覚にはならない。何事もちゃんとお借りしてちゃんとお返ししたい、と思っているところがあります。

身体にしてもそうで、とことん使い込むけれど、ちゃんときれいに洗って返しますよ、という感覚がすごくあります。ただそこには返せないものというのがやはりあります。スピリットは絶対に返せないし、借りることのできないものだと思うんです。この作品に関しては、私のスピリットと如月さんのスピリットがどうコラボレーションできるだろうか、という部分があります。

『十三夜』©Naoshi Hatori

ダンス作品で言葉を使う理由とは?

山田>ダンス作品で言葉を扱うときは、私の中で響く言葉であるかどうかで選びます。それをまたどういう風に話したらお客様に刺さるだろうかと考える。単純に言えば、違和感を持つだろうかということ。違和感と刺さるというのはとても大事で、その言葉をどういうリズムで言えばみんなを他次元へ連れていけるだろうか、を考えます。

言葉と身体を完全につなげることはとても難しい。言葉を喋っているように踊りたいし、歌ってるようにも踊りたい。そういうないものねだりって、ひとつの芸には必ずあると思うんです。その矛盾が重なるギリギリのところまで攻めていくことでしか、説得力や感動を立ち上げらせることが今の私にはできない。

言葉は土着的なものであり、人それぞれに独特なものですよね。土着は私がずっと大切にしているもの。言葉を発しない作品でもその裏には非常にたくさんの土着や言葉があります。

私は都会の洗練されたものよりも、地方や民族といった独特な雰囲気や色合いに惹かれます。そのご当地にしかない空気や匂い、味みたいなものに特別な美味しさを感じたりする。私は日本人で日本語を喋って日本語で物事を考えていて、その私が持っている土着性というものをどういう風にしたら踊りになるだろうか、どうしたら世界中に発信できるだろうか、ということを常に考えています。私の持っている民族性みたいなもの、それを作品に反映させたいとずっと思っていて、なので言葉と身体が結びつくということは必須になると思うんです。

『いきのね』©Naoshi Hatori

ダンサーに求めるものも、やはり洗練ではなく土着でしょうか。山田さんがダンサーに魅力を感じるポイントとは?

山田>人にはそれぞれ身体の素質やポテンシャルがあるけれど、そこを超えているかどうかが私の中で基準になっていると思います。その人の生まれ持ったものというのはダンスにとってすごく大事で、それをどれだけ活かすかではなく、超えてこようとしているか。

溢れ出ているエネルギーの大きさというのは、ただ元気なだけとは違います。精神性や体力、弱さも強さも含めたエネルギーの大きさに惹かれます。特に若いダンサーの、その人がまだ自分の何かに気づいてない姿が好き。すごくエネルギッシュなダンサーだけど、あなたはもっとエネルギッシュなんだよ、という部分を引き出したいという気持ちがあります。

完成された美しさということではなくて、泉のようにどんどんどんどんわき出て生まれ変わっていく生命体が好き。もちろん完成された中でそういうことができる方もいるけれど、まだ怖さを知らないような強さや、限界というものがまだ全然わからないようなところへ行ける人、野性味があるダンサーにすごく惹かれます。

『季節のない街』©Naoshi Hatori

ダンサーとしての山田さんや山田作品には野性味が溢れているように感じます。

山田>私の中ではやっぱり借りているという意識がすごく大きくて、自分が借りてる身体をできるだけ面白く遊び倒したいという気持ちがあります。身体というのは肉体だけではなくて、考えや脳も含めたもの。肉体だけに頼りたくなくて、頭も使いたい。

大先輩から見たら、きっと私なんか何も考えてないって思われているだろうなという気もします。または、“考えすぎだ!”とも。私のカンパニーのダンサーはみんな肉体も頭も使ってくれます。私自身はダンサーとしていろいろな意味でそれほど技術を持っている訳ではないんです。テクニックも、私がダンサーたちに要求しているようなものは何ひとつ持ってはいない。私自身は私が望んでいるようなダンサーではないんです。

ただ頭と身体の両方を最大限に使い切りたいという欲があります。頭だけじゃ足りないし、身体だけでも全然足りない。だから両方一緒に抱き合って進んでいくしかないんですよね。

『七つの大罪』©Naoshi Hatori

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