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伊藤キム『家族という名のゲーム』インタビュー!

昨年フィジカルシアターカンパニーGEROを立ち上げ、10年ぶりに創作活動を再開した伊藤キムさん。今年1月の旗揚げ公演に続き、この秋ダンスの祭典Dance New Air 2016で新作『家族という名のゲーム』を発表します。創作にあたる伊藤キムさんに、新作に込めた想いと、カンパニー立ち上げの経緯をお聞きしました。

この秋開催されるダンスの祭典Dance New Air 2016でフィジカルシアターカンパニーGERO第二作であり、世界初演作となる『家族という名のゲーム』を発表します。この新たなカンパニーで家族をテーマに作品をつくろうと考えたのは何故でしょう。

伊藤>まずGEROの目指す活動として“言葉と身体の関係性を見つめてみよう”という大きな枠があり、そこには“生身の身体”“ドキュメンタリー”“コミュニケーション”という三つのテーマが包まれています。生身の身体があり、それをいわゆる物語ではない視点で観察・見つめ、そして生身の身体同士の関わり方・コミュニケーションを探る。人間同士の関係性というのは、対観客でもあります。ただコミュニケーションといっても上手く運んでいるコミュニケーションというよりは、上手くいっていないコミュニケーション、すれ違っているコミュニケーションを主に取り上げていくつもり。僕らが普段生活していても、ウマが合う人もいれば合わない人もいますよね。ちゃんと会話ができる、コミュニケーションが取れていると思っていても、案外そうじゃなかったりする。

 

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外の世界ではもちろん、それは家庭のなかでもよくあること。家のなかのことって、みんなわかっているようで実はよくわかってないんじゃないかと思うんです。僕自身昔からそうなんですが、実家に帰るとあまり親と話をしないんですよね。外では明るく振る舞うけれど、両親の前だとわりとしゅんとしている感じ。この前妻に“実家でお父さん・お母さんと接しているときと、私と接しているときでは態度が違う。あれはよくないんじゃない?”と言われて。冷たいんだそうです。あぁそうかもしれないなとは思うけど、昔からそうだったしなとも考えたりする。やっぱりテレが大きいのか、いちいち言葉にして言わないというか、ひょっとしたらそこは女性と違うところなのかもしれません。

言葉にはしなくても、親は僕のことをわかってる。やっぱりそこは親なんでしょうね。だけど、僕は親のことをわかっていなかったりする。そういう家のなかにおけるお互いの知っている度合いみたいなものって、案外浅いような気がしていて。そのギャップというか、家族のことなのにあまり知らないという現実は、GEROでやろうとしているコミュニケーション・ディスコミュニケーションとどこかで符号するのではないかと考えています。

 

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生身の身体、ドキュメンタリー、コミュニケーションという三つのテーマはどこから浮かび上がってきたのでしょうか。

伊藤>まずは、言葉を使おうというところから始まっています。僕はダンスを観るのは好きだけど、いわゆる芝居はあまり観ない方で、ちょっと言葉は悪いけど、芝居は観ててもつまらないなと思っちゃう。何故かというと、まず物語を追っていくのが面倒くさい。役者の誰々が何々という役を割り当てられていて、話が進んでいき……という感じで、脳みそで理解していかなければならないから。でもダンスはもう少し身体全体で受け止められる感じがあって、だからこそダンスと芝居を比較するとダンスの方が面白いと感じるし、あまり芝居は好きではないなとずっと思っていたんです。

でも言葉を扱うことをやりたいという想いがあって、では物語ではないもので言葉を使うって何だろうと考えた。僕はドキュメンタリードラマは好きで、NHKスペシャルのような番組はよく見ていますが、あれは物語というより現実に起こっていることをとある視点から見つめて、それを人に提示していますよね。そのやり方ができないかと考えたのがひとつ。そこに必ずあらわれてくるのが生身の身体。ダンスをやっていたせいもあり、人の身体というものは絶対に必須だと思っていて。人の身体がそこにぽんとあるという現実があり、それを客観的に見る。この身体は何だろう、この身体はこのあとどうなるんだろう、何か起こらないのかなと考える。そこに別の身体が入ってくることで、また違ったコミュニケーションが生まれるのか、生まれないのか、というようなことを言葉を介してできたらいいなと考えました。

 

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カンパニー名“GERO”の意味するものとは?

伊藤>戻す、いわゆる吐く、という意味です。ものをつくるというのは自分のなかから本当のことをぐぐっと出す、苦しいなかからひねり出すというか、引っ張り出す感覚があって。吐くときも同じで、できれば出したくない、出したくないけど出てしまう。でもそこに出てきたものは人からもらったものではなくて、自分のなかから出たものなのでウソがないんです。自分がさっきまで内包していたものがぼんと出たという意味では、ものづくりと同じであり、ものづくりはこうあるべきだと思う。芸術はそういうものだと昔から思っていたし、そうじゃないと人が納得しないだろうなという気持ちもあります。

人に見せたくないもの、もしくは普段は外から見えないものが、身体のなかにあるということなのかもしれない。今もそうですけど、ものをつくるときって四苦八苦していて、これでいいのか、いや違う、じゃあこっちか、いや違う……、の繰り返しなんですよね。簡単には出てこない、かなり奥まで突っ込んでなかをまさぐらないと出てこないものは、そうそう人に見せられない。だからこそずっとなかにあるのかなとも思います。

 

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-コンテンポラリー