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田中泯『オドリ』インタビュー!

1978年にパリで運命的な出会いを果たし、3年間に渡りフォトセッションを繰り返してきたダンサーの田中泯さんと写真家の故・田原桂一さん。約40年の時を経て写真展『田原桂一「光合成」with田中泯』を原美術館で開催。展示に加え、期間中は関連イベントとして3度に渡り田中泯さんによるダンスパフォーマンス『オドリ』が上演されます。田中泯さんに、田原さんとのフォトセッション、そしてご自身の表現活動についてお聞きしました。

1978年にパリで田原桂一さんと出会い、以来3年間に渡りフォトセッションを各地で行ってきました。当時の経緯をお聞かせください。

田中>僕の外国デビューは1978年。磯崎新・武満徹プロデュースによりフランスのパリ秋芸術祭で開催された『MA Espace-Temps du Japon』[邦題:『間―日本の時空間』展 ※通称『間』展(まてん)]に出演するため渡航しました。日本から参加したパフォーマーのほとんどが一週間程度の上演でしたけど、僕は3週間現地で踊りました。

当時田原さんはパリで『窓』というシリーズの写真で、多くの賞を受賞してた頃。パリで僕の踊りを見た彼が、写真を撮りたいと言ってきた。僕の方も『間』展を機に“ウチでも踊ってくれ”というオファーがどんどん舞い込んできて、それが何年間分にもなっていた。しばしば海外に行けるようになるから、いろいろな場所で写真を撮ろうと田原さんと話をしたのが始まりです。ただ、話をして決めたのではなく、すでにそういう「状態」に僕らはあったということだろうと思います。以来、アイスランド、ニューヨーク、ローマ、フランスのパリやボルドーと各地を一緒に巡りました。

 

Paris-6 1978 ©Keiichi Tahara 『田原桂一 「光合成」 with 田中泯』

Paris-6 1978 ©Keiichi Tahara『田原桂一 「光合成」 with 田中泯』

 

田原さんに限らず、どんな写真家でも僕は写真のためにポーズをとったことはありません。彼のカメラが僕を写し、僕は全ての瞬間を彼にお任せする。それが一番正しいと僕は今でも思っています。踊りの世界には舞台写真家というのがいて、踊り手はその写真を見て満足してる。だけど僕はそれがどうしても好きになれなくて、そんなものはいらないと思っていた。そういう「商売」の対象に僕は「オドリ」をしてこなかった。

彼の写真を初めて見た時は本当に驚きました。例えば、パリのヴァンセンヌにある学校で、僕は水を抜いたプールの底で踊った。これが最初の僕と彼の「オドリ」でした。彼は「俺の方が踊っているみたいだよ」って言っていたからね。僕の影と体がプールの底にできているんだけど、どちらが影でも構わないような……。 “こんな風に見えるんだ!”と、とても強烈にうれしかったのをよく覚えています。

 

2017年7月 田中泯ソロダンス『TAHARA』plan-Bにて ©Itaru Hirama

2017年7月 田中泯ソロダンス『TAHARA』plan-Bにて ©Itaru Hirama

以来36年間、撮りためた作品はどうして世に出ないままだったのでしょう?

田中>フォトセッションをしていた頃、ふたりでカメラ雑誌を訪ねて行ったことがありました。ただその時先方に「8ページのグラビアにする」と言われて……。田原さんはムッとして、「じゃあ辞めます!」と言って帰って来ちゃった。これが原因の全てではないけれど、ふたりして「今じゃないね。とりあえずしまっておこう!」という話になった。僕らは、確かにはっきりとそのくらい自負があったんです。それからしまい続けて36年。

ただ一度だけ、20年くらい前に田原さんがパリで大きな展覧会を開催した時、僕の頭の写真が巨大なポスターになったことがありました。展覧会の内容は全然違うし、実際にその写真を展示している訳でもないけれど、ポスターだけが僕の写真でした(笑)。

 

Island-11 1980 ©Keiichi Tahara 『田原桂一 「光合成」 with 田中泯』

Island-11 1980 ©Keiichi Tahara『田原桂一 「光合成」 with 田中泯』

 

30年以上お互い連絡を取り合うこともなく、せいぜい風の噂で聞くくらい。ふたりとも全然違う方向というか、もっともっとスピードをあげて生きてきた。ところが2年前に田原さんから突然電話がかかってきて、「泯さん、写真どうしよう?」と言う。久しぶりに会いに行ったら、大きなテーブルの上に写真がバーッと広げられていて、一枚一枚見ていると、僕としても何ひとつとして忘れていないんです。「あ、これはあそこで、これはあの場所で踊った時だ」と言うと、「よく覚えてるね、全部場所がわかるんだ!」と田原さんもびっくりしていましたね。全部覚えていますし、全部の写真について詳しく話ができます。そのくらい僕は自分が踊っていた瞬間のことを忘れない。ほかのことは何でも忘れちゃうけど、「オドリ」だけは忘れない。

 

2017年 3月 テートモダン  BMW TATE LIVE EXHIBITION "TEN DAYS SIX NIGHTS” 中谷芙二子(霧)、坂本龍一(音)、高谷史郎(光)、田中泯(ダンス)©PROCESSARTinc.

2017年 3月 テートモダン
BMW TATE LIVE EXHIBITION "TEN DAYS SIX NIGHTS”
中谷芙二子(霧)、坂本龍一(音)、高谷史郎(光)、田中泯(ダンス)©PROCESSARTinc.

 

その頃すでに彼は肺がんを煩っていた。本人もきっと不安があったんだと思います。もう治ったと言ってたけれど、それから2年で亡くなった訳ですから。展覧会用に新しい写真を撮ろうということで、僕が住んでいる山奥で去年2度ほど撮影をしました。ただ撮っている最中もかなり息が荒くなったり、決して良い状態じゃないことは明らかだった。それでも頑張って撮ってくれていましたね。今回展示する作品の選択は全て田原さんにお任せしています。展示できる状態まで彼は用意していたんです。

 

2017年2月 アメリカンエキスプレス、日本版会員誌 「デパーチャー」グラビア撮影を田原桂一が撮影している時の記録。 ©Madada Inc.

2017年2月 アメリカンエキスプレス、日本版会員誌 「デパーチャー」グラビア撮影を田原桂一が撮影している時の記録。 ©Madada Inc.

フォトセッションを再開して、以前との違いを感じた部分はありますか?

田中>カメラが変わったことが一番大きいんじゃないでしょうか。彼のシャッター音が大好きでしたから。

シャッター音を聞いていると、写真家の嗜好が伝わってくるんです。こちらは裸体ですからね。踊っていると、どこを撮っているか全部わかります。別のカメラマンの撮影で、シャッター音を聞いて“そんな下品な撮り方をしていいのか!”と相手を蹴飛ばしに行ったこともありますよ。音が聞こえなくなるような踊りを踊っている訳ではないし、僕は集中すればするほど覚醒する。今何が起きているかわかって踊っている訳です。

踊っているとどんどん感覚が開いてくる。聞こえ、見え、臭いを感じ……といった強度がより鮮明になる。踊っている時はいつも以上に過敏になっています。人の視線もわかっているし、誰が動いて誰が出ていったかというのも全部わかっています。集中して何も聞こえなくなる、というのはウソだと思う。もちろん職種によってはそういうことが必要なのかもしれないけれど、踊りは違う。踊りでトランスしてる、というのは僕は違うと思います。

田原のシャッター音って言っているけれど、要するに撮影している時の彼の存在、気配は、同じなんですよ。僕には以前と何も変わらない。

 

2017年 3月 テートモダン  BMW TATE LIVE EXHIBITION "TEN DAYS SIX NIGHTS” 中谷芙二子(霧)、坂本龍一(音)、高谷史郎(光)、田中泯(ダンス) © Madada Inc./ Akemi Shiraha

2017年 3月 テートモダン
BMW TATE LIVE EXHIBITION "TEN DAYS SIX NIGHTS”
中谷芙二子(霧)、坂本龍一(音)、高谷史郎(光)、田中泯(ダンス)
© Madada Inc./ Akemi Shiraha

 

 

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