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田中泯『オドリ』インタビュー!

1978年にパリで運命的な出会いを果たし、3年間に渡りフォトセッションを繰り返してきたダンサーの田中泯さんと写真家の故・田原桂一さん。約40年の時を経て写真展『田原桂一「光合成」with田中泯』を原美術館で開催。展示に加え、期間中は関連イベントとして3度に渡り田中泯さんによるダンスパフォーマンス『オドリ』が上演されます。田中泯さんに、田原さんとのフォトセッション、そしてご自身の表現活動についてお聞きしました。

場踊りは即興で踊られますが、事前に何か準備をすることはあるのでしょうか。

田中>準備するのはこの身体だけです。僕は準備したものを踊っている訳ではないし、いわゆる動きの即興とも違います。例えば楽器で普段出していない音を出すとか、フレーズの違いだとか、あるものを並べ変えるのはアドリブですよね。僕の言う即興とは、アドリブと違って、知らない世界に行こうとする意思です。

 

2016年6月 CND主催 公演 田中泯「場踊り」 パリ サンミッシェルにて ©Madada Inc.

2016年6月 CND主催 公演 田中泯「場踊り」 パリ サンミッシェルにて ©Madada Inc.

意思を持ってその場に立つと?

田中>そういうことです。つまり自分に何が起きても受けるよ、ということでもあります。今はみんな技術的な部分を即興と呼んでいるけれど、それは所詮流行の話です。“即興をやろうよ”というのは、“みんなでいろいろやってみようよ”という程度の話だろうと思います。たまたまの意味がちょっと違う。僕の場合はたまたまここに立っている、みなさんの前にいる。この場にいるというのが全て。そこで踊りが生まれれば最高である。

 

2016年4月セシル・テイラー展覧会『オープンプラン』。オープニング コンサートイベント:セシル・テイラー、田中泯、トニー オックスレー ©ホイットニー美術館

2016年4月セシル・テイラー展覧会『オープンプラン』。オープニング コンサートイベント:セシル・テイラー、田中泯、トニー オックスレー ©ホイットニー美術館

踊りはどうやって生まれるのでしょう。

田中>踊りというものをどう捉えているか、どう考えているか、どう感じているか、見に来る人それぞれ違いますよね。その人たちの反応が即返ってきて、彼らとの間に無言のディスカッションが進んでいきます。

でも今のダンサーは今ある踊りの上に立ってやっているから、みなさんがこうすれば踊りだと思ってくれる、というところでしかやっていないと思う。どの時代でも流行するものが踊りとして残っていくけれど、それはヘンですよね。流行に頼るからビジネスになっていく。だから売れる・売れないが問題になってくる。多くの踊りはいわゆるスターシステムになっていて、劇場と契約をして、ひとつの劇場で踊った踊りを場所が変わっても同じように踊っている。時間が違っても同じように踊る。ここでは評価を受けたけどこちらではダメだったとなると、“あそこの客はね…”と場所のせいにする。本当は客が違ったら踊りが変わるべきなんです。本来踊りはそうしてきた時代がいっぱいある。

 

2006年 山梨県、山中湖YBSドラマ『1億人の富士山スペシャルーいつになったら詩人 金子光晴』撮影時の記録 ©Madada Inc.

2006年 山梨県、山中湖YBSドラマ『1億人の富士山スペシャルーいつになったら詩人 金子光晴』撮影時の記録 ©Madada Inc.

 

 踊りはちょっと芸術になりすぎた。他の芸術と違って、踊りは主体性を失ってこそ生き生きとしてくるもの。だから最近は芸術性というより、誰でも踊れる参加型の踊りの方に世の中が関心を持ちはじめてきてる。それは当然のことだと思う。自分と人の間に生まれるのが踊りですから。

時代時代の流行をつくった人たちの名前が残っていくけど、それはその人が凄いのではなくて、踊りが凄いんです。踊りという行為が本当に凄い。踊りは決して特殊な表現行為ではなくて、みんなが持っているもの。言語や動きの障害を持っている人たちが踊れないかといったら間違いで、むしろ彼らの方が踊りらしくなる。踊りというのは、本来動きだけで表現されてこなかったはず。かつては共同体が成立していて、そこには抽象性を理解できる人々の暮らしがあった。たとえば、世界中に残っている民族芸能も、各地域に残っている日本の民俗芸能もそう。あれは今見るともの凄く抽象だけど、根拠を共同体が持っていたからどれほど抽象になってもみんなが感じることができた。抽象というのは感じなければ何も成立しない現象なんです。

抽象の原則とは、抽象化していく母体を持っていること。抽象的と言われて喜んでいる人はばかです。抽象的と言われたら否定しなきゃいけない。“君にはこの飛躍がわからないのか”と言い、そこからもう一度もとになる話ができなければウソなんです。だけど今は、抽象のために抽象をやっている人が増えていますよね。

 

2016年6月 パリ日本文化会館主催 公演 田中泯「場踊り」 パリ日本文化会館中庭 ©Madada Inc.

2016年6月 パリ日本文化会館主催 公演 田中泯「場踊り」 パリ日本文化会館中庭 ©Madada Inc.

ときに大自然の中で踊られることもありますが、いわゆる観客がいない場合の“相手”とは?

田中>土だったり、空気だったり、植物はもちろんそうです。けれど“自然はいいね、森はいいね”という想いだけでは無理ですよね。あそこにある木とここにある木は違うけど、自分の身体と木までの距離というのが何を意味しているんだろうとか、木がどのくらいの葉を持って空までどう向かっているんだろうとか、みんな違う。彼らは目には見えないけど酸素をどんどん放出していて、それにより発するものも全然違う。そういうことまで含めて、見えないところで僕たちは関係している。科学者のように克明にわかるっていう意味ではないけれど、そこまでわかっていかないと、自然というひとくくりで相手にすることはできません。足の裏に感じるものだって、砂地だったらざらさらだったり、斜面だったらでこぼこがあったり。それはもう劇場の床とは全く違います。

 

2017年8月 田中泯「場踊り」  ポルトガル、サンタクルスの海岸にて ©Madada Inc.

2017年8月 田中泯「場踊り」 ポルトガル、サンタクルスの海岸にて ©Madada Inc.

 

 

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