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バレエ、ダンス、舞踏、ミュージカル……。劇場通いをもっと楽しく。

小野寺修二 ダンサーズ・ヒストリー

手がける公演は一年間に10本以上。演出、振付、ダンサーと多彩な顔を持ち、作品ごとに新たな世界を提示する。小野寺修二さんのダンサーズ・ヒストリー。

マイムカンパニー水と油を結成。

マイム研究所に通ったのは二年間。かなり密度の濃い時間だったので、すごく長く通った気がするけれど、実際はたった二年しかいなかったんですよね。最後の研究所公演で高橋淳さんと作品をつくったらそれがすごく楽しくて、“これきりというのはもったいないから何か一緒にやろうよ”という話になった。そこに同期の藤田桃子さんが加わった。マイムカンパニー水と油のはじまりです(後に須賀令奈も加入)。

日本マイム研究所の稽古って不条理なことも多くて、例えばジーンズに穴が空いていたらダメだとか、お辞儀してからスタートするだとか、“これはダメ”というものが理屈抜きであるんです。伝統芸能の世界もそうだと思うけど、ちょっと自分が普段生きてきた世界から浮世離れしていて、カフカの世界みたいだなと思っていたところがあって。

今から考えるとそれがすごく良かったけれど、やってる最中はマイムを続けていきたいのかも含めて模索していたところがありました。水と油も“喋っちゃダメなの?”というところからのスタートだった。マイム研究所で出会ったメンバーではあるけれど、みんな“マイムではないことをやろう”という気持ちになっていたんです。だから、最初はマイムをせずに喋ってました。お芝居みたいなものだとか、くだらないコントとか。

 

水と油『スープ』

 

しばらくして高橋さんと藤田さんが、“喋る方はもっと面白い人がたくさんいるから、やっぱり自分たちは喋らなくていいのでは?”と言い出した。 “とりあえず喋るのはやめてマイムに戻りましょう”ということになり、日本マイム研究所でやってきたようなことを含めて、改めて喋らない作品をつくってみたんです。ところがコントの方も仲間内ながらそれなりに面白がってくれていた人たちがいて、作風を変えたらお客さんがいなくなってしまった。その一方で、喋らない作品に対して“ちょっとこれは面白いかもしれないぞ”という気持ちが僕らの中で芽生えてきた。

ちょうどその頃パルコ劇場でフィリップ・ジャンティーの公演があったり、世田谷パブリックシアターでサイモン・マクバーニーやジョセフ・ナジの作品を拝見する機会があって、それらを観ることでマイムの可能性についてうっすらと合致するところがありました。マイムの考えを使って作品にしていくことについて考えはじめた時期だった。

当初は全てが手探りでした。何の経験もない、先達もいない仲間内でのスタートです。劇場側に「ゲネプロはいつですか?」と聞かれても、ゲネプロという言葉自体わからない。それに、メンバーも“じゅんじゅん(高橋淳)”、“ももこん(藤田桃子)”、“おのでらん(小野寺修二)”だったので、完全にピエロ集団だと思われていたみたい。お客さんも集まらないし、苦戦しましたね。あと根本的な問題で、作品もつまらなかった。試行錯誤の連続で、“これぞ自分たちの方法論だ”というものを確立するまで5年くらいかかったと思います。

ただよく5年も、くさらず飽きもせず集まってああだこうだやっていたなとは思いますね。“ここでこうやったらこう見えるじゃん!”みたいなことを、わいわい言いながらやってました。マイムって喋っている人を見ればわかるということはないので、観客の視点を整理して見せていくというところがあって。それは“仮設を立てて試していく”ということなのだけど、自分たちで法則を見つけていくことが単純にすごく面白かった時期でもありました。

当然舞台で生活することなんてできません。当時の住まいは家賃2万円の風呂なしアパート。バイトをしながらサラリーマン時代の貯金を切り崩して食べていました。とはいえその貯金もあっという間に底に行き着くれけど。

 

水と油『見えない男』

 

三人とも水と油が続くとは思ってなかった。本当にムチャクチャだけど、“今が面白ければいい”って思ってた気がする。そもそもスタートが遅かったので、どこかでちょっと諦めてたというか……。一度は社会に出て仕事をしていたし、マイムをはじめたときすでに27歳だったので、何とかしたくても何ともならないこともわかってた。その一方で、“あの劇場で公演したい”だとか、いろいろ大きな野望をお互い口にしていましたね。とはいえそのために具体的に何か行動するという訳でもなければ知り合いが増える訳でもなくて、“とにかくいいものをつくったらなんとかなるんじゃないか”と漠然と流れに身を任せていました。

時代の空気もあったと思います。当時はコンドルズの近藤良平さんや珍しいキノコ舞踊団の伊藤千枝さん、輝く未来の伊藤キムさんなどが頭角をあらわしはじめていたころ。彼らもまだ模索している最中で、成功モデルのケースがなかったし、何をしたら成功なのか誰もわかっていなかった。だからこそ僕らも、“行けるところまで行こう”と思えた。売れたいとかではなくて、“面白いものをつくりたい”と純粋に思ってた。有能な人たちがいっぱいいる中に、僕らも混ぜてもらいたいという気持ちがあった。不思議な時代でした。今思うと、刺激的な時代だったのかもしれません。

 

水と油『スープ』

10年間で活動休止。

水と油の活動期間は1995年から2006年までの10年間。といっても最初の5年間は全く日の目を見ておらず、小さなフェスに出てみたりと、ある意味蓄積だけしていた感じです。転機になったのは2000年に参加した海外フェス。矢内原美邦さん率いるニブロールが前年にフランスのアビニョン演劇祭に行ったと聞いて、僕らも挑戦してみようと考えた。せっかく言葉を使わない作品をつくっている訳だし、外国で発表するというのはひとつの可能性でもある。実際のところほとんど持ち出しだったけど、ムリをしてでもツアーをしようと決めました。

1ヶ月半かけてフランスのアビニョンとイギリスのエディンバラで公演をしました。反響は予想以上で、エディンバラでは賞にノミネートされ、日本では2000年度の東京都主催千年文化芸術祭優秀作品賞をいただきました。僕らは全くの無名だったのに、同時受賞がナイロン100℃と宮城聰さん率いるク・ナウカで、ものすごくテンションが上った思い出があります。

仕事のオファーもいただくようになっていきました。はじめはすごくうれしくて、毎回いただいた課題を無我夢中でこなしていました。でも3〜4年が過ぎた頃、”水と油らしさ”に少しずつ飽きてきてしまった。共同演出でみんなで話し合いながらつくってきていたからこその、方向転換の難しさがあった気がします。気付かない内に守るものができてしまった。少し自分の時間が欲しい、一旦休もうという話になった。

たぶん世の中的にみたら、これからという時期だったと思う。実際“辞めたらダメだよ”といろいろな人に言われたし、制作スタッフや関係者にも“これからでしょう”と止められました。だけど改めてメンバーでやりたいことを言い合ってみたら、だいぶ方向性が違ってた。とにかく一度立ち止まってみようということで、2006年3月、10年間続いた水と油を休止しました。

 

ポーランド公演

 

 

-コンテンポラリー