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熊谷拓明『上を向いて逃げよう』インタビュー!

踊る『熊谷拓明』カンパニーの熊谷拓明さんが、この秋新作『上を向いて逃げよう』を発表。踊りあり、歌あり、芝居ありのダンス劇をもって、ユーモア溢れる熊谷ワールドを繰り広げます。開幕に先駆け、リハーサル中の熊谷さんにインタビュー! 創作の経緯と活動についてお聞きしました。

ミュージカルに憧れてこの世界に飛び込んだそうですね。もともとの夢はミュージカルスターだったのでしょうか?

熊谷>子どもの頃『キャッツ』を観たのがきっかけで、ミュージカルに憧れるようになりました。ミュージカルスターというよりも“とにかく歌って踊るんだ!”という気持ちがあったので、最初は歌も踊りも全部習うつもりでいたんです。けれどジャズダンスをはじめたらどんどんのめり込んでいき、気付いたらダンスに夢中になっていた。

高校卒業後は地元の札幌でジャズダンスのインストラクターをしながら、たまに東京へ行ってオーディションを受けてはバックダンサーとして踊ってました。上京してもしばらくその生活は変わることなく、ジャズダンスのインストラクターをしたり、ときにはバックダンサーとして踊ったり、といった日々。当時はコレといった仕事があった訳でもなくて、半ばいじけてよく朝まで飲み続けていましたね。

 

熊谷拓明『上を向いて逃げよう』

 

あるとき札幌のダンスの師匠からシルク・ドゥ・ソレイユのオーディションの話をいただき、受けに行くことになりました。といっても特定のショーに出演するためのオーディションではなく、シルク・ドゥ・ソレイユのアーティストバンクに登録するためのものです。バレエや即興、パートナリングやジャズダンスなどダンスの審査がひと通りあり、少しずつ人数が絞られていきました。そのほか演技の審査もあって、合図をしたら何割動物になり、次の合図で人間に戻って、という課題が出されたり。一日がかりのオーディションで、計6時間以上あったと思います。

最終的にオーディションには通ったものの、その時点ではアーティストとして登録しただけで、実際にショーに出られるかどうかはわからない。再び連絡があったのはオーディションから二ヶ月後のこと。“ショーに出るための審査があるからこの振付を踊った映像を送るように”との指示があり、YouTubeの映像を観て踊ったものをカナダの本部に送りました。合格したという知らせがあり、二ヶ月後にはカナダに来るようにという。今だったらたくさん迷うけど、あのときは何も仕事がないなと思っていたので、すんなり日本を離れることができました。

 

熊谷拓明『上を向いて逃げよう』

 

現地での生活はいかがでしたか?

熊谷>契約は二年間で、僕は純粋にダンサーとしての採用です。最初の三ヶ月間はモントリオールの本社に滞在し、その後ラスベガスで9ヶ月間ほどリハーサルやゲネプロを重ねました。振付家がロスの人だったということもあり、ダンサーもロスの人間が多かったけど、僕の他にもうひとり日本人いたり、ダンサー以外のセクションにはロシア人やドイツ人もいたりと、世界各地からキャストが集められていましたね。

僕が出演したのは『Believe』という常設のショーで、ラスベガスの同じホテルでずっと上演してました。一日二本で週10本、二年間で計850公演です。一時間半のショーで、とにかくキツかったのを覚えています。きちんと休暇を取れるシステムになってはいたけれど、僕は学生時代に一度も皆勤賞をもらわなかったからと、二年間ずっと休まずショーに出続けました。どこか意地になっていたんです。キャストは全部で50人くらいいて、僕だけが皆勤賞でした(笑)。

今振り返ると経験としては面白かったし、いい思い出ではあるけれど、当時はすごく辛かった。価値観も違っていたし、作品に対してすごく大きなストレスを感じていて、最後の日まで楽屋入りするのがイヤで仕方ありませんでした。現地にいたのは28歳から31歳までの三年間。自分の在り方だとか、どう自分を成長させられるだろうか、ということをひたすら考え続けた日々でした。ちょうど20代を終える時期だったので、たぶん日本にいてもいろいろ考えたと思うけど、より強烈にぐるぐる頭の中をかき回された感がありましたね。

 

熊谷拓明『上を向いて逃げよう』

 

自分の本当にやりたいことが次第に見えてきて、それとショービジネスとのギャップにも苦しみました。ミュージカルをやりたいとずっと思っていたけど、いつしかそうではなくなっている自分に気付いて。それよりもっと前にやりたかったこと、イッセー尾形のDVDを観ては真似したり、おばあちゃんの前で踊って喜んでもらっていた頃の、昔の自分にどんどん戻りつつあったときでした。途中ミュージカルと出会ってちょっと強い熱を燃やしたけれど、実は原点は違ってた。僕の原点にあるイメージは、イッセー尾形、近藤良平、そしてたまにラーメンズ

札幌時代からずっと僕の心の師は近藤良平さんで、いまだにそう。近藤さんを尊敬しながらジャズダンスを踊っていることで、自分の中で混乱することになるけれど。ただそう考えると、コンテンポラリーというか、こういうスタイルになったのは自然といえば自然だったんでしょうね。

二年間の契約を終え、半年間だけ延長してそのままショーに出続けました。契約の更新は可能で、そのまま同じショーに残る人もいれば、違うショーに異動届けを出す人もいます。僕の中では最後の半年間は“日本に帰って何をしよう”と考えながら過ごしていた時期なので、それ以上残るという選択肢はありませんでした。

日本に帰ったら何ができるのかなと探ってみたり、おばあちゃんの前でやってたことにどうやったら戻れるのかと考えてみたり。ネットでいろいろ調べては、“こういう人と一緒なら自分のしたいことができるのでは?”なんてあれこれ模索してました。だけど誰かと一緒にやることで自分のしたい方向に持っていく、という希望は早い段階で捨てましたね。“こういうことをやりたんですけど誰かやっている人はいませんか?”“一緒に舞台に上げてくれませんか?”と言っていてもダメなんだと、本当にしたいことをするには自分ではじめなければムリだなと……。日本に帰って、自主公演をしようと決めました。全くのゼロからのスタートです。

 

熊谷拓明『上を向いて逃げよう』

 

自主公演を手がけるにあたり、最も大変だったことは何ですか?

熊谷>チケットが売れない、ということが何より一番大きな問題でした。“劇場でお待ちしています”と言ったところで、当たり前だけど誰も足を運んではくれません。どうしたら“この人がやっていることは楽しそうだな”と思ってもらえるか、ひたすら考え続けてました。キャストの方々にどうやってギャラを払ったらいいか、というのも大きな課題でした。チケットが売れないならと、作品に関連づけたワークショップをしてみたり、リハーサル以外の活動をすごくたくさんしていましたね。

観てくれる人が少ないということは、自分には公演をする資格がないんだなと思ったこともありました。でも“もう一回くらいふんばるかな”と言い続けている内に、だんだんスタッフの方々も増えてきてーー。この6年間、年に二本の新作をつくっては公演を打ってきました。かっこいい意志を持って続けてきたというよりは、“だって続けているんだもん”くらいの気持ち。続けてきた自分を裏切る勇気が持てない内は続けちゃうんだろうな、と近頃は思っています。

作品が面白いかそうでないかというのは根本的な問題であり、毎回クリアしなければいけないことで、今でもそう。積み重なってはいるけれど、全くのゼロからすぎて正しく積み重なっているかというのはいまだに判断できないところです。いろいろ手を尽くしてはきたけれど、何が集客につながったかというと、とにかく続けてきたことだけだと思います。

 

熊谷拓明『上を向いて逃げよう』

 

 

-コンテンポラリー