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折原美樹『音楽と舞踊の小品集/ラメンテーション』インタビュー!

マーサ・グラハム舞踊団のプリンシパルダンサー・折原美樹さんが、この夏みなとみらいで開催される『音楽と舞踊の小品集』に出演。1931年に初演されたマーサの代表作のひとつ『ラメンテーション』でソロダンスを披露します。開演を間近に控え、帰国中の折原さんにインタビュー! 本作への想いとご自身の活動についてお聞きしました。

18歳でニューヨークに渡り、マーサ・グラハム・スクールを経てカンパニー入りを果たしています。もともとマーサ・グラハム舞踊団を目指していたのでしょうか。

折原>ニューヨークでの最初の留学先はジョフリーバレエ・スクールでした。といっても私はずっとモダンダンスを習っていたので、日本でバレエをしっかりレッスンしていた訳ではなくて。日本で通っていた教室では、まずバレエのバーレッスンをして、その後モダンダンスやジャズダンスを踊る、というようなお稽古をしていましたね。

ただバレエはどんな踊りにとっても基礎になるものだから絶対に必要で、“だったらジョフリーバレエ・スクールがいいのでは?”という周囲の助言もあり留学先に決めました。ジョフリーバレエ・スクールは学生ビザを出してくれたので、それも決め手となった要素でした。とはいえいわゆるバレリーナのようなバレエは習ってこなかったので、学校でも取れるのはせいぜいビギナークラス。それに私自身もともとバレリーナではないので、稽古をしていても“う〜ん……”という感じ。

 

マーサ・グラハム テクニック ワークショップ

 

あるとき友だちが通っていたアルビンエイリーのスクールへ行ってみたら、ホートン・テクニック、グラハム・テクニック、ジャズダンスといろいろなクラスがあって、試しに受けたらすごく面白い。なかでも一番自分にしっくりきたのがグラハムで、何だか身体が自由に動く感じがしたんです。それからはジョフリーバレエ・スクールで朝のバレエクラスを受けて、その後エイリーのスクールに行ってレッスンを受けるようになりました。当時は掛け持ちで一日に4〜5クラス受けていましたね。

エイリーのスクールではスカラーシップをもらえることになりました。エイリーのスクールはアルビン・エイリーとグラハムの舞踊団のトップダンサーだったパール・ラングのふたりではじめたもので、当時はパールがスカラーシップのディレクターを務めていました。エイリーのスカラーシップはディレクターが各人に合ったクラスを決めるシステムになっていて、私のスケジュールの決定権もパールにあります。どのクラスを取るかパールと相談をしていたら、“あなたはジャズはいらないわね、ホートンもいらないわね”と言う。私としてはホートンも取りたかったけど、まだ子どもだったから反抗もできなくて、言われるままにクラスが編制されていきました。結局15クラスのうち14クラスがグラハムで、残りのひとつがピラティスクラス。内心“エーッ!”と思っていましたね。

グラハム・テクニックはレベルによって1・2・3とクラスがわかれていますが、私はいきなり全部のクラスを取ることになってしまった。一番上のレベル3は生徒が5人しかいないような精鋭クラスです。そこに何も知らない私が入ってきたので、先生も驚いたのでしょう。“何であなたがこのクラスにいるの?”と言われ、“スケジュールを組まれて……”と説明したら、“しょうがないわね”と手取足取り教えてくれて。あのときの経験がその後の全てのベースになっていると思います。

 

マーサ・グラハム テクニック ワークショップ

 

そうこうする内に私もどんどんグラハムが面白くなってきて、いつしかみんなから“グラハムクラッカー”というあだ名で呼ばれるようになりました。“どういう意味だろう?”と思っていたら、グラハムが好きでそればかり踊っている子たちのことをグラハムクラッカーと言うらしい。実際のところその通りで、次の学期ではホートンもジャズも取れるようになったけれど、もうそのときはすっかりグラハムが好きになっていて自ら進んでクラスを取っていましたね。グラハムはとにかくテクニックがすばらしい。“こんなテクニックがあるのか、もっともっとこのテクニックを知りたい”と思い、カンパニーの作品を観てさらに“もっとグラハムを習いたい!”と考えるようになりました。

パールはどうして私にあんなにグラハムを薦めたのでしょう。彼女はもう亡くなっていて、ニューヨークのダンスシーンで有名なマーサ・ヒル賞をパールが受賞したときにお会いしたのが最後になりました。そこで“あなたがグラハムのクラスをたくさん与えてくれたから、私はグラハムを好きになったのかもしれません”とお礼を言ったら、彼女はにこにこ笑ってましたけど。

 

マーサ・グラハム テクニック ワークショップ

 

一年間のスカラーが終わった翌年にロナルド・レーガンが大統領に就任し、外国人にはスカラーを出さないという方針を打ち出してきた。私も“スカラーがもらえないなら日本に帰ろうかな”と帰国を視野に考えるようになりました。そんなとき、グラハムのダンサーが2週間のワークショップを開くという話が舞い込んできた。ただし15人限定で、受講にあたりオーディションが開催されるという。私もぜひワークショップに参加したい。オーディションに挑戦し、無事にパスしてテクニックとレパートリーを習いました。

ワークショップ終了の翌日がグラハムのカンパニーとスカラーのオーディション日で、“ワークショップ生は全員オーディションに行くように”とお達しがありました。ところがいざオーディションに行ってみたら、受付で“あなたはアメリカ人じゃないからグリーンカードを持っていないでしょう、だったらこのオーディションは受けられないよ”と言われてしまった。じゃあしょうがないと帰ろうとしたら、先生が通りかかって“どうしたの、あなたはオーディションを受けていいのよ”と言われ、オーディションに参加することができました。

オーディションの後、ディレクターに“スカラーはあげられないけれど、学校に来る気はないか?”と声をかけいただきました。日本に帰ろうと思ってはいたけれど、やはりグラハムをもっと習いたい。親に電話をして“もうちょっとニューヨークにいさせてくれ”と頼み、急遽留学の延長を決めた形です。

スクールに入学したのが1981年で、1983年にマーサ・グラハム・アンサンブルの結成メンバーになり、1987年にカンパニー入りしています。ニューヨークには1979年に行っているので、来年で丸40年を迎えることになりますね。

 

マーサ・グラハム テクニック ワークショップ

 

-モダンダンス