白井晃×首藤康之『出口なし』インタビュー!
今回の作品も含め、白井さんはダンスを積極的に芝居に取り入れているように感じます。
白井>自分は演劇の人間ですけど、もともとダンスが好きで、ダンスに力を入れていきたいという気持ちがあります。ダンスを観るようになったのは80年代からで、一時期は演劇以上にコンテンポラリー・ダンスの舞台を観ていたくらい。神奈川県民ホールにピナ・バウシュ・ヴッパタール舞踊団が来たり、ウィリアム・フォーサイスが来日したり、日本にいろいろなカンパニーが来日していた時期があって、当時はそれこそむさぼるように観ていましたね。そこから刺激を受けたものを自分なりに演劇にフィードバックしてみたり……、といったこともありました。舞踊というものに憧れがあり、演劇作品の中に何か取り込めないかと考えていたんです。
KAAT 神奈川芸術劇場の芸術監督に就任したとき考えたのが、舞踊をひとつの柱として大きく取り上げていきたいということ。一番の願いとしてあるのが、この劇場が演劇、ダンス、音楽、そして現代美術の4つの要素のコンプレックスでありたい、という想いです。そこで上演する作品もまたコンプレックスであれたらと……。そういう意味では演劇と舞踊が複合する今回の作品は自分が思い描いていた表現であり、夢がひとつ叶いそうな予感があります。
芝居とダンスの境をなくすのが目標、ということでしょうか?
白井>境をなくそうと思っていたけれど、境はなくならないんですよね。ジャンルを超えた作品というのは確かに増えていて、ダンス作品の中で喋ったりするケースもあるし、テリトリーというのがぼやけてきてる。いい意味で領域侵犯している部分があるように思います。けれどちょっと間違えると、ただのごちゃ混ぜになってしまう。芝居とダンスが融合することによってお互い遠慮をしてしまって、結果お互いがちょっとゆるくなってしまう危険性もある。どちらも“これくらいでいいんじゃない?”と考えてしまうような、妥協の表現同士がぶつかっていてはダメ。ハイレベルなもの同士がぶつかってはじめて1+1が3になる。
とても注意が必要ですけど、新たな芸術の領域というのはあるかもしれません。だから今回は融合といわず、共存させたいと言っています。演劇は演劇として、ダンスはダンスとして、どちらも強度を保ったまま共存させるというのが目標です。ミュージカルには歌と踊りが共存しているし、演劇作品で芝居と踊りが共存しているものもあるとは思う。ただここまでコンテンポラリー・ダンスの要素と演劇が共存している作品はあまりないと思います。
芝居の途中で突然踊り出すとなると、拒否感を持つお客さんもいるかもしれません。そうならないためにも、踊りに入る瞬間というのをかなり大事にしていて、両者の境目を我々なりにつくっています。例えば、空間に音楽がガッと入った瞬間に芝居から踊りに移行したり……。音楽というのは身体表現に近いものがあって、音楽によって強調されたり引き延ばされたり、凝縮されるような作用がある。演劇の時間というのがリアルな我々の日常的な時間だとしたら、ダンスになった途端にばばばっと動きはじめたらそれは時間を凝縮した非日常的なものになる。その時間の変化というのを少し意識しながらやっているところです。
コンプレックスならではの難しさを感じることはないですか?
白井>それはもちろんあります。ただ我々としては、“こうしたいんだ”という目標値だけは明確に持って進んでいます。それがお客さまにどう見えるか、どう評価していただくか。自分の中で“こう見えたら”というもの、“こういう舞台が観たい”という夢を、中村さん、首藤さん、秋山さんの3人が共存することで描いている感じです。台詞で感情がぶつかっていき、それが身体に転化して表現され、言葉でも表現される。お互いがそれを広げあい、より強度なものになり、いい影響をしあう瞬間がある。互いが相殺してしまうと台無しだけど、1+1が3になりそうな予感がしていて、すごくわくわくしてるんです。
首藤>僕もすごくわくわくしています。白井さんは役者としても少し出演されるので、一緒に舞台に立つのが楽しくて。踊りもそうですが、パートナーが上手いと連れて行ってくれるんです。秋山さんにしても、一緒にお芝居をしていると言葉がどんどん入ってくる。こちらがまだ台本が完全に入っていない状態でも、ちゃんと受け取れるし、また引き出される。“本当に上手い方というのはこういうことなのか”と驚かされます。何だか連れて行ってもらってばかりでいけないなと、僕もがんばらなければなと思っているところです。
首藤さんはダンス作品に限らずストレートプレイやドラマなどにも出演し、近年は役者としても活動の場を広げています。ダンサーとして舞台に立つときと、役者として芝居をするときの違いとは? 両者の切り替えで何か意識していることはありますか?
首藤>自分としてはそんなに変えているつもりはないですね。言葉を発するというのがまず違うけど、舞台に出るときはどちらも自分なので変えようがない。これだけずっと踊っているとダンスの身体である自分の方がむしろ自分にとっての普通になっているので、今回のようにお芝居の“普通”を表現するというのはなかなか難しいものがあります。
役者にとっての普通とは? 舞台と映像の普通もまた違うのではないでしょうか。
白井>舞台表現という意味では、ダンスと演劇は近いものがあります。一方、舞台の演劇芝居とドラマ、映画といった映像表現における芝居はまた違ってきます。演劇にしてもダンスにしても、僕らは常に観客を感じているんです。客席に目線があるということを意識している。でも映像は相手との関係のみで芝居をする。カメラワークを意識はしても、なかなかその先にあるお客さんの目線は意識しなくなる。特に若くて舞台経験の少ない役者は目の前の相手にだけ向けて喋るので、“舞台は相手と自分だけじゃないんだ”と、“相手と喋りながら観客にみせているんだ”と説明します。
ダンスにしても演劇にしても、やはりその場に観客がいるということが絶対的な共通項。舞台に立つときはどこから観られているかという意識は常に働きますよね。どう観られているか、観えているか。“このポジションだとお客さんから観えなくなる”とか、“こっちの方がちょうどいい見栄えになるだろう”といった具合に、お客さんの視線はいつも考えて演じています。
首藤>そのスキルは本当に大事だなと思います。舞台上で後ろを向くとお客さんに声が聞こえなくなるから顔だけ横に向けるとか、上手い方は本当に自然にされている。学ぶことばかりです。
白井>僕らは僕らで学ぶことがたくさんあって。僕に言わせれば、自分にもっと身体的なボキャブラリーが欲しいと思ってしまう。身体表現が必要な芝居で振りをつけたくても、実際どう身体を使っていいかわからないんです。そういう意味でも、この作品では役者ふたりとダンサーふたりがもらい合いをしているような感じがします。
演劇とダンスが共存した異色の本作。身体性を取り入れた演劇作品の魅力とは。またそれをどう提案していきたいと考えますか?
白井>人間って肉体を持っているじゃないですか。感情というのは人間の肉体から生まれるものであり、肉体があるからこそ感情が起こるもの。我々は身体というものを持った生き物なんだ、感情を持った動物なんだということを伝えたい、という気持ちがあります。特に今の時代はどんどん人が動かなくなってきていますよね。世の中便利になって移動距離は長くなっているけれど、自分たちの身体は動かないということがすごく多くなっている。
わざわざ劇場に行かなくても、YouTubeで舞台を観ることができてしまう。どうも身体を失っている、退化しているような気がします。昔は作品に使う音楽を探すとき、タワーレコードやHMVに出掛けては、あちこち自分の足を駆使して見つけていました。そこで頭に入れた音楽だったり本というのは、脳みそだけではなく身体が覚えているんです。
だけど指一本で簡単にダウンロードできるとなると、どうなんだろう。僕もダウンロードはしていますよ。確かに便利ですしね。でもそこで手に入れたものは身体に落ちていくものが少ないし、やっぱり記憶が薄いように感じます。
首藤>ダウンロードで手軽になるのはありがたいことですけど、そこにはコミュニケーションがない。でも昔買った想い出のCDなんて、どういう時期に何処で買ったとか、ひとつひとつ記憶がある。記憶はやっぱり大事にしたいなと思います。
最近は特にそうですが、自分たちが肉体を持っているということを忘れがちですよね。白井さんが以前“言葉は直接的で意味がわかりやすい。言葉は言葉として事実を言うんだ“と、そして“舞踊は抽象的で、その人の内面、感情の動きを肉体であらわしている”と言っていて、その言葉がとても印象に残っています。いろいろな発見がある稽古だし、作品だと思います。観たことのない作品ですし、そうなればいいなと思います。
白井>感情を身体で表現したものをお客さんに実際に足を運んでその目で観て欲しい、という気持ちがあります。ただせっかく足を運んで来てもらっても、そこにもの言わぬ肉体があったら寂しいですよね。それはとても残念な感じがする。だからこそ身体性はとても重要になる。その上で我々は肉体を持った人間で、そこには感情があるんだよ、ということを伝えられたらと思っています。