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笠井叡 舞踏をはじめて <19>

大野一雄に学び、土方巽と交流を持ち、“舞踏”という言葉を生んだ笠井叡さん。その半生と自身の舞踏を語ります。

ドイツでオイリュトミーの様式を学び、舞踏の世界に距離を置く。

一般的に踊りというと、即興、振付、伝統ある様式のいずれかになる。そういう意味でいうと、オイリュトミーは即興でも振付でもなく、オイリュトミーの様式というものを持っている。バレエはパの組み合わせによって作品になるけれど、オイリュトミーはそれともまた違います。アラベスクやピルエットといったバレエのパは振付ではなくバレエ様式であり、振付の原型になるもの。そういう意味でいうと、オイリュトミーの動きは全部様式であり、全て決められている。

言葉をひとつひとつ発声し、それを動きに置きに変えていく。これがオイリュトミーの動きの最初の練習。アルファベットにはそれぞれエネルギーの流れの形があって、“ア”と言うとアの動きになり、“エ”と言うとエの動きになる。母音の“ア”は腕でひとつの点から広がるような形でローマ字のAの形をあらわし、“ウ”は平行をあらわし、“エ”はふたつの直線が交差し、“オ”は球形をあらわし……と、発声すると同時に音の力を身体の動きであらわす。

一年目はまず基礎練習で、発声練習と基本的な母音・子音を声に出しながら身体を動かし、声と動きの結びつきを学びます。慣れてくるにしたがって、詩をオイリュトミーで踊ったり、小説や評論を使って身体全体で声を出したりと、発声の練習とその動きを四年間かけて行っていきます。

オイリュトミーというのは学問から生まれた踊りのようなところがあって、即興の踊りではとても到達できないある厳密な世界へ人間を方向づけることができる。身体を使った訓練はもちろん、座学でもそうしたことを学びます。ドイツに行く前に取り組んでいた即興的なダンスも面白かったけれど、定まった様式や形式の世界を全く知らずに即興というものができるのだろうか、という疑問が私の中にありました。同時に自分の中で一番折り合いがつかなかったのもそこで、オイリュトミーというのは振付ではなく、様式であるということが問題だった。様式の中に入るわけだから、舞踏的な身体が壊れる、即興の力が奪われる傾向があって、それは私が最も苦労したところでした。様式は教育的な意味はあるけれど、それしかできないと見ていてもあまり面白くないのは確か。やはり様式を取り払ったものの方が面白い。けれど身体論にきちんと向き合わないと、今度は逆に踊りが面白くなくなってきてしまう。

オイリュトミーの様式というのは、音の形とほとんど同じ。母音・子音の形を組み合わせて、言葉や会話、詩といったものを動きの形にしていく。そこに即興の要素は一切入りません。決まりごとというのでしょうか、即興の反対です。様式からつくられるので、舞踏のような即興で動くものとは全く身体性が違ってくる。私にとっての舞踏というのは、様式ではなく、言葉に依拠せず直接身体のエネルギーを使うものであり、創造的な力を出すもの。けれどオイリュトミーを学んでいたら、身体の持つエネルギーを言葉の方向に向かってしか使えなくなってしまった。創造の力が本当に使えなくなってしまった。舞踏との折り合いがつかなくなってしまった。私が大野さんや土方さんと共につくってきた舞踏の身体がいったん壊れた。

私にとっては即興で踊る舞踏だけでよかったのかもしれない。けれど、やはり逆のものというのは惹かれるもの。好きだったわけではないけれど、ドイツに行ったからには自分が納得いくまでやろうと考えて、結局6年も時間がかかってしまいました。

1980年5月、フランスのナンシー国際演劇祭に出演。日本の舞踏家たちを集めた企画が組まれ、大野一雄、田中泯、山海塾と共に招かれた。

当時私はドイツでオイリュトミーを学んでいる最中で、フランスで久しぶりに舞踏を踊ることになりました。私の作品は即興で、ピンク・フロイドの曲を二曲使っています。私自身の身体感覚では、これ以上先には行けないという動きができた。舞台の上で自分なりにすごく満足して踊ってた。ただ私が踊っていると、最初はたくさんいたお客がだんだん帰っていき、終わるころには半分以上いなくなっていた。そのとき、自分の踊りの感覚と観客の感覚との間に大きな落差があるのを感じた。舞台のあと、会場に来ていた写真家の神山貞治郎さんに「笠井さん、最高でしたね。でもフランス人が笠井さんの踊りを理解するのはあと50年かかりますね」と言われました。彼はずっと私の踊りを観てくれていた人でした。

それとちょうど正反対の現象が起きたのが、1966年の処女リサイタル。踊りながら私自身“これはダメだ”と思ってた。だけど、お客は異常なほど盛り上がっていた。片や自分の中でベストの域まで踊りが到達したとき、観客はそれを拒絶して帰っていった。舞台が終わった後そんなことをつらつら考え、しばらく舞踏から遠ざかろうと決めた。この先即興の世界にいても、あれ以上のことはできない気がした。舞台活動はもう辞めてもいいかもしれないと思った。それで舞踏という即興の世界から離れ、オイリュトミーという様式の世界に入った。舞踏と完璧に決別しようと決めた。公演はもうしないと決意した。

一方、同じナンシー演劇祭で大野さんは『ラ・アルヘンチーナ頌』を踊り、世界に受け入れられた。会場に来ていた各国のプロデューサーたちが“ぜひうちの劇場に来てくれ”と押し寄せ、大野さんはそこから年間何十本ものステージをこなすようになった。大野さんはナンシー演劇祭をきっかけに世界へ出ていき、“世界の大野”になった。

ナンシー国際演劇祭に先駆け、同年2月にシュツットガルト・トリュビューネで踊ったソロ公演も、舞踏から離れるひとつのきっかけになりました。新聞の公演評は好意的でとてもいい記事を書いてくれたけど、私自身は“何だかこのまま続けていても同じだな”と感じてしまった。自分の思っていることをドイツの人たちに見せることにはたいして意味がないのかもしれない、むしろ自分の知らないことをドイツから吸収する方が自分のすべきことなのではないか、とその舞台で思ってしまった。自己表現でドイツの人たちを喜ばせたいという気持ちがなくなって、私の知らないヨーロッパを知るべきだ、という想いがそこで定まった。

舞踏との決別を決め、オイリュトミーの世界へ入っていった。けれど実はオイリュトミーと舞踏には“共感覚”という大きな共通点があって、それは両者にとって非常に重要な部分でもある。視覚と触覚は別ものだけど、身体の中では離れず奥の方で結びついている。それが共感覚と呼ばれる感覚。例えば舞踏では“色を踊る”ということがある。足の指の先端で“聞く”、指先で“見る”など、いろいろな感覚を別の感覚に置きかえるのは舞踏における基本のひとつ。舞踏は共感覚。舞台に立つときもただ立っているだけではなく、足の裏の触覚に働きかけることで床と身体の結びつきが生まれたり、足の裏を目にして床を見たりする。こういう動きはいわゆるダンスにはなく、独特の共感覚があるから舞踏というのは面白い。

オイリュトミーもまた感覚を大切にしていて、感覚の練習だけで1〜2年と長い時間を費やしてその力を高めていく。感覚の修行というのは非常に奥深く、それだけ練習が必要になる。

ダンスの練習というのは本来感覚的なもの。絶対に必要なのは感覚で、運動量では決してない。どこかの舞踊団が超絶技巧をしてみせるとか、そんなことはどうでもいい。一番大事な側面は運動の仕方ではなく、感覚を使えるかどうか。運動は人間を高めてくれるのではなく、感覚の働きを取り戻すことで人間は生まれ変わる。重要なのは、感覚の力を目覚めさせていくということ。

その昔、奈良平安時代の人々は、青空を見ることだけが無上の喜びで、そこから大きなエネルギーを生み出していた。青空を見て、その喜びを踊る。現代の人間でそれをまともにしようとしているのが舞踏家で、それはまたオイリュトミーと共通しているところでもある。舞踏からオイリュトミーに移行したとき、「笠井は天使館を捨てた」と言われた。けれど舞踏であれオイリュトミーであれ、感覚の力を育てていくという意味では、いずれも大切なものなのかもしれません。

笠井叡 舞踏をはじめて <20> に続く。

 

プロフィール

笠井叡

舞踏家、振付家。1960年代に若くして土方巽、大野一雄と親交を深め、東京を中心に数多くのソロ舞踏公演を行う。1970年代天使館を主宰し、多くの舞踏家を育成する。1979年から1985年ドイツ留学。ルドルフ・シュタイナーの人智学、オイリュトミーを研究。帰国後も舞台活動を行わず、15年間舞踊界から遠ざかっていたが、『セラフィータ』で舞台に復帰。その後国内外で数多くの公演活動を行い、「舞踏のニジンスキー」と称賛を浴びる。代表作『花粉革命』は、世界の各都市で上演された。ベルリン、ローマ、ニューヨーク、アンジェ・フランス国立振付センター等で作品を制作。https://akirakasai.com

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