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笠井叡 舞踏をはじめて <20>

大野一雄に学び、土方巽と交流を持ち、“舞踏”という言葉を生んだ笠井叡さん。その半生と自身の舞踏を語ります。

シュツットガルト・オイリュトミウム二年目の1981年10月、日本全国公演が決定。舞台グループの一員として参加する。 

オイリュトミーの学校には付属の舞台グループがあって、私も在学中からたびたび舞台に出演する機会に恵まれました。舞台グループは海外公演も行っていて、日本ツアーには私も一緒に来日しています。企画したのは長谷川六さんで、私は製作のひとりとして日本との橋渡しのような役目を務めることになりました。

日本公演が決まったとき、せっかくだから私の日本の師匠である大野さんを招いたらどうかという話が持ち上がり、大野さんとオイリュトミー学校のエルゼ・クリンク校長が一緒にワークショップで踊ることになりました。ワークショップの会場は、池袋西武にあったスタジオ200です。

エルゼさんはオイリュトミーの指導者で、私も彼女に習っています。エルゼさんのお父さまはオランダ人で、お母さまはボルネオの現地人。ボルネオがオランダの植民地だったころお父さまが現地でお母さまと出会い、彼女が生まれた。お父さまは彼女をヨーロッパで育てようと考え、船で何ヶ月もかけてオランダに戻ったそうです。なのでエルゼさんは生粋のドイツ人とは違い、ヨーロッパとアジアがミックスされたお顔立ちをされていて、独特の雰囲気のある方でした。

来日公演では、東京のほか、仙台、京都、九州と、日本各地を訪れました。東京公演の会場は日本青年館です。エルゼさんはソロの言葉のオイリュトミーを踊り、舞台グループはべートーヴェンのヴァイオリンのスプリングソナタ、私は日本の俳句をオイリュトミーで踊っています。エルゼさんが日本で踊ったのはそのときがはじめて。大野さんはエルゼさんとワークショップで共演するということで、いろいろ資料に目を通して舞台に臨もうと思ったそうです。だけど後で聞いたら、その資料をなくしてしまったと言っていましたね。 

会場に来たお客さんはみなさんオイリュトミーを観るのははじめてだったと思います。当時はちょうどシュタイナーの教育学が日本で注目されはじめたころで、授業の一番重要な教育過程ということでオイリュトミーに関心を持つ人たちが増えつつあった。だけど舞踏家やバレエダンサーなどダンスの世界でオイリュトミーに関心を持つ人はほとんどいませんでした。

エルゼ・クリンク校長

四年間の過程を経て、シュツットガルト・オイリュトミウムを卒業。舞台グループの一員として活動をはじめる。

最終学年になると、生徒は卒業制作としてオイリュトミーの作品を発表します。私が発表したのは二作品。まずひとつはバルトークの交響曲をもとにしたピアノ曲『コズト』を使ったソロ作品で、バルトークは東ヨーロッパの大地的な力や東洋的な感情、ジプシー音楽の影響が感じられるところが気に入ってのことでした。もうひとつは言葉の作品で、ドイツの詩人ノヴァーリスの『夜の賛歌』を使った作品を発表しています。

学校を卒業した生徒たちの道は、舞台グループに入る人、教育者になる人、オイリュトミーを治療に生かす人の大きく三つに別れます。私は学生時代から舞台グループの公演に参加していたこともあり、自然な流れで舞台グループに入りました。

卒業生のなかから毎年何名かが舞台グループへ入るというのが学校の伝統になっていて、私は同期の3名と共に入団しています。バレエ学校を卒業した人たちが付属のバレエ団に入るようなイメージでしょうか。舞台グループのメンバーは20名くらい。学校で私たちを指導してくれた先生方も所属しています。公演数は年間50ステージほどで、一年間の上演プログラムはだいたい決まっていて、毎年上演するレパートリー的な作品があり、そこに新作も加わります。作品はソロやグループ作品などさまざまですが、私はたいていソロでした。ヨーロッパ人の中にひとりアジア人が入ると体型的にもあまりサマにならないというのが理由のひとつで、あのころはシューベルトの曲で踊ることが多かったように思います。

とりわけ贅沢をしなければ、舞台グループの活動だけで十分生活していけるだけの報酬がありました。私が舞台グループで活動したのは三年間。正直なところ、ずっと舞台グループで活動をしていこうという気はなく、経験のためというつもりでいました。すごく悩んでいた時期です。舞踏に戻ろうという気もなかったし、このままオイリュトミーの世界で何かできるのだろうかという想いもあり、どっちつかずのようなところがありました。

例えばバレエの場合、クラシック・バレエというひとつの伝統様式の中で培われてきた身体訓練や技術をもとにいろいろな作品をつくり出していく。けれど私が大野さんのところで19歳のとき出会ったものは正反対で、身体訓練は一切せずにひたすら自分の内側に起こっていることを動きに変えるという即興の動きだった。様式と即興、その二つの異なったものをどうやって自分の中で結びつけたらいいかずっとわからずにいた。

古典の様式と即興という相反する二つのスタイルがあるとしたら、普通はどちらか一方を選択するものなのでしょう。けれど私はどうも欲張りなところがあるらしく、両方とも極めたいと思ってしまう。古典の世界に入ったら納得いくまでその様式で身体をつくり、反対に即興の世界に入れば納得するまでそれを追求する。正反対のものを両方突き詰めないと自分のしたいことが見えてこない。良いのか悪いのかわからないけれど、それが自分の特徴なのだと思います。

ドイツにいたのは1979年から1985年までの6年間。そこで結局何を得たかというと、言葉の力と音楽の力に目覚めることができた。クラシック・バレエの場合はパを用いないと作品にはならず、勝手に自分の動きを模索するわけにはいきません。それに対して新しい古典のあり方を追求しているのがオイリュトミーで、様式化された言葉を自分の身体に入れて動くので、形から入ることになる。形が決まると、その中に流れているエネルギーを次第に獲得できるようになる。けれどその逆はダメで、形なしに言葉の力には目覚めない。ドイツで朝から晩まで形に没頭した。最初は形しかわからなかったものが、次第に形の持つ力の流れが出てくるようになった。やがて形と力がひとつになり、両方の部分がつくられるようになった。6年間形の世界に没頭した。形式の動きの中にいた6年間でした。

日本では知ることのできない身体の新しい部分に触れることができた。クラシック・バレエという道ではなく、全然別の道から人間の身体の最も深い部分に行く道があるという予感が持てた。それはヨーロッパで得た最も大きなものでした。帰国しようという気持ちになったのは、それを確かに自分の中に持てたから。オイリュトミーの新古典的な力というものを身体の中に獲得することができたのは、自分とってとても幸せなことだと感じています。

笠井叡 舞踏をはじめて <21> に続く。

 

プロフィール

笠井叡

舞踏家、振付家。1960年代に若くして土方巽、大野一雄と親交を深め、東京を中心に数多くのソロ舞踏公演を行う。1970年代天使館を主宰し、多くの舞踏家を育成する。1979年から1985年ドイツ留学。ルドルフ・シュタイナーの人智学、オイリュトミーを研究。帰国後も舞台活動を行わず、15年間舞踊界から遠ざかっていたが、『セラフィータ』で舞台に復帰。その後国内外で数多くの公演活動を行い、「舞踏のニジンスキー」と称賛を浴びる。代表作『花粉革命』は、世界の各都市で上演された。ベルリン、ローマ、ニューヨーク、アンジェ・フランス国立振付センター等で作品を制作。https://akirakasai.com

 

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