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笠井叡 舞踏をはじめて <21>

大野一雄に学び、土方巽と交流を持ち、“舞踏”という言葉を生んだ笠井叡さん。その半生と自身の舞踏を語ります。

1985年、ドイツを離れ、6年ぶりに帰国。舞踏の世界とは距離を置き、オイリュトミーを教えはじめる。

いざ日本に帰ってきたものの、6年間も日本を離れていると、テレビを見ても歌を聞いても何もわからない。何をしても戸惑うことばかりです。何より困ったのは、私の身体が日本のダンス界では全く使いものにならなくなっていたことでした。

帰国後の主な活動は、オイリュトミーを教えることでした。けれど当時の日本はまだオイリュトミーは一般的ではなく、私がそれを踊ってみせたところで日本人には何が何だかわからない。だからといって私自身、ドイツへ行く前のように舞踏を踊ろうという気にはなりませんでした。

オイリュトミーをやってみたいという人はダンス関係者にはなく、習いに来るのはシュタイナー教育に関心がある人や医療の面から興味を持ったという人が大半です。むしろダンス界の人たちには、「笠井が教えているオイリュトミーとかいうものは全然面白くない。何だあんなヒラヒラしたものを着て、幼稚園の踊りみたいなもの」という感じで突き放して見られていましたね。

オイリュトミーの衣裳は薄い二枚の服でできていて、ドレスのような形状の“クライト”と、その下に柔らかい“シュライアー”を着ます。ドイツ語でクライトは“服”、シュライアーは“隠す”や“ヴェール”の意味。男女の唯一の差は襟で、女の人は襟がなく、男の人は襟がつく。ただ私は襟つきではなく、たいてい襟のない衣裳を着ています。

オイリュトミーと舞踏は見るからに違っていて、ドイツに行く前の私を知る人たち、舞踏の人たちにとってはいろいろ受け入れがたいところがあったかもしれません。それに私が説明もなしにヨーロッパに行ってしまったものだから、天使館に来ていた多くの人が自分は捨てられたと思っていて、“オイリュトミーなんか自分はしたくない”という人も少なくなかったでしょう。

オイリュトミーを習いに来る生徒さんは幅広く、幼稚園の父兄や子どもたちにもずいぶん教えました。私は子どもにオイリュトミーを教えるのが上手いんです。札幌、仙台、新潟、東京、京都、福岡と、全国各地に教えに行きました。そこでオイリュトミーが少しずつ広まっていった。水面に出てこないだけで、オイリュトミーの人口は相当数いるはず。ただし舞台活動や芸術活動ではなく、公共施設で踊ったり、一緒に練習して仲間になりましょうという、一種の社会活動的な繋がりで広まっているようです。

オイリュトミー人口は増えたけれど、ダンス界への影響は全くなかったと思います。でも私としては、オイリュトミーを通してもうひとつの新しい古典の世界を体験してほしいという想いがあった。それまでの日本のダンスの世界というのは、クラシック・バレエ、モダンダンス、舞踏の三つしかなかった。そこにオイリュトミーというもうひとつの新しい古典の力があるということを提示したかった。

オイリュトミーを習ったからといって必ずしもそれで舞台ができるわけではないけれど、ひとつの新しい形を通して身体の中にある力を知ってほしいという気持ちが一番にあった。古いものと新しいものが結びつく世界があるのだと、あちらこちらに行っては説いていた。まるで福音をしているようでした。それは今でも変わらないところではあるけれど。

ドイツに行った当時は、舞踏とオイリュトミーという相反するものに同時に向き合うのは難しいだろう、どちらかに決めなければという気持ちがあって、ならばオイリュトミーだけでいいだろうと考えた。けれど日本に帰ってきてからその想いがだんだん弱まり、前衛的な舞踏と新しい古典のオイリュトミー、両方を自分の中に持てるようになったという気楽な感覚が生まれはじめた。そして今は改めて過去を振り返り、正反対の二つから見えてくるものを作品にしている感覚があります。

1987年、土方巽追悼公演『病める舞姫』に出演。錚々たる舞踏家たちと肩を並べ、オイリュトミーを踊る。

ドイツで舞踏と決別し、以降14年間公演活動から離れていました。再び舞台に戻ったのは帰国の9年後で、そのひとつのきっかけに土方さんの死がありました。

土方さんが亡くなったのは私が帰国した翌年でした。当時私はあちこちでオイリュトミーを教えていて、全国各地を飛び回る日々が続いてた。「土方が危篤だ、すぐに帰ってきてほしい」と連絡があったのは、神戸の朝日カルチャーセンターに教えに行っていたときのことです。誰かが「笠井を呼べ」と言ったのでしょう。けれど結局私は葬式には間に合わず、通夜に参列しています。私は帰国してからずっと舞踏界とは距離を置いていたので、みなさんと連絡を取るようなことはなく、そこで久しぶりに舞踏界の方々とお会いしました。

土方さんは1986年、57歳で亡くなった。翌年、奥様の元藤燁子さんから連絡があり、「土方の追悼公演をするから出てよ」と打診をされました。けれど私は帰国してからずっとオイリュトミーしかしていなかったから、「絶対に無理です」と言って辞退した。でも元藤さんは「したいことをしてくれて全然いいから」と言って譲らない。「今の私にできることといったらオイリュトミーしかありませんけど」と伝えたら、「それでいいから」ということで、それならとお受けすることにした。

すると土方さんの直系の弟子たちから「笠井なんか絶対にメンバーに入れられない」と猛反対にあい、私も「そんなに嫌なら自分は出ません」と再度辞退することにした。すると今度は元藤さんが「絶対に出てくれなきゃダメ」と言って、何だか大変なことになってしまった。最終的に、元藤さんに押し切られる形で参加することになりました。

追悼公演のタイトルは『病める舞姫』。会場は銀座セゾン劇場です。元藤さんの声かけで、麿赤兒さん、石井満隆さん、田中泯さん、芦川羊子さん、大野一雄さんが集まって、日替わりで舞台に立ちました。私はシューベルトの弦楽四重奏『死と乙女』と、土方巽のテキスト『病める舞姫』やヨハネ福音書をオイリュトミーで踊っています。バリバリの舞踏家たちの中にそんなものが入ったものだから、「いったいオイリュトミーとは何なんだ」とダンス界の人間が騒然とした。「ヒラヒラ薄い衣裳を着て、あのわけわからないものが舞踊と言えるのか」というのが大方の反応です。

私にとって、それが帰国後初めての公の舞台活動でした。それまでもいろいろな場所でオイリュトミーを踊ってはいたけれど、それはオイリュトミーの世界の中だけのこと。土方巽の追悼公演は第一線の舞踏家たち、ダンス界の人たちを対象にした舞台だった。だから土方巽の追悼公演に私が引っ張り出されたことは、良くも悪くもいろいろな影響があったと思います。

生前土方さんが踊ったソロ公演はたった一度、1968年10月の『肉体の叛乱』で、一般的には土方の最高作品だと言われています。土方さんはその後自分が踊る作品をつくるのは辞めて、いろいろな舞踏家たちのプロデュースを手がけはじめた。彼の最後の作品も自身の作品ではなく、プロデュース作品でした。

とりわけ注目を集めたのが1985年の『舞踏懺悔録集成』で、麿赤兒さんや田中泯さん、大野一雄さんなど舞踏の人たちを集めて大きな会を開いた。そこでひとつの舞踏ブームのようなものが起こり、日本の舞踏人口が一気に増えた。次に土方さんが考えたのが『東北歌舞伎計画』でした。これは第一弾〜第四弾とシリーズで開催していて、亡くなる前の一年間に4つの作品を発表しています。

私は土方さんのことをよく知っているけれど、決して無理がきく人ではないし、無理な活動をする人ではありませんでした。肉体派に見えるけど、彼はそんなに身体が強い人ではなかった。けれどそのときは彼にしては珍しく年間4本もの作品を発表して、さらに全国行脚をはじめて言葉と身体にまつわる話をあちこちで語ってみせた。もしかすると、土方さんは自身の死期をどこかで感じていたのかもしれません。

笠井叡 舞踏をはじめて <22> に続く。

プロフィール

笠井叡

舞踏家、振付家。1960年代に若くして土方巽、大野一雄と親交を深め、東京を中心に数多くのソロ舞踏公演を行う。1970年代天使館を主宰し、多くの舞踏家を育成する。1979年から1985年ドイツ留学。ルドルフ・シュタイナーの人智学、オイリュトミーを研究。帰国後も舞台活動を行わず、15年間舞踊界から遠ざかっていたが、『セラフィータ』で舞台に復帰。その後国内外で数多くの公演活動を行い、「舞踏のニジンスキー」と称賛を浴びる。代表作『花粉革命』は、世界の各都市で上演された。ベルリン、ローマ、ニューヨーク、アンジェ・フランス国立振付センター等で作品を制作。https://akirakasai.com

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