dancedition

バレエ、ダンス、舞踏、ミュージカル……。劇場通いをもっと楽しく。

山崎広太『薄い紙、自律のシナプス、遊牧⺠、トーキョー(する)』インタビュー!

山崎広太さんが、ニュージーランドのダンスカンパニー・Footnote NZ Danceとの協働ダンスプロジェクト『薄い紙、自律のシナプス、遊牧⺠、トーキョー(する)』を、この秋愛知・東京で上演。本作を機に、アメリカと日本の二拠点生活をスタートするという山崎さん。開幕を控え、作品の発端とこの先の展望についてお聞きしました。

山崎さんは舞踏からダンスの道に入られています。きっかけは何だったのでしょう。

僕がダンスをはじめたのは、指揮がきっかけでした。中学、高校とブランスバンドで指揮をしていて、そこで指揮者として自分にしかできないムーブメントがないかと思って。高校のとき『現代詩手帖』をよく読んでいて、それで舞踏に興味を持つようになりました。

まず土方巽さんのアスベスト館に行きました。でもアスベスト館の稽古は深夜なんですよね。僕は昼間働いていたので、深夜の稽古はちょっと厳しい。それで笠井叡さんの天使館に行くようになりました。天使館の稽古は週3回、夜だけだったので。バレエは井上博文さんに習っています。ただ舞踏が最初だったから、舞踏的な動きしかわからない。小林紀子バレエアカデミーで踊っていた時期があったけど、先生、泣いちゃいましたから。「なんでこの人こんなに成長しないんだろう」って。天使館の動きって、かなり感情が入るんですよね。バレエも感情でやろうとするから、全く上達しなかった。やっぱり最初に習った笠井さんの印象があまりにも強くて、そこから抜け出るのは非常に大変でしたね。

©Stephen A’Court

ここ数年は舞踏にフォーカスされていました。そこにはどんな想いがあったのでしょう。

僕が生まれたのは土方巽さんの『禁色』が生まれた年でした。舞踏のはじまりです。土方さんは57歳で亡くなりましたけど、その3か月前に、打ち上げで土方さんが僕に延々と喋っていたことがありました。僕にはその話の意味がよくわからなかったのだけれど、要するに「舞踏をやめて、もっと違ったことにアプローチして、そしてまた舞踏にかえってこい」と土方さんが言っていたような気がしていて。

舞踏にかえってくるタイミングを57歳の年にしようと、つまり土方さんが亡くなった年にしようと考えていたんです。そろそろ舞踏の準備をしようと思って、ここ2、3の作品は舞踏にフォーカスしてました。でもそれもステージを踏んだことで、僕の中で吹っ切れちゃった。

ただ舞踏を通過したことによって、次のステップが出てきたというのも事実かもしれない。また舞踏を通過したことによって、舞踏の絶対性みたいなものを認識した気がします。

©Stephen A’Court

現在はニューヨークを離れているそうですね。

ニューヨークにいたのは2001年から2019年まで。20年近くニューヨークで暮らしていましたが、パンデミック後に仕事がなくなる予感がして、拠点を変えました。今はバーモント州のベニントン大学でゲスト・アーティストをしています。ベニントン大学はアメリカで最初にダンス科ができたところ。今は教育の方が中心になっています。

パンデミックになって創作活動が中断されてしまった。一方でニューヨークの劇場もあまりポジティブでない状況になっている。僕自身も年とともに助成金が取れなくなってきてる。やっぱりコレオグラファーって年齢とともに消えていくじゃないですか。

今、日本とアメリカの二拠点生活に切り替えている最中です。それはやはりそういう時代と社会と人々の関係の中で行き着いたのだと思います。

これまではアメリカでの創作活動の比重が重かったので、今後はもう少し日本にフォーカスしていこうと思っています。ベニントン大学で春のタームだけ集中的に教えて、半分は日本で過ごすつもりです。実際東京に家を借りました。今すごく興味があるのが東京のパブリックスペース。パブリックにおけるコミュニケーションの新しいあり方が何かあるような気がしていて。ダンサーの持っている1番の強さって、一体感だと思うんです。パブリックスペースで人々と共存できるようなパフォーマンスができないか、いろいろ働きかけているところです。

劇場という場所を離れて、パブリックに対するアプローチを通して、身体と言葉の関係も実際に捉えることができるかもしれい。身体と都市の関係だったり、いかに身体を通して何ができるか、そこにダンスの可能性があるような気がするんです。

©Stephen A’Court

今後どこへ向かっていくのでしょう。

今、ニューヨークに行く前、2000年のころの方向に戻っているんですよね。感覚的にそれをすごく感じていて、なんか不思議でした。それは自分は非常にネイチャー的な、流動的な方向なんだということ。もしアメリカに行かずに日本でずっとカンパニーを継続していたら、このネイチャーのスタイルで広がっていたと思います。僕のスタイルって、たぶんそこだと思う。抽象的で、その中における言葉の関係だったり、アクションが入ってくる感じ。

そのネイチャーというのがどこから来たのかというと、故郷の新潟だと思う。信濃川があって、風が流れていて、いつも自然が身近にあった。僕の原点かもしれないし、そこがすごく重要だと思っています。

流動的で、絶えず流れるような自然と身体の関係がある。自分の将来的なダンスのコンセプトのあり方として、自然を意識した中におけるボディというものを捉えていきたい。雲があって、風が流れ、水が流れる、流動的な動きがあって、ときにはマグマのようなものの身体の現象だったり、ときには何かが生まれる、植物の種が発芽するような瞬間だったりもする。そんなふうに客観的に身体を意識して見ることができたらと……。そういう意味においては、この作品は非常に自然を意識したものにできたらと、自然と身体の関係性に関連できたらと思っています。お客さんにもそれを意識して見てもらえたら非常にうれしいですね。

©Stephen A’Court

 

プロフィール

山崎広太
Kota Yamazaki

新潟県生まれ。舞踏を笠井叡、バレエを井上博文に師事。文化服装学院卒業。1995年より2001年まで、東京拠点のrosy Coを主宰。2001年よりNYにも拠点に移しKota Yamazaki/Fluid hug-hug主宰。BAM (Brooklyn Academy Music)、Jacob's Pillow Dance Festival、Arizona State University、Bates Dance Festival、Chicago Columbia College Dance Center、PICA/TBA Festival、Japan Society、 Melbourne International Festival、Dance Theater Workshop、The Painted Bride Arts Center、Danspaceproject、The Place Theater、シアターコクーン、新国立劇場他で作品を発表。17年「Darkness Odyssey/Par 2: I or Hallucination」バルシニコフ・アーツ・センター。18年「Darkness Odyssey/Part 3: Non-Opera, Becomingを NYLAで上演。2008年より400名ほどのアーティストを巻き込んで、多くの実験的なプログラムを行う、ウェン・ウェア・フェスティバルを継続して運営している。ボディ・アーツ・ラボラトリー主宰。2007年にニューヨーク・パフォーマンス・アワード(ベッシー賞)受賞。ニューイングランド財団より2012、2015年ナショナル・ダンス・プロジェクトで助成。2013年現代芸術財団アワード、2017年ニューヨーク芸術財団フェロー、2018年グッゲンハイム・フェローの各賞受賞。2021年ドリスデューク財団より助成。ボディ・アーツ・ラボラトリー主宰。ベニントン大学ゲスト講師。DaBYケストアーティスト。http://kotayamazaki.com http://bodyartslabo.com

 

作品情報

『薄い紙、自律のシナプス、遊牧⺠、トーキョー(する)』

愛知公演
愛知県芸術劇場 小ホール
2024年10月5日(土)17:00、6日(日)14:00

東京公演
シアタートラム
2024年10月12日(土)18:00、13日(日)15:00、14日(月・祝)15:00
https://www.footnotekota.com/

『霧、神経、未来、オーシャン、ハロー(木霊する)』©Kerrin Burns

-コンテンポラリー