dancedition

バレエ、ダンス、舞踏、ミュージカル……。劇場通いをもっと楽しく。

山海塾 創立メンバー・蝉丸インタビュー!

1975年に創立され、今年50周年を迎えた「山海塾」。その大きな節目を前に、昨年主宰の天児牛大さんが逝去され、世界中から哀悼の意が寄せられました。天児さん亡き後の今、山海塾はどこを目指すのかー。天児さん、そして山海塾について、創立メンバーの蝉丸さんにお話をお聞きしました。

蝉丸さんが舞踏の世界に入ったきっかけを教えてください。

蝉丸>もともと私は舞踏ではなく、演劇の方に興味がありました。とはいえ田舎だったので、演劇に触れる機会もそう多くはありません。高校生のころは年に何回か開催される労働者演劇鑑賞会を楽しみにしていて、友だちを誘っては町に観に行っていましたね。最初に私が舞踏を観たのも生の舞台ではなく映画でした。大駱駝艦が出演した『陽物神譚』と『馬頭記』です。

実際に舞踏の道に入るきっかけになったのは、山形県の鶴岡で上演されたビショップ山田さん主宰の北方舞踏派結成記念公演『塩首』でした。大駱駝艦の映画を観に行ったときチラシを目にし、これはぜひ観たいと考えた。当時私は東京の大学に通う学生で、各駅停車の電車を乗り継ぎ、鶴岡を目指しました。野宿しながら移動していったので、途中でお巡りさんに職務質問されたりもしましたね(笑)。

『塩首』は衝撃的な作品で、後にみんなに語り継がれるようになりました。舞踏家たちも多く集まっていて、私もそこではじめて土方巽さんや麿赤兒さん、森繁哉さんを目にしています。

せっかく山形にきたのだから、ついでに出羽三山に登ろう。そう思っていたら、大雨が降っちゃった。3日間ずっと降り続けて、山に行くのは難しい。すると公演の出演者に「じゃあ、ここにいたら」と声をかけられて、次の日から受付のもぎりをすることになりました。公演を観て、夜になるとおにぎりや味噌汁をタダで食べさせてもらっています。

公演が終わった後も現地に残っていたら、「舞台で使った物を返しに行かなくてはいけない、誰かトラックを運転できないか」という話になった。でも北方舞踏派のメンバーは次の現場へ向かっていて、関係者はほとんど残ってません。そのトラックというのが大駱駝艦のトラックで、実は私は以前自分が関わっていた劇団のためにそれを借りて運転したことがありました。あれなら自分にも運転できる。「じゃあ自分が運転しましょう」と、運転をかってでました。

ビショップさんに「これからここで一緒にやってかいないか」と誘われたけれど、まだ大学生だったこともあって、とりあえず東京に帰ることにした。その後大駱駝艦の公演が東京であって、手伝いに行ったりするうちに、稽古場に出入りするようになりました。

(左)蟬丸、(右)緖方篤

山海塾のメンバーになった経緯とは?

蝉丸>鶴岡でもらったチラシのなかに、“山海塾の研修生募集”というものがありました。それまで自分はどちらかというと文学青年でしたけど、言葉がない舞踏というものに興味が沸いた。研究したいと考えた。研修期間は半年間で、研修費が必要とありました。けれど私が関係していた劇団の座長は、「そんなもの払う必要はないよ」と言う。座長夫婦は元大駱駝艦のメンバーで、「挨拶がてらお酒を持っていけ」と言われ、その言葉通りお酒を持って天児に会いに行きました。

天児は土方さんからもらったという大島紬の着物を着ていました。すごく真面目に何かを追求するタイプの人、というのが天児の第一印象です。海外遠征を含め、いろいろなことを考えているという話がありました。山海塾という名前はすでに決まっていましたね。1975年11月5日で、後にこの日を山海塾創立日としています。

研修生の顔ぶれは? 研修ではどんなことをしましたか?

蝉丸>研修には総勢30人が集まりました。男性と女性、半々くらいだったと思います。記憶に残っているのが、体育大学に通う女性。私が持ち上げるとものすごく高くジャンプをしたりと、とてつもなく身体能力が高かった。あと精神的な病気なのかなと思う人も何人かいました。

私自身は比較的身体も大きい方だったし、中高とバスケットボールをしていたので、体力的には強い方だっと思います。ただ踊りははじめてでした。

研修でよくしていたのは、野口体操を取り入れた練習です。それ以外にバーレッスンをしたり、股割りのようなことをしたり、古典舞踊的な動きをしたり、いろいろなことをやりました。研修生のなかにはさまざまな踊りを習ってきた人たちがいて、彼らがそれまで経験したなかで優れていると思う稽古を取り入れていた感じです。

半年の研修期間が過ぎても山海塾としての活動は決まらず、ほぼ解散状態でした。研修生で山海塾に残ったのは私ひとり。出版関係の会社に勤めていた滑川五郎が遅れて参加し、高田悦志は学校を卒業してから参加して、天児と私を含めこの4人が創立メンバーとなりました。

大森の稽古場にて。(左から)奈良幸治、蟬丸、天児牛大、滑川五郎、高田悦志

天児さんはもともと大駱駝艦のメンバーでした。大駱駝艦とは当時どのような関係だったのでしょう。

蝉丸>山海塾を旗揚げしてからも天児はしばらく大駱駝艦とかけ持ちをしていましたね。山海塾が1980年にヨーロッパへ出て行くまでは、天児も大駱駝艦の一員として公演に出ていたように思います。私は大駱駝艦の公演で舞台装置を手伝っていましたが、天児が踊っている姿が記憶にあります。私は裏方はしたけれど、大駱駝艦の舞台には出演はしませんでした。

大駱駝艦は創立して3年くらいだったと思います。大駱駝艦の旗揚げメンバーは“幹部”と呼ばれていて、ビショップさん、室伏鴻さん、カルロッタ池田さん、大須賀勇さん、田村哲郎さんなどがいました。そのうち田村さんは古川あんずさんと「ダンス・ラブマシーン」を結成し、あと鳥居えびすさんと田中睦子さんは「天鷄」を結成したりと、それぞれがグループを持って独自の活動をしていました。山海塾もそのひとつ。稽古場も寮も大駱駝艦と一緒だったので、当初は「大駱駝艦山海塾」と名乗っていました。

さまざまなグループが当時大森にあった大駱駝艦の稽古場を一緒に使っているような状態でした。グループそのものもそれなりの数があったので、全部集まるとすごい人数になります。80人くらいいたのではないでしょうか。それで大晦日となると、みんなが集まっては歌合戦をしたりしていましたね。

山海塾の旗揚げ公演は1977年の『アマガツ頌』で、このときは麿さんも出演しています。天児は蛇の絵が描いてある三角板から逆さ吊りでウサギを抱いていました。舞台奥は全面マグロ尾の戸で、中央の戸板だけ裏にブリキ板を張り、太陽を描いています。戸板返しになっていて、麿さんが登場しました。フィナーレで土方さんが巨大なバナナの房をくれたように思います。

翌年1978年に『金柑少年』を初演しましたが、実際に山海塾として活動をはじめたのはたぶんこのころから。それまでは大駱駝艦にいたり、その寮にいたりして、誰がどこの所属かというのもあまりわからないような状態でした。

私自身は、山海塾の研修期間が終わる前に大学を辞め、大森の大駱駝艦の寮で暮らしはじめています。後に山海塾は大井町に独自の稽古場と寮を借りるようになりました。

『アマガツ頌』より。(左)天児牛大、(右)麿赤兒 ⒸSankai_Juku

創立のころの想い出で印象に残っていることをお聞かせください。

蝉丸>創立メンバー4人で、ビショップさんが山形県鶴岡につくった稽古場・グランカメリオに合宿に行ったことがありました。『アマガツ頌』をつくる前だったと記憶しています。グランカメリオは『塩首』を上演したところで、舞踏の記念碑的な場所でもありました。建物は田んぼの中に立っていて、周りに家がありません。山海塾の合宿は断食状態でするので、東京にいると環境的に難しく、あえてそういう場所を選んでいます。

合宿は1週間で、行き帰りをあわせると実質5日間。私は学生のころからお金に困ると3日くらい食べずにいたので、そのくらいは平気でした。実際自分でソロをはじめたころは、1週間ほど断食をしていました。最初から全く断つのではなく、おかゆからはじめて、2日目からおかゆの量を少なくして、3日目からおかゆもなくなり、そのうち汁物もとらなくなり、最後は水分だけにする。

土方さんもそのようにしてたという話があり、真似した感じです。断食の効果は大きく二つあって、ひとつは皮膚の感覚がものすごく敏感になる。たぶん皮膚だけでなく、いろいろな感覚が敏感になっていると思います。私の感じとしては、皮膚感覚が敏感になると、自分がどう動いたかというのを自分の身体が覚える。頭ではなく、そうかこうやって動いたんだと身体が覚える。二つめは、お腹に物が入った状態で激しく動くと、舞台上で気持ちが悪くなってしまうから。この二つが大きいですね。

今でも基本的に舞台に立つ6時間前から何も食べないようにしています。例えば夜の公演のときは昼ご飯は食べません。その日の体調にあわせてスープやコーヒーを口にすることはあります。胃の中にものが入っていると、やはり集中力がちょっと途切れる感じがあります。

山海塾創立のころ、室伏さんが福井県に北龍峡という稽古場をつくることになり、その建築に私も携わっています。古い家が山の中に建っていて、内装もひっくるめてかなり変えました。建築関係の人がひとり東京から来て、それと地元のやはり建築関係の人が手伝ってくれて。工事はトータルで半年以上かかり、1回行くと2ヶ月くらいずっと泊まり込みの作業が続きました。

一昨年福井に行く用事があったので、久しぶりに立ち寄ってみたら、北龍峡はもう跡形もなくなっていました。記憶と景色が違ってた。後で調べたら、20年ほど前にあの辺りに大きな洪水があったらしく、壊滅的な打撃を受けたということです。それで稽古場も流されてしまったのかもしれません。

1979年、筑豊廃坑にて。(左から)蟬丸、岩下徹、高田悦志、緖方篤、天児牛大、滑川五郎

山海塾の稽古とは? 山海塾ならではのルールはありますか?

蝉丸>初期のころは全員で指に糸を付けたり、床を叩いたり、といったことをよくしていました。感覚を身体に覚えさせる稽古です。指先に縫い物用の糸を結び、下に重りをつけて垂直にたらす。その状態で歩くと重りが遅れてついてくる。その感覚を覚えさせる。

他にもいろいろなことをしていて、例えば直径3mm・長さ90cmほどの先の尖った棒を人差し指と親指で挟んで持ち、その感覚を身体に覚えさせる。そして棒がなくてもその感覚を再現できるようにする。これはいろいろな作品に出てきます。『金柑少年』では3人のダンサーがミイラのような格好をして、真鍮の棒を床にポンと刺していますが、これもそう。

山海塾は自前の稽古場を持っていないので、普段一緒に稽古をすることはなく、公演ごとにリハーサルスタジオで稽古をします。フランスで新作制作のスタジオが提供されるようになってからは、群舞はまず天児が私に振付け、他の3人がそれを真似るやり方になりました。

稽古のときは全員上下白い稽古着です。なぜ白かというと、リハーサルで照明の明るさを決めるとき、いろいろな色の服を着ているとレベルが合わせにくいから。本番だと白く身体を塗っているし、稽古も白にしようということになりました。よく「どうして白塗りで坊主頭なのか?」と聞かれます。その理由に、上辺の個性を消すという意味がある。白いと突出しない。稽古をしていてもそれぞれの差がないので、そこからさてどうしようと考えやすいんです。

稽古では鏡を見ず、音楽は使いません。稽古そのものはもちろん、作品をつくっていく過程でも音楽は使わない。音に身を任せて踊るという振付家やダンサーもいるけれど、山海塾の場合はそれを否定する。そういうことはしてはいけないとし、自分の身体の中から出てくるものを探す。野外で稽古をすることもありますが、風など自然の音は好きですね。それで自分の身体が動いて、何かを見つけていく。音楽を流すということは、誰かがその音楽を選ぶわけで、人為的な感じがする。人為的なものに触発されるのではなく、自分の裡なるものに触発される。それを探していきます。

作品を発表するとき、メンバーがはじめて音楽を聴くのは公演の1週間前くらい。それから踊りと合わないところは音楽の修正が入ってきます。

『卵を立てることから―卵熱』ⒸSankai_Juku

山海塾の振付法とは?

蝉丸>山海塾の作品はそれぞれが独立しているわけではなく、場の想定や振付に繋がりがあります。例えば『金柑少年』で刺した棒は別の作品では別の場所を刺したりもする。続編をしているわけではないけれど、あるシーンの中の形を次の作品の中に持ってくる。そのとき、イメージも一緒に持っていく。

『降りてくるもののなかでーとばり』の最後に4人が寝ながら動いているシーンが出てきます。寝てても床に身を任せているのではなく、宙に浮いているような感じで、星が光ってる。『闇に沈む静寂ーしじま』でもほぼ同じような動きをしています。ただ全く一緒ではなく、『しじま』では下に砂がいっぱいあって、上からも砂が落ちてくる。一方は宇宙空間に浮遊していて、一方は砂漠のような空間の中に浮遊している。そういうイメージの繋がりがある。

振付よりむしろ舞台美術がダンサーに大きな影響を与えます。『金柑少年』ではマグロの尾や孔雀。マグロの尾は3000個ほど使っています。築地でひとつ5円くらいで買いました。もともと肥料にするものだそうです。これを乾かすのが大変で、しっかり乾かさないと虫がわいてしまいます。

実は当初日本で『金柑少年』を上演したときは、マグロの尾を使ってはいませんでした。尾を使ったのは『アマガツ頌』で、『金柑少年』では奥に四角い箱を置き、それをブルーで囲って逆さ吊りをしていました。

後に学園祭など日本各地をツアーするようになったとき、それらを合体させています。合体させる前は、『処理場』や『魚の骨の森』などいろいろなタイトルをつけていました。学園祭だと野外で上演することも多かったので、かがり火を炊いたり、シューッと発火する演出をしたりと、かなり自由にやりましたね。

孔雀は基本的に現地調達です。動物は検疫の問題で海を渡れないので、その都度借りる方が現実的です。アメリカは移動距離も長いので、借りたところに返しに行くことを考えると、やはりその場その場で借りた方がいい。ただフランスは『金柑少年』をたくさん上演したので、費用の面を考えて自分たちで飼い、ツアーのときはトラックで一緒に移動しました。ブローニュの森のキャンプ場で長いこと暮らしたこともありましたが、結構人気者になりましたね(笑)。

動物プロダクションから孔雀を借りたこともあります。2〜3歳の若い孔雀は1年のうちに長い羽が抜けてしまう時期があるらしく、そういう時期に公演をしようとすると、「今は長い羽根がある孔雀はいません」ということになる。でも動物プロダクションだと孔雀に羽をつけてくれて、それで公演ができたりもします。

作中は孔雀を抱いて踊ります。持っている分にはいいけれど、背中に乗せるシーンがあって、そこで背中を引っかかれたりすることもありますね。

いろいろな場所で上演してきましたが、今の時代、生き物を舞台で使うのは難しい。この先『金柑少年』を上演することはもうないでしょう。

『金柑少年』ⒸSankai_Juku

創立初期から海外へ進出し、ヨーロッパをはじめ世界各地をツアーしています。どんな想い出がありますか?

蝉丸>ヨーロッパに行ってすぐ『金柑少年』が評判を呼んで、これでいこうということになりました。

40年ほど前は航空券の代金が高かったので、パリにアパートを借りて住んでいました。当初は日本にいることはあまりなかったですね。旅生活です。ヨーロッパでは小さなバンに舞台装置を積んでツアーで各地を巡りました。日本に帰ってくるまで1年以上、3日に1回は舞台で踊っていた計算です。

公演が終わると撤去作業をして、車に積んで、運転しながらずっと夜通し走っていく。ホテルに泊まるお金がもったいないので、日があがったころ車をとめて、車の下に潜り込んで眠ります。エンジンの熱でそこが一番あたたかいんです。だから女性がメンバーになるのはやはり難しかったと思います。

しばらくはそんな生活が続きました。けれど1年中旅公演を続けていると、ちょっと辛くなってきた。たくさん舞台で踊ってはいるけれど、出演料は低いから、忙しくてもちゃんと生活はできてない。それぞれ自分たちの活動もしたい。それに親が病気になるとか、結婚だとか、いろいろ個々の事情もある。それで、創立から10年ほど経ったとき、創立メンバー4人が集まって、山海塾として一緒に活動するのは年の半分にしよう、という取り決めをしています。

近年は航空券の代金も安くなったので、2か月以上の海外ツアーを組まないと採算がとれない、ということは減りました。公演だけでなく、あわせてワークショップの依頼も多くなりました。ツアーとしては効率が良いのですが、自由時間が少なくなり、フェスティバルで他の公演を観に行くことも減りました。

1980年代海外リハーサルの合間に、山海塾の舞台監督と。(左から)天児牛大、蝉丸

長く活動を続けるなかで、メンバーの変遷もありました。

蝉丸>山海塾の創立メンバー4人で活動をはじめ、『アマガツ頌』の公演後メンバーが2人加わり、1978年の『金柑少年』初演は6人で踊っています。その後2人は去り、岩下徹と緖方篤が参加して日本国内のダンスキャラバンを行いました。岩下は筑波大学の学生で、当初は山海塾を学園祭に呼ぶ側の人間でした。そこでいろいろ手伝っているうちに、制作側から山海塾のメンバーとして活動するようになりました。

海外ツアーがはじまった1980年、岩下はメンバーから外れ、5人のメンバー構成になりました。

5人での活動が10年ほど続きましたが、オペラの演出の仕事をするようになってアンダースタディというシステムを知り、そこから若手メンバーが増えていったように思います。山海塾には、新しく参加したダンサーは3年間辞めてはいけないというルールもあります。

オーディションはなく、欠員が出た時点でメンバーを探します。例えば、浅井信好が辞めるときは、彼から石井則仁を推薦され、私が石井と話をしてメンバーに加えています。でもつい最近石井に、「浅井から紹介されたんだよ」と言ったら、「そうだったんですか?」と驚いてましたけど(笑)。

人選で一番のポイントにするのは、人間性。今はそれぞれ別々に暮らしていますが、それでも公演になると同じホテルに泊まって、行動を共にすることになる。ツアーが長いと自分たちでご飯をつくって食べることもあります。

そういう状況に適応できるかどうか。技術に関していえば、ある程度若ければそのうち少しずつ向上していくでしょう。けれど、性格はなかなか変わらない。どうかなと思った人間はやっぱり辞めていきますね。

今は私を含めた8人のメンバーで活動しています。

『卵を立てることから―卵熱』ⒸSankai_Juku

天児さんの下咽頭がんが発覚したのは、2017年のことでした。

蝉丸>手術後は定期的に検診を受ける必要があり、長いツアーに同行できなくなりました。

その後ある程度声が出るようになってきたので、良くなるのかなと思っていたんですけど……。2年ほど前に食道に転移して、手術を受けています。あまりしっかりした食事がとれなくなり、体力がどんどん落ちていきました。

それでも毎年旧作のリ・クリエーションや新作の発表を続けてきました。ただかなりの部分をそれぞれのダンサーが共同で創作し、天児が監修するという方法をとり、現場では私が演出助手として全体の確認をしています。

公演前の照明のチェックやそこでのダンサーの動きなど、それまで天児がやっていたことを私がかわりにする。最初の手術を受けたときからこのやり方に変わりました。私が創立メンバーであるということと、竹内晶以外のダンサーは全て私の合宿の出身者で、いわば私の弟子のような感じなので。

『TOTEM 真空と高み』ⒸSankai_Juku

天児さん生前最後の新作として、2023年3月に『TOTEM 真空と高み』を発表されています。

蝉丸>『TOTEM 真空と高み』はかなり自分たちで考えています。例えば私のパートは自分でいくつかの作品をコラージュし、それを天児にいわれた曲に合わせてつくったり。複数で踊るところはそれぞれのメンバーが分担してつくり、それに対して私が「ここの部分がちょっと不足してるからこういうのを入れたらどうだろう」と言う。天児が体力的に毎日稽古場に来ることのできない状態だったので、そうせざるを得なかった。『TOTEM 真空と高み』は初演の1週間前でもまだ音が決まらず、ギリギリまでどんどん変わっていましたね。

北九州芸術劇場での初演には天児が来て、そこでまたいろいろ指摘や変更がありました。世田谷パブリックシアターは全5回公演でしたけど、天児が来たのは8月30日の初日だけ。手術の準備もあったと思います。転移が見つかって翌月手術を受けることに決まった、とそのとき言っていました。会場には来たけれど、筋力が落ちていて、ちょっと危なっかしい感じでした。ただ亡くなるは思わなかった。手術は9月14日で、約半年後、3月に自宅で亡くなりました。

『TOTEM 真空と高み』ポスター。デザイン:山形季央

改めて、蝉丸さんにとって天児さんはどんな方でしたか?

蝉丸>私は山海塾の創立以前から舞踏に関わり、複数のグループの手伝いをしてきました。そのなかで何故天児を選んだのか? 

活動を続けるうち、各グループのリーダーはすごく我儘で欲深い人たちだと思いました。そして天児が一番欲望の強い人だと思いました。

天児は絶対的なボスでした。自分の思う通りに動かないとすごくイライラするし、もし誰かとぶつかったらその人間は辞めていく。基本的に自分がプロデュースしたい人で、自分が支配して進めたいと思ってた。私が天児をボスとして選んだ理由はそこで、もし自分みたいな人がボスだったら、私は必要ないでしょう。

天児は「舞台で踊ることだけで生活していく」と言っていた。私はそんなことできるわけないでしょうと思ったけれど。山海塾の創立公演『アマガツ頌』は本当は赤字だったと思うけど、絶対に赤字とは言わないんです。本当はここにお金がかかっているのに、それはないことにして、「これは赤字ではない、トントンで済んだ」と言っていた。

もちろん舞台だけで生活できるわけではなく、実際私は基本的にアルバイトをして生活費を稼いでいました。映画スタジオやコマーシャルのスタジオでの大工仕事や照明の手伝いです。その後バブルの時代に突入し、どんどん景気が良くなっていった。30代半ばになると私自身自分のソロ活動でいろいろなところから呼ばれるようになり、それで生活できるようになりました。

蟬丸『虫送り』ⒸSankai_Juku

今後の山海塾の活動についてお聞かせください。

蝉丸>山海塾は創立50周年に入っていて、今年秋に世田谷パブリックシアターでレパートリーの上演をする予定です。天児が亡くなる前から決まっていた公演がいくつかあり、今後も今ある作品をレパートリーとして公演を続けるつもりです。

ただ新作発表はまだ決まっていません。新作を発表していかなければ、山海塾としての存続はないでしょう。レパートリーだけやっていてもそれなりのオファーはあるとは思う。例えば昨年は『卵を立てることからー卵熱』をスウェーデンで上演していますが、舞台作品としての完成度の高さを改めて感じました。作品をお見せすることによって、語り継がれていくものはあるだろうなとは思います。

でもそれだけをやっていたのでは前衛芸術とは言えない。時代を引っ張っていかなければいけない。古典になったものを守り続けるだけでは次の段階に進んでいかない。新しいものをつくっていかなければいけない。かといって新しいだけでもダメで、時代がそこについてきてはじめて前衛になる。私はそう思っています。天児もたぶんそう考えていたと思う。

日本の芸能にしても、いろいろなものが生まれてはなくなっていった。時代のなかで淘汰されていくものがあった。この先山海塾が前衛芸術としてどう残っていくか、私はそれを見てみたい。こればかりは自分の身体との相談です。あとは若いメンバーがどうやっていくか。

今後は蝉丸さんが中心になり、山海塾を率いていくのでしょうか?

蝉丸>そうですね。集団組織には基本的に責任者が必要だと考えています。今までは天児主宰山海塾だったのが、これから私が主宰となり活動を続けていく。天児は病気になる前から私が出演しない作品をつくり、ダンサーが共同で創作に取り組むという方法をとりはじめまていました。これは自分が亡くなった後の準備だったのではないかと思いはじめているところです。

フランスにて。(左から)緖方篤、高田悦志、天児牛大、蟬丸、滑川五郎

 

プロフィール

蟬丸『TOTEM 真空と高み』ⒸSankai_Juku

蝉丸(せみまる)

1975年山海塾創立に参画。以降すべての山海塾活動に参加。1985年ソロ活動開始。1990年独自のユニット黒藤院を旗揚げ。野外などフリースペースでの作品が多く、肉体と精神の観察を好み、その分析の過程でイメージを得る舞踏家。
https://www.sankaijuku.com

 

 

-舞踏