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Noism20年 井関佐和子、全作品を語る(1)

2004年4月に発足したNoismの結成メンバーであり、舞踊家であり、国際活動部門芸術監督を務める井関佐和子さん。創作の模様から楽屋話まで、Noismと共に歩んだ20年の道程と、全作品を語ります。

『SHIKAKU』
演出振付:金森穣
振付:Noism04
出演:青木尚哉、井関佐和子、木下佳子、佐藤菜美、島地保武、清家悠圭、高橋聡子、辻本知彦、平原慎太郎、松室美香、金森穣
初演:2004年6月8日
会場:りゅーとぴあ 新潟市民芸術文化会館(新潟)、パークタワーホール(東京)

 

2004年4月1日、Noism設立。当時29歳だった金森穣さんが芸術監督に就き、日本初の劇場専属舞踊団として誕生しました。

 りゅーとぴあ開館5周年記念ミュージカル『家なき子』に穣さんが出演し、それが芸術監督オファーのきっかけになりました。私もそのミュージカルを観ていますが、穣さん、結構歌がうまいんです。でも穣さんの中では納得できないものがあったようです。舞踊で勝負したいのに、商業作品に出て、キャーキャー言われている自分が許せなかったのでしょう。17歳で海外に出て、舞踊の一流で踊ってきたから、そこに違和感を感じたのだと思います。しかしそれがオファーに繋がりました。

 ただ穣さんはオファーをそのまま飲みませんでした。「名ばかりの芸術監督には興味はない。自分が芸術監督になるなら劇場専属舞踊団を立ち上げるのが条件だ」と逆に提案をした。予算を増やすのではなく、今までの予算の使い方を変えることで、可能ではないかと。日本では前例のない話です。劇場専属舞踊団発足決定の電話が穣さんにかかってきたとき、ちょうど私も一緒にいて、二人で大よろこびしました。

photo: Kishin Shinoyama

井関さんはどのような経緯でNoism入りしたのでしょう?

 オーディションを受けています。スウェーデンのクルベルグ・バレエを辞めて、東京を拠点にフリーランスとして活動をはじめたころでした。

 穣さんとの仲が深まったのは、私がNDTⅡ3年目のときのこと。オランダ・ツアーに向かうバスの中でした。翌年NDTへ新作振付の仕事を控えていた穣さんは下見のためオランダ・ツアーに同行していて、片道3時間の道中を延々と語り合い、以降毎日のようにメールのやり取りを重ねるようになりました。その後私はクルベルグ・バレエに移籍し、一方穣さんはヨーテボリ・バレエ団を退団し、日本とヨーロッパの半々生活を送るようになります。

 当初はプライベートと仕事の線引きをしようという考えが二人の間にあって、実際そうしてきたつもりです。その線引きを一度取り払ってみようとトライしたのが、2002年の「no・mad・icproject ~ 7 fragments in memory」。穣さんがはじめてセルフ・プロデュースした公演です。「no・mad・icproject」をきっかけに、私の中で「もっともっと穣さんの作品を踊りたい」と思うようになりました。穣さんが芸術監督になれば、それが叶います。

 とはいえ私がオーディションに参加したのは、何より舞踊家としてチャンスを感じたからです。カンパニーの設立に巡り会うことなんてまずなくて、舞踊人生で一回あったらラッキーなくらい。自分がそこに立ち会いたい、という気持ちが第一にありました。

 オーディションはNoism設立の前年、2003年の年末だったと思います。穣さんはまず「no・mad・icproject」に出演したメンバーに「オーディションに参加しないか」と声をかけています。私もそのうちのひとりでした。最終審査は東京と大阪で開催され、私は東京のオーディションに参加しました。東京だけで参加者は50人ほどいたでしょうか。審査員は穣さんひとり。穣さんの振付と、インプロを踊っています。

photo: Kishin Shinoyama

メンバーが決まり、いよいよ日本初の劇場専属舞踊団発足です。

 東京国際フォーラムで記者会見が開かれ、私たちメンバーも出席しています。国際フォーラムの会議室にまずメンバーが集まって、それがみんなとの初顔合わせ。島地保武、平原慎太郎、松室美香は「no・mad・icproject」で一緒に踊っていたので彼らのことは知っていましたが、他のメンバーは初対面です。はじめましての瞬間から、みんな結構イキんでいましたね。あのときの写真を見ると、なんだかみんなふてぶてしいんです。

 記者会見に参加はしたけど、私たち舞踊家は名前を言って、あとはじっと座っているだけ。会見が終わると、みんなで一緒に電車で移動して、穣さんのお姉さんがやっていた青山のカフェに行きました。そこで篠山紀信さんに写真を撮ってもらって、少しだけ雰囲気が砕けた感じです。

photo: Kishin Shinoyama

第一弾作品は『SHIKAKU』。創作の様子はいかがでしたか?

 実は第一弾作品は『SHIKAKU』ではなく、「black ice」になるはずでした。当初「black ice」の初演は10月に予定されていて、実際にそのタイミングで上演しています。でもNoism自体は4月からはじまるので、10月まで何をしているんだという話になり、急遽『SHIKAKU』の上演が決まりました。慌てて会場を探しましたが、劇場はどこも空いていなかったので、唯一空いていた多目的オープンスペースである新宿のパークタワーホールをおさえました。なので、新潟での公演も舞台に観客が上がって観るという特殊な形になりました。

 『SHIKAKU』には、見えない死角、四角いボックスなど、たくさんシカクにまつわる意味があって、それらのキーワードに沿ってつくっていきました。テーマはあるけど、物語があるわけでもなく、自分なりに物語を組み立てるような作品でもない。穣さんとしては、シンプルに身体を打ち出したかったのだと思います。

 まだNoismの環境が整っていなくて、リハーサルをする場所すら定まっていない状態でした。りゅーとぴあのスタジオや隣にある音楽文化会館の稽古場などあちこちスタジオを移動しては、作品で使う箱を持ちこみ稽古を重ねています。

photo: Kishin Shinoyama

 あのころの穣さんは本当に怖かった。そう言うと「風評被害!」と穣さんは怒るけど。ただ最初のうちは穣さんも全然ピリピリはしていなかったんです。あるとき急にピリピリがはじまって、私たちにとっては「急になんで?」という感じです。でも穣さんにしたら、溜まりに溜まっていたものが出た、ということなのでしょう。

 日本で唯一の劇場専属舞踊団としてこれからこの国の舞踊界を変えていく、という意識が穣さんの中には当たり前のようにあった。でも舞踊家たちはそこを理解していなかった。みんなで集まっては楽しくワイワイやっていました。今だったら穣さんの気持ちがわかります。

 穣さんは29歳で、私は25歳、最年長の青木尚哉は32歳。メンバーは年下もいれば年上もいる状況で、芸術監督としてはやりにくかったと思います。カンパニーははじまったばかりで、今みたいにNoismメソッドがあるわけでもない。集団として目指す身体性もない。その場で穣さんがやることにとりあえずついていく、というやり方です。

 何しろ当時のメンバーをまとめるのは大変です。穣さんは男性に対してより厳しかった。あのやんちゃな人たちがみんな静かになってしまうくらい恐ろしかった。彼らもよく耐えたなと思うし、彼らだったから耐えられたと思う。和気藹々という感じはなく、誰も互いのことを気にする余裕がなかった。みんなの仲が良かったかというと、最初はそういう感じでもありませんでした。

 作品がある程度でき上がったとき、突然「佐和子にソロをワンパート振付ける」と穣さんに言われ、スタジオに私ひとり残されたことがありました。普通はソロってうれしいものですが、あのときは一瞬“うわっ!”と思いましたね。もう普通に話せるような状態ではなく、ちょっとでも間違えたらもはや刺されるのではないかというくらい重い空気でした。ソロをもらって“うわっ!”と思ったのは、あれが最初で最後でしょう。

 スタジオでの通しが強く記憶に残っています。穣さんと建築家の田根剛さんが険しい顔で私たちのことをじっと見ていて、もう怖いのなんの。1時間フルで通した直後、「はい、もう1回!」と穣さんが言い放ちました。ただでさえしんどい作品です。それを2回連続でやらされて、みんな足がガクガクになって立てないくらい。でもやらざるを得ない雰囲気だった。

 通し稽古で思い出すのが、研修生の中野綾子のこと。当時研修生はひとりだけでした。私たちが舞台で必死に踊っていて、ふと舞台袖を見ると、綾子が同じ熱量で踊っていた。その後彼女はメインカンパニー入りし、いろいろな作品に出演するようになりました。後にも先にもこういう研修生はなかなかいませんでした。近年は、「言われたことをちゃんとやる」子たちは多いですが、「自らが考え、チャンスをものにしていく」という子は稀ですね。

photo: Kishin Shinoyama

初演は2004年6月8日、Noismのお披露目です。

 舞台上に四方を囲む壁が置かれ、それが途中で上がっていきます。そうなるともうどこにも逃げられない。いつどこで穣さんが見ているかわからない。とにかく懸命に踊らないといけない。動きがどうとか、お客さんに向けてという記憶がなくて、穣さんがどう思うかをまず考えていましたね。それを1日2回公演です。しんどさとストレスでみんな胃をやられていた。お昼ご飯も食べられなくて、ゼリーを飲んでしのいでいました。あのとき公演を観た人たちは、私たちの違う意味の気迫を感じたと思います。今思えば、このときの感覚は舞台人にとって、とても重要だったのではないかと思います。

 本番で1度事件がありました。東京公演のとき、装置が上がった瞬間、ぽろっとコンタクトが落ちてしまった。“あ、落ちた”と思って、一瞬気が抜けたのでしょう。舞台が終わったあと、穣さんに「あの瞬間気が抜けただろう!」とものすごく怒られた。穣さんはコンタクトが落ちたなんてことは知りません。ソロではなく、みんなで踊っているシーンです。“怖! この人は全部見えている!”と震えました。

 『SHIKAKU』はヘアスタイルが独特でした。衣裳の北村道子さんの指定で、男性はドレッドヘア、女性は坊主のような短髪で、髪も眉も白に近い金髪です。ある日美容師さんたちがりゅーとぴあに来て、スタジオで全員の髪をカットしていきました。朝9時にはじまって、全員終わったのが夜12時近く。ドレッドも金髪も、最初はすごく痛いんです。私も1週間くらい頭が痛くて、まともに眠れなかったくらい。公演が終わるまで黒くならないよう、眉毛は毎日クリームで色を抜いています。本番も美容師さんがずっとつきっきりでした。そんな状態だったから、本当に身も心もズタボロでした。

photo: Kishin Shinoyama

日本初の劇場専属舞踊団として、舞台の手応えはいかがでしたか?

 舞台が終わった瞬間、みんなで乗り越えたという感覚がありました。でもメンバーがまとまっていたのは唯一そのときくらい。日本初の劇場専属舞踊団としてこれからやっていくんだ、という気概はまだ誰にもなかった。それはもうはっきり言えます。Noismがはじまったときからそうで、それが何なのかということ自体よく理解できていなかった。あのときは目の前にある踊りに真剣に打ち込むだけ。それが1番にありました。

 公演が終わっても、穣さんからはねぎらいの言葉も何もありませんでした。何か達成したなんて穣さんはこれっぽっちも思っていないから。ねぎらいの言葉をはじめてもらったのは、それから10年近く経った後のことでした。

 『SHIKAKU』が終わると、すぐ夏休みに入っています。終わった直後から、私は穣さんと話し合いです。二人で一緒にマンションを借りて住んでいましたが、別々の家に住もうと決めました。それを誰にも言えずに苦しかった。ずっとひとりで抱えていて、毎日吐き気がしていました。休みに入っても全然休まるどころではなく、もっと心が折れていった。穣さんと付き合い出して3年目くらい。プライベートではあのころが一番大変でした。3年目の危機です。

photo: Kishin Shinoyama

 

Noism20年 井関佐和子、全作品を語る(2)につづく。

 

プロフィール

撮影:松崎典樹

井関 佐和子
Sawako ISEKI

Noism Company Niigata国際活動部門芸術監督 / Noism0
舞踊家。1978年高知県生まれ。3歳よりクラシックバレエを一の宮咲子に師事。16歳で渡欧。スイス・チューリッヒ国立バレエ学校を経て、ルードラ・ベジャール・ローザンヌにてモーリス・ベジャールらに師事。’98年ネザーランド・ダンス・シアターⅡ(オランダ)に入団、イリ・キリアン、オハッド・ナハリン、ポール・ライトフット等の作品を踊る。’01年クルベルグ・バレエ(スウェーデン)に移籍、マッツ・エック、ヨハン・インガー等の作品を踊る。’04年4月Noism結成メンバーとなり、金森穣作品においては常に主要なパートを務め、日本を代表する舞踊家のひとりとして、各方面から高い評価と注目を集めている。’08年よりバレエミストレス、’10年よりNoism副芸術監督を務める。22年9月よりNoism Company Niigata国際活動部門芸術監督。第38回ニムラ舞踊賞、令和2年度(第71回)芸術選奨文部科学大臣賞受賞。

 

Noism

りゅーとぴあ 新潟市民芸術文化会館を拠点に活動する、日本初の公共劇場専属舞踊団。プロフェッショナル選抜メンバーによるNoism0(ノイズムゼロ)、プロフェッショナルカンパニーNoism1(ノイズムワン)、研修生カンパニーNoism2(ノイズムツー)の3つの集団があり、国内・世界各地からオーディションで選ばれた舞踊家が新潟に移住し、年間を通して活動。2004年の設立以来、りゅーとぴあで創った作品を国内外で上演し、新潟から世界に向けてグローバルに展開する活動(国際活動部門)とともに、市民のためのオープンクラス、学校へのアウトリーチをはじめとした地域に根差した活動(地域活動部門)を行っている。Noismの由来は「No-ism=無主義」。特定の主義を持たず、今この時代に新たな舞踊芸術を創造することを志している。https://noism.jp/

 

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