金森穣&井関佐和子『マレビトの歌』インタビュー!
新潟・埼玉での再演に向け、演出振付を手がけるNoism芸術総監督の金森穣さんと、舞踊家で国際活動部門芸術監督の井関佐和子さんにインタビュー。作品への想いをお聞きしました。
『マレビトの歌』は富山県・黒部市の「黒部シアター2023春」で『セレネ、あるいはマレビトの歌』として初演された作品で、Noismにとってはじめての野外劇場となりました。
井関>鈴木忠志さんに声をかけていただき、「黒部シアター2023春」へ出演しました。上演する作品を決めるとき、いわゆるオムニバス的なものにするか、過去作品のどれかを上演するか、穣さんがずっと悩んでいて。それ以前に劇団SCOTの作品を黒部シアターで観たことがあり、会場自体の雰囲気は知っていたけれど、何にもない状態の舞台はまた違うはず。2人で一度舞台を見てみようと現地に行ったんです。そうしたら、穣さんが「見えた」と言い出して。
金森>自分ではあまり覚えてないけれど……。ただ何かを創るときは必ず見える。見えないで創ることはまずないから。
井関>それで、私に「丘の上から歩いて来てみて」と言ったんです。そのとき、これはやばい、本番も歩くかもと思って、何歩あるか数えて。300何歩とメモした覚えがある。
金森>黒部シアターは緑の丘と黒い舞台の境界線がすごくはっきりしていて、ホリゾントみたいに立ち上がっている。空間構成において、緑の丘の領域と舞台が彼岸と此岸のようで、その境界をどう捉えるかが大事だということだけはわかっていた。木々があるとか、月があるとか、そういう絶対的な自然もあるけれど、そこに行く手前の1番大事な要素として、緑の丘と黒い舞台の境界をどう捉えるかということで作品をつくろうと、それだけは決めて。佐和子に歩いてもらったのも、それを知るためだったと思う。
「マレビト」は他界(共同体の外部)から現世を訪れる神や霊的な存在を指す概念で、折口信夫は、この概念が日本文化を読み解く上で、とても重要だ、としている。ここ数年、そういったこの国の精神文化のようなものにすごく興味があって、ずっと調べていたんです。当時ギリシャ神話も面白いなと思っていろいろ調べていて、セレネとはギリシャ神話における月の女神の名称で、黒部には「セレネ」という名前がつけられた芸術創造センターもある。それらがカチャカチャとつながって、月が見下ろす丘で行われる、マレビトが来訪する儀式のイメージがわいてきました。
井関さんは作中、集団の中でひとり異質な者として存在します。
井関>それまで新しい作品を創るときは、いつもはじめに私に全部振付けをすることが多かったけれど、このときは違いました。みんなの振付けはどんどんできていくのに、私の振付けは全然決まらない。自分がどんな立ち位置にあるのかわからない。穣さんに聞いても、「佐和子が何なのか俺もわからない」と言われて。
金森>佐和子は年齢的にもキャリア的にも今のNoism1とはだいぶ離れてきている。10年くらい前なら一舞踊家として同じグループの中に組み込んで考えることもできたけど、今はできない。良くも悪くも浮いちゃう。佐和子を集団とは違うところに置くことが、まず今のNoismにおける舞踊家構成のリアリティとしてある。ただのインスピレーションだけではなくて、そういう必然があって。だから創り方としても、佐和子を組み込んでみんなのシーンを創るのではなく、佐和子はとりあえず置いておくしかない。
でも「早く自分がやることがほしい」「まず私の振りがほしい」と佐和子は言う。それはわかってはいたんだけどね。佐和子は誰よりもせっかちだから。だけど、この作品は佐和子がどの視座で、どの距離で、どのタイミングで来るかが大事になる。だからまずみんなの世界を創って、そこにひとり佐和子が来訪する。でもそれを逐一説明してもしょうがないから、とりあえず「待て」と言うんだけど。
井関>とりあえず雰囲気を見て歩いたりしてみるのだけれど、自分でも何者かわからない。穣さんにも「わからない」「わからない」と言われ続ける。黒部の創作のときは最後の最後まで放置で、あれは焦りましたね。
金森>「わからない」って言わないと佐和子を説得できないから「わからない」と言っているけれど、心の中ではわかりたくないんだよ。今彼女が理解できる範囲のことを与える=できてしまう。それじゃつまらない。完璧な何かを創って、全く関係のないものをぽんと放り込んだときに何が起こるかということが1番やりたいことだから。これを入れたらこうなると先にわかっちゃうことほどつまらないことはない。もちろん待たされている方がしんどいのもわかるけど、俺にとってはわかりたくないから「わからない」「わからない」と言う。ぽんと入れたときに「おぉ、こうなるのか」って思うのが何より楽しいんだよね。でも佐和子はもうお座り状態の犬みたいにしているし(笑)。
井関>この作品の後はそういう創り方をすることがたびたびあって、何回か経験したので、だいぶ学びましたけど。
金森>最近は受け入れるようになったんだろうね。
井関>ちゃんと「待て」していられるようになりました(笑)。
金森>佐和子はただの労働者じゃなくて実演家だから、「ここに入ってこれをしてください」と決めたことを言われてやるだけじゃない。やりながら佐和子が変わっていく。実演家として、表現者として、佐和子がある深いレベルで集中し、何か別のものに生まれ変わる環境をいかにつくれるかということが大事。放り込む先が面白くなければ、佐和子も何の変化も起こさないから、そちらをまず創り上げる必要がある。大事なのは、佐和子が入ったときに、今佐和子が想定しうること以上の何かが彼女の中で生まれること。それが生まれるとき、「来た!」って感じる。
そういうクリエーションって、佐和子くらいのレベルにならないとできない。若い子たちは、まだそこまで自分の可能性を開花させていないから。まだ「ああしろこうしろ」だし、自分たちで「こうしたい、ああしたい」ということがどうしても全面に出てきてしまう。彼らに関しては、「おお、そう変わるか」ということはなかなかない。それは今の彼らのリアリティ。その中で彼らと向き合うわけだけど、佐和子の場合はそんなところにいない。逆に言うと、佐和子がそれを感じられなければやりがいにもならないし、俺も見ていて面白いと思わない。それなら別に彼女じゃなくていいじゃんって話になってしまうから。
黒部でははじめて合宿をしたそうですね。
金森>合宿してよかったと思う。Noismは集団だとは言うけれど、稽古場外のことは介入しないし、介入されたくないという距離感もある。だけど黒部では、朝起きて、共有スペースに降りてくると誰かがいて、朝食を食べながらたわいもない話をして、夜ご飯をみんなで作って食べたりする。単純にそういう経験をしたことはずっとなかったから。自分も佐和子も、多くの舞踊家がそう。
井関>常にメンバーの空気を感じている状態で、それが合宿の面白いところ。例えば夜何か飲みたいと思ったら、宿舎の階段を降りて共同のキッチンに行くわけです。そうすると誰かがいて、ちょっと座って喋ってみたりする。
金森>若くしてみんな一匹狼で海外に行っていたりするから、部活も経験したことがないし、志を同じくする人たちで同じ釜の飯を食うという経験をほとんどしてこなかった。でも黒部でその意義を感じたよね。やっぱりこれは理屈じゃなくて。
井関>あれからみんなも変わったと思います。
金森>彼らの心理的にも変わって、俺たちに対する距離が変わったんじゃないかと思う。それはやっぱり踊りにも出る。稽古場でいくら集団集団と言っていても、同じ苦労をした経験があるとないとでは違う。昔だったら海外ツアーがそれに近い経験だったけれど、ここのところ行けていなかったから。単純に長い距離をみんなで移動するだけでも、合間合間に稽古場では見ない顔が見えてくる。寝坊したときのパニック具合とか、誰かがなくし物をしてみんなでお金を出し合ってなんとかするとか。そういう稽古場でできない経験を共にするのが海外ツアーにはあるけど、今のメンバーではなかったから、余計だよね。
この夏、利賀村で開催された「SCOT サマー・シーズン 2025」に参加。合掌造りの会場で、2年ぶりに『マレビトの歌』を再演しています。
金森>利賀は難しい空間なので、演出家として高い集中で挑みました。黒部は完全なオープンスペースで、野外だから空もある。でも利賀は柱が林立しているし、天井も低くて、狭いし、当然空は見えないし、何より空間の圧が尋常じゃない。空間が全然違うから、あらゆることを真逆の世界の中に落とし込む必要があって。まず段ボールで柱をつくって、黒く塗りつぶし、舞台用の照明を数個置いたりと、スタジオでも同じような暗がりの中で演出をして、時間をかけて取り組みました。空間と演出が違うからすごく違う作品のように見えるけど、振付はほとんど変えていないですね。
井関>ワンシーン完全に新しい振付があるけれど。
金森>ごく短いシーンを冒頭に足しただけで、それ以外は同じ。というのも、初演のときからいいものができたという手応えがあったから。その手応えが不確かなときって、再演のたびに手を入れたくなる。でも『NINAー物質化する生け贄』もそうだけど、最初からいいのができたなと思うとそんなにいじれない。実験的にいじっても、良くならないから結局元に戻すことになる。
井関>でもやっぱり空間の影響は大きくて、踊り手としては天と地ほど違います。黒部は円錐の舞台で後ろに林があって、お客さんがどうこうというより、自然の強さと自分の弱さの闘いがある。逆に利賀のぎゅっと密な空間になると、身体に対する圧力がすごいんです。それは歴史の重みなのか何なのかわからないけど、自然からくるものとは全然違う。
金森>それに利賀の客席は180席がマックス。最前列なんて目の前が舞台で、もうかぶりつきですからね(笑)。
井関>そうそう。黒部は外に向けてどれだけエネルギーを出すかに集中していたけど、利賀の場合はどれだけ自分の中にエネルギーを持ってくるかという集中でした。
2年ぶりに本作に取り組んだ心境、この2年で変化を感じた部分はありますか?
井関>2年前の黒部のあたりから、自分で自分が変わってきているのを感じています。踊るときに何かが外から突然降ってくる感覚があって。どうしたらそうなるのだろうと思って、一生懸命待っているのだけれど、いつやってくるかわからない。自分自身で常にそのゾーンに入れる状態にしたいというのが、ここ最近のテーマとしてありました。
最近になって、ようやくそれを見つけはじめたというか。自分がしたいことや表現したいことを頭の中で考え、模索している自分がいる。それを消せたとき、自分の身体がふっと浮かび上がって、身体の枠だけが感じられる。その状態で舞台に行くと、穣さんも「良かった」と言ってくれる。もはやどうこうしようとしている自分すら捨てると、スイッチが入る瞬間がある。無我の境地というか、無心というか、言葉では説明できない状態です。自分からそこに入っていけるようになりそうで、今実験中です。
金森>それが経験を積むということだと思う。演出する側も同じだけれど、ある物事に必要なタイミングとか時間ってあって、最低これくらいはかかるよねという時間がようやくわかるようになってきた。若いころってどうしてもアイデアとか勢いやエネルギーでそれを超えられるんじゃないかと思うのだけど。どれだけいいアイデアで、どれだけエネルギーをかけても、やっぱり必要な時間ってあるんだということがちょっとわかるようになってきた。それは、佐和子を見ているとわかる。自分でしようとするときは、やっぱりそこへ行かないんだよね。適切な時間が与えられてできることがある。ということは、こちら側がその時間を与えなければいけない。細かい振付けを入れていたらそこにはいけない。削いで削いで、その結果シンプルになっていくことになる。
井関>あと自分でも変わったなと思ったのが、今回の利賀の稽古のとき。私が男性4人に囲まれて激しく動くシーンがあって、本番直前に穣さんから私に根本的なダメ出しをもらったんです。それまでだったら、「ずっとこれで稽古してきたのに、このタイミングでそんなこと言われても!」となっていたはず。自分がここまでやってきたことを肯定してほしいから、すごく怒っていたと思う。
金森>今までだったら、普通に喧嘩しているよね。
井関>でも今回は穣さんの話がすごく腑に落ちて、すんなり「そうだよね」って聞けた。またそれに穣さんがびっくりして。
金森>こちらとしては、きっとまた険悪になるだろうけど、これは言わなきゃダメだよなと思って言うわけですよ。そうしたら「やってみます」って言うから。
井関>作品にしても、自分の年齢にしても、ちょうど目指したい方向だったし、全然ずれていなかった。ゲネでトライして、穣さんが言っていることが正しいって確信して、本番もそれでいきました。
金森>そこでガラっと変えられるのって、やっぱりすごいと思う。言うは易しだけど、「この感じでやってみます」と言って、実際にそこに入ったとき、「うわ、すごいな」と思ったよね。
井関>激しいシーンになってくると、どうしても心の問題になってくるんですよね。自分の心が役の人物とすごく密接になってくる。そうすると客観性がどんどん失われる。そこで客観的に全体のバランスの見え方をいろいろ説明してくれて、すごく納得したんです。だからできたんだと思います。
この秋はスロベニアで開催された「Visavì Gorizia Dance Festival(ヴィザヴィ・ゴリツィア・ダンス・フェスティバル)」で上演を行いました。
金森>2年前の初演時からこの作品は評判が良かったけれど、いろいろな方から上演のお誘いがありました。スロベニアは2年越しでようやく決まった話。でも海外に行くときってだいたいそれくらいはかかるから。
井関>『マレビトの歌』は先方のチョイスです。「これはどうですか?」といくつか作品の候補を送りつつ、『マレビトの歌』を1番推してはいました。
金森>それにセットがないから身軽なんですよね。『NINA』もそうだけど、衣裳だけ持っていけばなんとかなるので海外にいくには最適。ただスロベニアは行ったことがないから、どんな劇場かもわからない。写真で見ただけ。写真も最初は1枚だけで、しかも「この写真だけ?」っていうものしかなくて(笑)。だから本当に現地へ行ってみないとわからない。スロベニアは今の利賀バージョンをもとにして、大自然も柱もないエンプティーな空間用に演出して、とりあえず現場に行ってみた。そこでどんなものができるか。
井関>『マレビトの歌』はまだ1度も普通の舞台を経ていなくて、いわゆる劇場で踊ったのはスロベニアがはじめて。黒部も利賀もあまりにも強烈な体験だったので、自分がどちらかに寄せていこうとするんじゃないかというのが危機感としてはありましたね。だから楽しみだけど、すごく不安でした。
この冬の新潟・埼玉公演は、スロベニアの凱旋公演としての位置づけとなります。
井関>黒部も利賀も客席数が少なく、地方というのもあって、実際に観ている方がすごく少ないんですよね。利賀や黒部で観た人がまた劇場で観たら面白いだろうなと思うし、これはぜひ国内の劇場でやりたいという気持ちがありました。
金森>スロベニアで得たものを踏まえて、新潟・埼玉用にまた凱旋版を創ります。凱旋版と言っても新潟、埼玉でまた空間は違うし、その劇場空間での演出をどうするかというのが1番大事。まずは空間を掴んで、そこにどう身体を配置していくか。それが決まったあかつきに、その場で身体がどう変容するかというところにどう辿り着くか。音楽は決まっているし、新たなシーンをつくろうとは思っていないから、これをどう上演するかということだと思うけど。
井関>野外でやって、日本家屋でやって、国が変わってスロベニアで上演し、日本の劇場で上演する。いろいろな空間を経て、どんどんいい作品になっているのを感じます。舞踊家の内側が確実に変わっていて、どんどん変容しているから、どんどん良くなっているのがわかる。実は穣さん、冬公演に出るんです。山田勇気のパートを穣さんが踊ります。またそこでみんなも変わるだろうから。何よりこの作品を創ったあたりから、穣さんもガラッと変わってきていると思う。
金森>抽象度も含め、この作品はすごく詩的。楽曲はすべてアルヴォ・ペルトのもので、シーンごとにあるテーマにのっとった演出振付をしている。それはまるで詩を紡いでいるようなもの。それはペルトの音楽が詩篇に基づいて作曲されていることからも来ているけれど、結局舞踊芸術って、舞踊と音楽という二つの詩が拮抗して融合することで生まれる新たな詩のようなものだと思う。そこに金森穣として何が大事かという精神性や、どういう価値観に生きているかというのが、図らずも出てくるのだと思う。
井関>穣さんが詩って言ったけど、私もこの間本を読んでいて、穣さんのやっていることにピッタリな言葉を見つけて。これまで劇的舞踊や近代童話劇などいろいろ言ってきたけれど、穣さんの作品ってここを境に詩劇になっている。ポエティックな劇だから、抽象性がすごくあるけど、その中に具体的な言葉がぽつぽつ置かれている感じ。だから、金森穣の作品は詩劇だなって。
明確な物語はないけれど、そのシーンごとにいろいろなテーマが隠されていて、踊っていても毎回違うテーマが出てくる。すごく深い作品だなと思う。だから観ている人たちも、お話を追おうと思わないで、そのシーンごとに何かを感じてもらえたらと思います。






