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梅津貴昶『梅津貴昶の会』インタビュー!

日本舞踊家で梅津流家元・梅津貴昶さんが、この春5年ぶりとなる『梅津貴昶の会』を開催。ご自身の代表作『京鹿子娘道成寺』と『万歳』の二作を歌舞伎座で披露します。家元の梅津さんに、会への想いと、その舞踊人生についてお話をお聞きしました。

この春、創流35周年『梅津貴昶の会』を歌舞伎座で開催。代表作であり大曲の『京鹿子娘道成寺』を披露します。

梅津>2歳6ヶ月のとき母に歌舞伎座へ連れて行かれ、はじめて観たのが『京鹿子娘道成寺』でした。昭和26年5月16日に開催された六代目中村歌衛門襲名披露の会で、今でも記憶に残っています。私が “芸の世界で生きていこう”と心に決めたのもそのときのこと。母には“あなたをあのとき歌舞伎座に連れて行ったばかりに私はこんなに苦労した。大変な子ができちゃったわ”と言われましたね。お金もかかるし、もともと身体が弱かったものですから、母にはずっと心配ばかりかけていました。

それでも踊りを続けてきたのは、好きという気持ちが一番大きいと思います。身体が弱くて踊れない時期もずい分味わいましたから、そのせいかもしれませんけど、いまだに踊りが好きだし、いまだに初舞台のように思います。今回の会も35回目になりますが、今初めてあけるような気持ちです。だからいつも新鮮な気持ちで取り組めるし、新鮮な気持ちで出し物が選べます。

 

『京鹿子娘道成寺』

 

“3つ子の魂”と言いますが、それは本当だなと思います。何かというと私には『道成寺』がついてまわります。やっぱり初体験のエネルギーというのはすごいですね。7歳のときに初舞台を経験しましたが、そのときの演目も『京鹿子娘道成寺』でした。普通は『藤娘』や『子守』、『菊づくし』とか、子どもがよく踊る演目を選ぶものだけど、私は“初舞台をするなら『道成寺』以外は嫌!”と決めていたんです。

梅津貴昶を襲名したときも『道成寺』を踊り、『梅津貴昶の会』の第一回も『道成寺』、10周年も昼夜公演で『道成寺』をやり、歌舞伎座の建て替え前の最後の公演も『道成寺』、新しい歌舞伎座ができたときも『道成寺』、国立能楽堂でも『道成寺』を二回踊りました。

ただ“娘”とついている以上老いてまで踊るのは嫌だから、今回はこれで舞い納めたいという気持ちでいます。古希ということもあり、ここで一回ケジメにしようと思っています。

 

『京鹿子娘道成寺』

 

もう一作は『万歳』。こちらは中村勘九郎さんと板東巳之助さんの三人で踊ります。

梅津>『万歳』は『花競四季寿』という文楽のためにつくられた景事で、芝居でもドラマでもなく舞踊文楽です。春が『万歳』、夏が『海女』、秋が『関寺小町』で、冬が『鷺娘』、その春の巻を中村勘九郎さんと坂東巳之助さんと私の三人で踊ります。『梅津貴昶の会』にはこれまで團十郞さん、富十郎さん、玉三郎さんなど歌舞伎の方に出ていただいてきましたが、亡くなられた中村勘三郎さんと板東三津五郎さんの三人で踊ったことはありませんでした。

“新しい歌舞伎座ができたら三人で踊りましょう”と言っていたのに、おふたりとも新しい歌舞伎座に立つことなく亡くなってしまった。けれどおふたりのご長男が成長なさってきたので、これでお父様方との夢が叶う、叶えようと……。勘九郎さんと巳之助さんには期待しています。年齢や時代、性別なんて関係ないと思うんです。自分がいいと思ったもの、好きと思ったものはやっぱり好き。いくら人が好きだと思ったって、自分が嫌いなものはダメですよね。今回は彼らのお父様である勘三郎さん、そして三津五郎さんと一緒に踊っている心になれるのではないかと思っています。

 

『吉野山』中村勘九郎(十八代目中村勘三郎)と

 

中村勘三郎さんとは親しくされていたそうですね。

梅津>勘三郎さんと知り合ったのは私が17歳、彼が高校生になるかならないかの頃でした。中村富十郎さんが五代目襲名で踊られた『娘道成寺』を観に行ったとき、やはりそれを観に来ていた勘三郎さんを三津五郎さんが紹介してくれたんです。三津五郎さんとは鳴り物のお稽古が一緒で、お稽古を16時半に引きあげては彼とお茶を飲み、それから歌舞伎座に行って『道成寺』を毎日拝見してました。

勘三郎さんは芸友ですね。自分の家にいるより、あの方の家に泊まっている方が多かった。私は“中村家の長男”と言われていて、そのたび私も“あんな不肖の次男は持ったことないわよ”なんて言ってましたけど(笑)。朝になると女中さんが“ぼっちゃん、お稽古ですよ”って起こしにくるんです。でも勘三郎さんはお酒が好きだから、夜になると出掛けてしまっていない。女中さんに、“ぼっちゃんはどこかに行っていないわよ、お願いだからもうちょっと寝かせてよ”なんて言ってましたね。

勘三郎さんのおばあさま、踊りの神様と呼ばれた名人・六代目尾上菊五郎さんの奥様にはとても可愛いがっていただきました。私が17歳のときに新橋演舞場で踊った『鐘の岬』をおばあちゃまがご覧になって、見込んでくださったんです。私は素人の家の子ですけど、以来おばあちゃまの秘蔵っ子と言われるようになりました。

 

 

今回は5年ぶりの会となり、また古希という節目でもあります。会にかける想いもまたひとしおなのではないでしょうか?

梅津>『梅津貴昶の会』は毎年歌舞伎座で開催していて、歌舞伎座の改修中は国立能楽堂に会場を移して開いてきました。最後に会を開いたのは4年半前。次の春にまた開催するはずでしたが、明治座で倒れてしまった。命の危機というところまでいきましだけど、舞台に立つという気持ちはずっと変わらずありましたね。マイナスに考えるとうつむいてしまうけど、病気をしても学ぶことはあります。ただ『京鹿子娘道成寺』は78分と非常に長いので、これだけ大病した人間がやろうとはなかなか思わないでしょう。

『道場寺』には『道場寺』の型というものがあって、その型の通りにやらなくてはなりません。ただバレエもそうですが、50回まわるところが30回になったとしても、それを補って余りあるものがあるかどうかが重要です。いい年輪を重ねているかどうか、答えは芸に出る。観た方の心に出ると思う。“梅津さん、病気をしたから衰えたわね”と言われたら、それが私の実力です。“病気をしたけど、やっぱり『道成寺』が似合うわね”と言われたら、それはまだ少し私のエネルギーがあるということかもしれません。

5年ぶりといっても気持ちは変わりません。ただ怖いだけ。きっと毎年やっていてもこの怖さは変わらずあると思います。どんなときも“心臓が口から出るのでは?”というくらい震えます。私は素踊りなので扮装をしませんし、特に黒紋付ですから、わかりやすくアピールするものがないんです。舞台袖では何も考えないようにしようと思うけど、やっぱりガタガタしちゃう。でもひとたび歌舞伎座の舞台に出るとリラックスできてしまう。だからなのか、舞台を観たお客さまは私が怖がっているようには見えないそうです。

 

 

奈良・東大寺の三月堂にある不空羂索観音立像が好きで、たびたび詣でに行っています。不思議なことに、そのときどきによって怒られているように見えることもあれば、包まれているように見えることもある。といっても向こうは1300年ずっと変わらずそこに座っている訳ですから、こちらの心境なのでしょう。あの凛とした背中、それから踊りに必要な筋肉、腿、腰を見ていると、“これだったら『船弁慶』でも何を踊っても疲れないだろうな”と思います。それに、あの慈愛に満ちた目といったら……。舞台の前はいつも、観音経を唱えて心を落ち着け、お塩で清めてから踊っています。

それは舞台前に限らず、毎日欠かさず行うこと。私は朝起きるとまず10分くらいゆっくりスクワットをします。そして深呼吸をする。お塩でうがいをして、神様にお茶をあげて、自分のお水を飲み、それから一日がはじまります。病気をしてからはなかなかできないけれど、以前は舞台が近くなると水泳で身体をこしらえていました。ただそういうことは私だけの内輪なことで、また別に芸という世界がある。芸という世界の私を理解してもらえれば幸せですね。

 

『寄せ向う』

 

歌舞伎座の舞台に立つというのはどういう心境なのでしょう。

梅津>歌舞伎座はやっぱり違います。オペラ座の怪人ではないけれど、魂をそこに捧げた人がたくさんいるように思います。あと、歌舞伎座は陰気じゃないんです。華美ではないけれど、パッとしてる。ロビーにしてもそう。だから暗い踊り、例えば『鷺娘』のようなちょっと陰にこもった踊りでも、パッとしているからその暗さがとぶんです。空間が明るいから、暗いものは余計に暗く、明るいものはさらに明るい印象として残る。要するに明確、明瞭なんです。そういう劇場というのはなかなかありません。あれは吉田五十八さんの力ですね。

歌舞伎座の改修は隈研吾さんが手がけましたが、私としては吉田五十八さんの高弟である今里隆さんに劇場をお願いしたいという気持ちがありました。そこで改修前に隈さんのところに行き、“劇場はぜひ今里さんでやっていただきたいんです”とお話しさせていただきました。“後ろのビルディングはともかく、歌舞伎座は今里さんでなければ困るのよ”と。松竹の社員でもないのにね(笑)。隈さんは、“お家元と今里さんでご相談されてください”と言ってくださいました。

 

 

前身の歌舞伎座が創建された頃は戦争もあって、日本檜が手に入らなかなったので、いろいろな檜が使われていました。ただ松竹を創始された大谷竹次郎さんはすごい方で、奈良の山持ちから歌舞伎座に必要なだけ檜の木を買い、秩父に植えていたそうです。歌舞伎座が改修するときちょうどその檜が育って、本当の檜舞台になりました。それまではいろいろ檜が混ざっていたけれど、初めて総檜になったんです。また歌舞伎座は前身のときから、奈良の興福寺や唐招提寺ですら手に入らなかった貴重な瓦を使っていました。改修のときはその瓦を一枚一枚剥がし、新たに打ち直しています。私も一枚その瓦を持っています。

大谷さんは双子の兄弟で、竹次郎さんは弟、松次郎さんが兄。それで松竹という訳です。松竹の会長室には大谷さんの肖像画がかかっていて、そこに“我が生涯は演劇なり”と書かれています。おふたりはもともと京都の祇園座の休憩時間にお茶を売るお茶子をしていましたが、そこからはじまり、京都にあったほとんどの芝居小屋をご自分のものにされてしまった。歌舞伎が好きで、一代であそこまで築き上げた。スケールが全然違います。テレビもなければ、電話もない、もちろんコンピューターもない時代です。昔の人の人間力というのはすごい。今は何かに頼るから人間力が落ちていますね。

 

 

これで最後の『京鹿子娘道成寺』となると、名残惜しく思うお客さまも多いのではないでしょうか。

梅津>誰だっていつかは必ず踊らなくなる日が来ます。もし“もっと観たいからまたやって”という声がひとりからでも聞こえたら、やった甲斐があるし、病気した甲斐があります。でも観る方は自由です。それに本当に好きで来ている方ばかりではないでしょう。油断は大敵です。ただ寿命が伸びたし、やはり芸は一生だと思っています。三島由紀夫さんに以前“日本の芸能は墓場まで持っていくから大変ね”と言われたことがありますが、その通りだと思います。

バレリーナの森下洋子さんは同年代ですが、彼女は今でも『ジゼル』を踊られるそうです。彼女はいつも私の会に来ると、二階席で観ていらっしゃる。“何で二階で観るの?”と聞いたら、“二階にいるとお家元の肩胛骨がよく見えるから”と言っていました。正面の席だとどうしても顔を見たり舞台装置を見てしまうけど、二階だと肩胛骨をどう使っているか見えるんだと。プロの見方ですよね。

 

『吉原八景』

 

私が尊敬する武原はん先生も、95歳まで生涯現役で踊っていました。彼女は関西の小さなお座敷でやっていた地唄舞を世に広めた天才舞踊家です。日本では女性はどうしても内助の功に徹してしまって、なかなか芸術家が出にくい傾向にありますよね。武原先生のように女性で芸術家として活躍される方はとても少ない。私が武原先生の踊りをはじめて拝見したのは6歳になる前のことでした。以来私は“いつか自分の会をするなら絶対に武原先生に出ていただきたい”と心に決めていて、その願いを「特別出演:武原はん、振付:梅津一馬(本名)」と画用紙に書いていたんです。そうしたら、26歳のとき先生の振付師になれたんです。びっくりしましたね。

武原先生がお亡くなりになるまで彼女のお側でいろいろ教えを請うたり、いろいろお話を伺いました。素晴らしい方と接していると気付くことですが、芸が素晴らしいと人間もやっぱり素晴らしいですね。素晴らしくない心根に素晴らしい芸が宿るはずがない。たとえ歌舞伎のように着飾って厚いお化粧をしていても、やっぱり最後は性根というか、お腹の中で何を考えているかが、その方の持っている声や雰囲気に出ます。武原先生は本当に素敵な方でした。“芸は一代”ということを私に教えてくれました。

 

 

踊り手としてはもちろん、振付家としても活躍し、これまで多くの作品を手がけてきました。振付けで大切にされていることは何でしょう。

梅津>これまで振付けした作品は864曲。全部日本舞踊です。日本舞踊の世界でこれだけの数を振付けているのは珍しいと思います。何曲かは伴奏がクラシックだったり、日野皓正さんのトランペットやヨーヨー・マの曲だったこともありますが、ほとんどが邦楽です。

今度踊る『京鹿子娘道成寺』や『勧進帳』といった作品は型が決まっているのでそうは崩しません。型というのは強いですね。そこはクラシック・バレエとも共通する部分だと思います。『万歳』は三人用に新しく振付けます。

振付けで一番重きを置いているのは呼吸です。その曲に対する自分の呼吸。曲の持っている、洋楽でいえばリズム、日本の音楽で言えば間。そういうものの間に何を感じるか、そこで自分がどういう呼吸ができるか。呼吸感というものを大切にしています。

 

 

2月に開催されるトークイベント『トーククロス/THE ROOTS vol.1『DANCE』』に、バレエダンサーの首藤康之さん、ダンサーのTAKAHIROさんと共に出演されます。こういう機会は非常に珍しいのでは?

梅津>以前大阪のリーガロイヤルホテルで開催された『一流を知る』という会にお招きいただいたことはありますが、こうして三人でお話する会は初めてです。三人というのはいいですよね。日本は奇数の国。七五三や五七五にしてもそうだけど、きちんと割り切らない。それが日本の美のひとつだと思う。

首藤さんとは以前私の著書で対談をしたことがあって、またTAKAHIROさんは中学高校の後輩にあたるという縁があります。今回は首藤さんがナビゲーターで、私も出演者のひとりですけど、おふたりのことを伺いにいくという気持ちでいます。

 

 

首藤さんのことは、彼がまだ東京バレエ団にいらしたときに拝見したことがありました。モーリス・ベジャールが来ていた頃のことです。首藤さんとお話をしていると、共通するものがたくさんあるのを感じます。バレエは縦長で舞台装置も空間も高いけど、日本のものの美学というのは絵巻風に横長になっている。歌舞伎座もそう。そこで育まれたもの、踊りの表現も方法も歴史も違うけど、同じものはすごくある。とにかく肉体を使うし、音があるし、音と音との異空間、無のような時間がある。そのときどこに力を入れているのか、背骨がどうなってるのかといったことを話していると、首藤さんが“僕も同じです”と言うんです。

私は“いくつまでしか踊らない”とか、“この役は似合わない”だとか、“これが得意だ”とか“苦手だ”とか、あまり理由をつけないようにしています。嫌いだって思ったり、ダメだって思ったり、ここまでだと思ったり、自分で枠をつくると限界が早くきちゃうから、枠をつくらないようにしているんです。そう言うと、首藤さんも“僕も子どもの頃からずっとそう思ってました”と、すごく共感してくださいました。

特に同じなのは、自分が見えないということ。それは世界共通で、舞台芸術家は全てそう。評価されてもされなくても、みんな自分の姿が一番見たいと思うんです。本当に見てみたいんです。

 

 

2月に著書『天才の背中~三島由紀夫を泣かせ、白洲次郎と食べ歩き、中村勘三郎と親友だった男の話』を上梓されます。ここでは中村勘三郎さんといった歌舞伎界のスターをはじめ、白洲次郎さん、三島由紀夫さんなど、各界の巨匠たちとのエピソードが綴られています。

梅津>巨匠が周りにいたといっても、それはやはり生まれ育った環境でしょう。小さい頃からずっと大人の中に転がりこんで生きてきたんです。学生時代は学校も全然行かなかったし、同級生とは話が通じませんでしたね。でも友達はたくさんいましたよ。ちょっと特殊だったので面白かったんじゃないでしょうか(笑)。

白洲のおじさまとは毎日のように一緒に食べ歩いてました。おじさまは月が好きだったので、今でも月が出ると窓をあけて、“ありがとう”と言っています。三島由紀夫さんとも親しくさせていただきました。あるとき彼とお茶を飲みながら“先生は天才で素晴らしいと思うし大好きだけど、頭が良すぎて小説を読むって気持ちにならないの”と言ったら、涙目になってしまって。きっとご自分も納得なさるものがあったんだと思います。あわてて白州のおじさまに電話をして“私が言ったことが悪かったみたい、涙ぐんでしまって。おじさまちょっと来てよ”と言ったら、“なんだ、泣きたいやつには泣かせとけよ”なんて言ってらしたけど(笑)。

 

『保名』

 

2歳6ヶ月のとき『京鹿子娘道成寺』に出会い、以来70年近く踊り続けてこられました。舞踊家にとって必要なもの、欠かせないものとは何だと考えますか?

梅津>好きか嫌いかです。私もやっぱり踊りが好きなんでしょうね。ブレたことはないです。今日は嫌だなと思ったこともありません。でも人間の人生だから、ビリヤードの球みたに突かれるんです。ひとつの道を歩いていても、こっちに当たったり、あっちに当たったりと、真っ直ぐは歩けない。あるときは演目に当たったり、あるときは人の妬みに当たったり、自分の奢りにぶつかったり、病気にぶつかったり。真っ直ぐは歩けないけれど、嫌いになったことは一度もありません。

 

梅津流発足の会

 

芸を磨く上で普段から心がけていることはありますか?

梅津>嘘を吐かない。それは芸に出ます。そう思って生きてきました。嘘を吐かずに生きていると、もちろんぶつかりますよ。敵だらけ。家族の中だってモメるのに、他人が集まってモメない訳がない。でも敵のいないプリマや主役なんて、実力がないと言っているようなもの。

森光子さんが70 歳を過ぎてから彼女に踊りを教えはじめ、以来25年間ほどお付き合いをさせていただきました。あるとき森さんに“これほど長く『放浪記』をやっているからには、何か座右の銘があるんでしょ?”と聞いたことがありました。彼女は“嘘を吐かないことじゃない”と言っていましたね。

森さんが『放浪記』で関西地方をまわっていたときのこと。次の公演まで3日間空いたので、みんなで有馬温泉に遊びに行きましょうという話になった。でも“森さんも温泉お好きだしぜひ行きましょう”と誘ったら、森さんは“私はいいわ、みんな行ってらっしゃい”と言ったといいます。“私は東京に帰って、空気を吸って、お芝居か映画かまた何か刺激になるものを観て、台本を読んで戻ってくるわ”と。“でも森さん、『放浪記』はもう1800回もやっているんですよ”と言ったら、“私たちは1800回やっていても、明日来るお客さんにとってははじめてなのよ”とお答えになったそうです。

きちっとしてらして、森さんらしいなと思いましたね。森さんを見ていると、抜きん出るというのは偶然だけじゃないなというのを感じます。やっぱりその人の性格とか、感覚、人生観といったものが人の記憶に残り、忘れられない存在になるのではないでしょうか。私はそう思います。

 

 

私は嘘は吐かないけれど、必ずしも常に自分が正しいことを言っているとは思いません。ただ本当のことを言っていたら間違いがないですよね。人はなかなか70歳になった人間に注意をしてくれません。褒めはします。だから、その気になると落ちるんです。だからあえて一回喜んでみる。一回信じて喜んでうぬぼれてみて、でも違うんだと思い直すんです。

芸に対して一回でも嘘を吐いちゃうと、芸にほこりがつく気がして嫌なんです。舞台では私を観てもらうしかない。私の中から感じ取ってもらうしかない。そこは着飾れませんから、少しでもきれいでありたいと思っています。

 

 

 

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