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谷桃子バレエ団75周年ガラ開催! 森岡恋インタビュー

リアル動画で話題沸騰中の谷桃子バレエ団が、この夏75th Anniversaryガラ公演「TMB HISTORY GALA PERFORMANCES」を開催。谷桃子バレエ団が誇る人気演目とキャストが勢揃いする豪華プログラムで、大きな話題を集めています。開幕を6月に控え、主要キャストを務めるダンサーの森岡恋さんにインタビュー。リハーサルの様子とバレエ団での日々をお聞きしました。

新春公演『白鳥の湖』では新人ながら主演に大抜擢されました。森岡さんの主演回はソールドアウトを果たし、大きな話題を呼んでいます。やはりプレッシャーもあったのでは?

森岡>やっぱり緊張感はものすごくありました。YouTubeのインタビューでは、「プレッシャーはあまり考えないようにしています」とは答えてはいたけれど……。というのもプレッシャーを感じている姿を表に出すと、舞台を観ているお客さまを心配させてしまうから、なるべくそういうところを見せたくなくて。腰が痛いというのも本当は言いたくなかったけれど、最終的には出ちゃってましたね。

初回のリハーサルで、尚子先生に「背伸びしなくていいから、等身大の今の恋ちゃんの『白鳥の湖』を踊ればいいから」と言っていただいて、それがずっと心に残っていました。その言葉を都度都度思い出しては、“無理に背伸びせず、できることをやっていこう”という気持ちを持つようにしていました。

平田桃子さん、永橋あゆみさんと、ほかのお二人がすごすぎて、私にとっては憧れでしかありません。でも同じ演目を踊るのなら、それなりに作品として仕上げないといけない、という想いが強くありました。王子役の森脇くんと支え合いながらの日々でしたね。彼も前回の『ドン・キホーテ』でドクターストップがかかってしまって、そのリベンジという気持ちがあったと思います。

谷桃子バレエ団公式YouTubeより

“いつか『白鳥の湖』の主役を”という気持ちはありました。でも私自身、自分に合うのはリーズやキトリ、クララで、オデット/オディールは私にはたぶん一生回ってこないだろうと思っていたんです。もし『白鳥の湖』をやるにしても、私が踊らせてもらえるとしたらパ・ド・トロワあたりだろうと。だから、まさかまさかの『白鳥の湖』デビューでした。しかも入団して1年もたたないうちに、です。

本番中は先輩方にいろいろ助けていただきました。谷桃子バレエ団って、ものすごく温かいんです。あゆみさんが私の髪をやってくださいました。プリンシパルから直々にやってもらうなんてこと、普通はないじゃないですか。「谷桃子バレエ団ではよくセミクラシックのヘアスタイルにするから、できるようになった方がいいよ」と言われたけれど、もう緊張してしまって、背筋が伸びる想いでした。

ファーストソリストの馳麻弥さんもずっとついててくださってて、励ましてもらったり、早替えを手伝っていただきました。 麻弥さんはこれまでたくさん『白鳥の湖』を踊られているから、こういうときにこういうことをしてほしいというサポートがもう完璧なんです。何年もバレエ団にいる大先輩があそこまでやってくださるのも、やっぱり谷桃子バレエ団だからこそだなって思います。

踊りながら、たくさんの温かい視線を感じることができました。YouTubeで私のことを見て来てくださったお客さまも多かったから、みなさん祈りながら見守ってくれていようです。本当に自分の肌で感じられたのは、カーテンコールのとき。踊っているときは役に必死で1回1回の拍手を全部は聞き取れないけれど、そこでようやく大勢の方がたくさん拍手してくださっているのを実感することができました。あとオーケストラの方々の中にもYouTubeを見てくださっている方、応援してくださっている方がいて、本当に私は恵まれているなって感じました。

谷桃子バレエ団公式YouTubeより

うれしかったのが、大切な人たちに観に来てもらえたこと。日本で踊りたいと思った理由のひとつに、友だちやお母さん、お父さん、お婆ちゃんに観てもらいたいという想いがありました。実際地元の広島から友だちや親戚が来てくれたり、東京の同級生もいっぱい来てくれて、そこで踊ることができたという喜びがすごくありました。

踊り終わった後、尚子先生から「よく頑張ったね」と声をかけていただきました。私自身は、ひと段落した、やり切れたという安堵もありつつ、3幕でちょっと上手くいかなかったところもあって、くやしい気持ちもありました。舞台は生モノだからしょうがないことではあると思っても、やっぱり上手い方はごまかし方も上手だから、上手くごまかしきれなかったという反省点もあります。この経験で私自身すごく強くなりました。

『白鳥の湖』のアーカイブ配信がはじまって、たくさんの方に「すごく良かったよ!」と言っていただきました。でも自分の中では反省点がもう富士山のようにあって。音の取り方とか、上半身の力み具合とかもそう。あれがあのときの精一杯であり、あのときの集大成ではあったけど、今改めて気づくことがものすごくあります。

新春公演『白鳥の湖』

バレエをはじめたきっかけと、これまでのキャリアをお聞かせください。

森岡>バレエをはじめたのは5歳のとき。幼稚園のお友だちのお母さんに、地元に新しくできたお教室に誘われて行ったのがきっかけでした。身体を動かすのが好きだったのか、そのまま教室に通うことになりました。

小学校4、5年生のときに、中学受験をするか、バレエを続けるか、どちらか選択を迫られて、バレエを選んでいます。もうそのころには本気でプロを目指そうと思っていたので、お教室を移動しようということになり、小池恵子先生のところに移りました。小池先生のお教室は広島で1番大きいと言われていて、先生自身バレエ協会の中国支部の支部長をされていました。スタジオの先輩方も、大きなコンクールに出たり、アメリカのバレエ団で働いている方もいます。

小池先生の稽古場ではまず体験レッスンを受けています。実はちょうどその日がYAGPの日本予選の締め切り日で、私も挑戦しようということになりました。まだ体験レッスンで、実際小池先生の教室に入ることも決めてない段階でしたけど(笑)。小学生ながらすごく負けず嫌いで、他の子ができていることを自分ができていないというのがすごく悔しかったんです。結局小池先生のところでお世話になることになり、教室に入っていきなりバリエーションを見てもらっています。

YAGPではサタネラを踊りました。小学校5年生か6年生のときだったと思います。それ以前にもコンクールに参加したことはありました。はじめて出たのは小学校3年生のときで、相模原で開催された順位がつかないコンクールです。そのときは『コスモ石油賞』を受賞し、賞金として5000円分の図書カードをいただきました。

小池先生の教室に移ってからは、毎日稽古に通っていました。学校から帰って、稽古をして、自習して……。とにかく練習がすごく好きで、踊り込んで技術を身につけたいという気持ちがありました。稽古場にはバスで通っていて、家まで1時間強。いつも最終バスまでずっと自習していて、日付が回ることもありました。

留学時代

16歳になったら海外に出る、という目標が私の中にありました。そのためにはスカラーをもらわなければいけない。ただどこに行きたいというのはそのときはまだはっきり決まってはいませんでした。

英国ロイヤル・バレエ団は1番好きなバレエ団ではあったけれど、まさか自分が行けるとは思っていませんでした。最初に憧れたダンサーもロイヤル・バレエ団のマリアネラ・ヌニェスで、私にとってはもう夢のような存在でしたから。

最後にYAGPに出たときは、ここで何かしらスカラーを取らないと年齢的に間に合わなくなってしまう、と焦る気持ちがありました。頑張った甲斐もあり、ロイヤル・バレエ・スクールのスカラーをいただいています。ただ一週間の短期スカラーだったので、すごく悩みましたね。でも両親に“こんな夢のような機会はないから行っておいで、その空気を楽しんでおいで”と言われて、その年の12月にロイヤル・バレエ・スクールに行きました。オペラハウスもそのときはじめて行きましたけど、日本にはない芸術に溢れたホールで、ものすごく感動したのを覚えています。

もうあの場にいることができるだけで幸せでした。一週間なんてあっという間です。だけど最後に、“じゃあまた9月に会いましょう”と声をかけていただき、改めて長期で留学することになりました。

留学時代

私が入学したのはアッパースクールで、1、2年生の寮に入っています。はじめての海外生活で、すごいホームシックになりました。ただみんなも各国から来ていたので、やはりホームシックになる子が多くて、お互い励まし合いながらなんとか頑張っていましたね。

ロイヤル・バレエ・スクールでは、実技はもちろん、歴史など座学も学びます。日本で教わってきたことと違うこともたくさんありました。何より違うのはスタイルです。それまではロシアメソッドも少し入ったミックスのスタイルだったのが、ロイヤルでは完璧なザ・ブリティッシュスタイルで、首の付け方、アクセントの取り方、アームスの使い方も全然違います。 ただ2年生のときの先生はロシアでも踊っていらした方で、ブリティッシュを基本にロシアのテクニックも踊れる身体作りができました。

留学時代

ロイヤル・バレエ・スクールにいたのは2年間。卒業後、フロリダのサラソタ・バレエ団のスタジオ・カンパニーに入団しました。ロイヤル・バレエ・スクール在籍中、学校のすぐそばのダンスタジオでオーディションがあるという話を聞いて、私も受けに行きました。そこでオファーをいただき、アメリカに行かずして就職先が決まった形です。

私は小柄なので、すごく悩んだ時期もありました。日本にいるとそうでもないけれど、ヨーロッパにいると1番小さくなってしまう。けれどサラソタ・バレエ団とご縁をもらい、アメリカに行こうと決めました。

サラソタ・バレエ団ではスタジオ・カンパニーのパフォーマンスもあって、『眠れる森の美⼥』のグラン・パ・ド・ドゥや『 海賊』のメドーラなども踊っています。そのほかバレエ団の公演が毎月あって、たびたび出演することができました。

留学時代

サラソタ・バレエ団は月給制で、スタジオ・カンパニーでも十分暮らしていけました。でもアメリカに渡って一年も経たないうちに、コロナ禍がはじまってしまって。だんだん状況がひどくなってきて、バレエ団の公演も打ち切りになりました。スーパーも開いている店が限られるようになり、アジアンヘイトもはじまって、自由に動けなくなってきた。水際対策で日本に入国できなくなるかもしれないという話になり、帰国を決めました。

帰国後は、地元の広島でアパレルで販売の仕事をはじめています。バレエ以外の人生も歩んでみたいという気持ちがありました。ロイヤル・バレエ・スクール時代にルームメイトがバレエを辞めて、すごく驚いたことがありました。それまで私はバレエでしか生きていけないと思っていたけれど、バレエを辞めるという選択肢があるんだと、彼女のことを思い出して。仕事を探していたときにたまたま見つけたのが『GUESS』。アメリカのブランドなので、どうせなら英語が話せる職場がいいなと思って決めました。広島は岩国に米軍基地があるので、海外のお客さまもたくさん来ます。好きな洋服も着られるし、アパレルの仕事は楽しかったですね。

アメリカ時代

『GUESS』では契約社員として働いていました。けれど“バレエはきっぱりやめよう、就職するんだ”と決めて、ブライダルの販売店に就職し、フルタイムで働きはじめています。

だけどしばらくバレエから離れていたら、やっぱり踊りたいという気持ちが沸いてきて。海外に行こうという気持ちはもうその時点でなくなっていました。でも日本でプロとしてバレエを踊っていくのはしんどいという話を聞いていたので、実際どういうしんどさがあるんだろうと、1週間の有給をもらって東京に来てみたんです。そこでいろいろなバレエ団にいる方に話を聞いて、やっぱりバレエに戻ろうと決めました。

会社を辞めたのは、就職してからちょうど1年くらいたったころ。何のあてもなかったけれど、東京にとりあえず出てきました。まずアーキタンツに通い、レッスンを受けています。親には「せっかくアメリカで働いてお金をもらうプロのダンサーになったのに、もう1度習うためにお金を払うの?」と言われてしまいましたけど。ただクラスを受けていたら、スカラーの声をかけていただき、レッスン料が免除になった。10月から3月まで集中トレーニングをそこで受け、谷桃子バレエ団のオーディションに挑戦しました。

アメリカ時代

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