93歳のバレリーナ 雑賀淑子(2)
戦時下のモダンダンス
彰城先生はダンサーで、お母さまはピアニスト、お父さまはチェリストという一家です。当時はそれで食べていけるような環境ではありません。そこで、彰城先生は米軍のキャンプで踊ろうと決意した。私もそのメンバーとして参加することになりました。当時はアメリカの進駐軍が立川や座間にいて、兵隊が集まる酒場でショーがあり、さまざまなパフォーマンスが夜ごと行われていました。バンドマン、歌手、手品師、アクロバットの人、コメディアンと、いろいろなパフォーマーが集まっていましたね。パフォーマーはAクラス、Bクラス、Cクラスと試験でクラスがわけられ、それによりギャラが決まります。私たちも試験を受けました。
夜9時、東京駅に集合します。そこへアメリカのトラックがやって来て、私たちをピックアップして、1時間ちょっとかけて立川や座間まで運んでいきます。現地に着くと、アメリカの兵隊さんたちはもうビールを飲んで酔っ払っていて、私たちは彼らの前で踊ります。
私たちのグループは、彰城先生と、チェロのお父さんとピアノのお母さん、ダンサーは私と嘉子ちゃん、あとOLのお姉さんが二人。ショーは週に2〜3回です。OLのお姉さんたちは出るときと出ないときがあって、嘉子ちゃんと私は毎回出ていました。彰城先生が衣裳を着替えている間、私たち子役が舞台に出て行って踊り、時間稼ぎをするのです。
ハンガリーの踊り、セーラーダンス、フラダンスも踊りました。衣裳は彰城先生のお母さまの手作りです。嘉子ちゃんと一緒に踊ることもあれば、交代で踊ることもありました。子役なんて当時はいなかったから、物珍しかったのでしょう。私たちがかわいい衣裳を着て出ていくと、「オー! ベイビーさん!」と兵隊さんたちが言っては、チョコレートやクッキーをくれたものでした。
ショーの終わりは夜の12時くらい。私たちは舞台裏でサンドイッチを食べ、コーラを飲んで、またトラックに乗って帰ります。もう電車はない時間で、トラックがみんなの家を一軒一軒回って下ろしていきました。
家に帰りつくのは明け方の3時ごろ。朝8時半には学校がはじまります。ちょっと寝て、学校へ行って、夜になると舞台で踊って、明け方家に帰って……。まだ中学2年生です。数ヶ月間続けたけれど、学校と舞台の両立に疲れ果ててしまった。ある日、先生のところへ行って、「もうイヤだ、辞めます」と伝えました。
嘉子ちゃんにはいまだに頭が上がりません。私が辞めたあと、嘉子ちゃんは私のぶんも踊らなければいけなくなってしまった。私の顔を見ると、「淑子ちゃんが辞めちゃったから、あのあと私ひとりで大変だったんだよ!」と言われます。そのたび「すみません!」と平謝りです。実際、相当大変だったようです。最後はアメリカ兵の仕事が減って、日本各地の炭鉱まで回ったそうです。学校に行く暇などなかったと聞いています。
私の中では、舞踊をするということは、トラックに乗って、アメリカ兵の前で踊って、明け方家に帰ること。懲り懲りだ、もう絶対にやらないと思いました。ただ実際に舞踊から離れていたのは、ほんの1年半だけでした。
焼け野原のバレエ教室
「雑賀さん、バレエっていうダンスが銀座であるらしいの。私、習おうと思うのだけど、ひとりじゃ心細いからついてきてよ」
ある日、中学の同級生に誘われ、バレエ教室に行くことになりました。あれだけダンスは懲り懲りだと思っていたのに、です。当時の私は人の言いなりで、誘われると断るということをしなかった。踊りたいという気持ちがあったわけではなく、ただお友だちが言うからと、彼女についていきました。
有楽町の駅で降りると、辺り一面焼け野原が広がっていました。お店はほとんどありません。銀座に千疋屋があり、新橋寄りにはあんみつ屋の立田野がありました。本当にそれくらい。稽古帰りに立田野であんみつを食べるのが私たちの楽しみになりました。戦争が終わってすぐで、あんみつは最高のごちそうです。それがうれしくて、稽古に通っていたようなものでした。
バレエシューズやトゥシューズなど、バレエ関係の靴を売っていたのは銀座のヨシノヤ靴店一軒だけ。私もよく足を運んだものでした。しばらく後に、ヨシノヤのお兄さんが代々木上原に店を構え、そこがはじめてのバレエシューズ専門店になりました。
稽古場は交詢社ビルの中にありました。小牧正英先生の小牧バレエ学園です。女学生クラスがA、B、Cとあって、まず1番初歩のCクラスに友だちと一緒に入りました。小牧バレエには一般クラスもあって、横井茂さんがいました。私とほぼ同時期ではあるけれど、クラスの時間が違い、当時はまだ面識はありませんでした。
はじめて小牧バレエに行ったとき、スタジオでは団員たちが『シェヘラザード』のリハーサルをしている最中でした。主役のゾベイダは谷桃子さんと服部智恵子さんのダブルキャストです。服部さんはバレリーナとしてはかなりふくよかなタイプだけれど、お芝居がとても上手でしたね。谷先生はきれいで身体もよく動く。素人の私が見ても才能のある方でした。服部さんが「桃ちゃん、あなたよく動くわね!」なんて言っていたのを覚えています。
私の入ったCクラスは岸清子先生の受け持ちでした。Bクラスは笹本公江先生。Aクラスは関直人先生で、主役を踊るような子たちが集まっています。私はバレエははじめてだったけれど、モダンダンスをやっていたから、一応踊りはできました。それもあって、岸先生にはとても可愛いがっていただきました。
あるとき岸先生が、「今度稽古場が目蒲線の洗足駅のそばに引っ越します」とみんなに告げました。私の友だちは「えー、銀座だから来たのに。そんな田舎なんか行きたくないわ。もう行かない」と、さっさと辞めていきました。私も友だちと一緒に辞めようと思っていたら、岸先生が「辞めてはいけません。みんなついてきてください」と演説するではないですか。私はそれを聞き、辞めちゃいけないのかと、洗足に行くことにした。そこでもまだ私は人の言いなりだったのです。
93歳のバレリーナ 雑賀淑子(3)につづく。
プロフィール
雑賀淑子(さいが・としこ)
1932年8月11日生まれ。9歳より彰城秀子のもとでモダンダンスをはじめる。戦後小牧正英バレエ学園でバレエを学び、小牧バレエ団入団。その間パリへ留学し、オルガ・プレオブラジェンスカ、ビクトル・グゾフスキー、ルネ・ボン等に師事。振付をネリー・ブーシャルドに学ぶ。小牧バレエ団を退団後、サイガバレエ研究所及びサイガバレエを設立。ステージ・テレビ等で古典及び創作バレエの上演、また各地で様々なパフォーマンスを繰り広げている。サイガバレエ研究所主宰。舞踊作家協会理事、(一社)青少年音楽協会理事。https://www.saiga-ballet.com


