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バレエ、ダンス、舞踏、ミュージカル……。劇場通いをもっと楽しく。

中村恩恵ダンサーズ・ヒストリー vol.3

ネザーランド・ダンス・シアターでイリ・キリアンのミューズとして活躍し、退団後は日本に拠点を移し活動をスタート。ダンサーとして、振付家として、唯一無二の世界を創造する。中村恩恵さんのダンサーズ・ヒストリー。

見よう見まねで覚えたレパートリー

NDT1はひとつひとつのリハーサルにかける時間が短く、それはNDT2との大きな違いでした。例えば、次のツアーでキリアンの『Falling Angels』を上演します、今日からリハーサルがはじまります、音楽をかけました、全員本気で踊っています、はいリハーサルはおしまい、です。レパートリーの振付はダンサー全員知っているので、逐一教えてなんてくれません。

新作は基本的にキリアンがいちからつくっていくけれど、旧作の場合はすでにレパートリー化されているので、バレエマスターが何回か稽古をしてから最後にキリアンが来て仕上げをします。仕上げとはいえキリアンの稽古は最初から本格的で、かつ“もっとこうして!”という要求が非常に高い。手取り足取りしてくれたNDT2のときとは勝手が違い、できて当然といった雰囲気です。“この状況でどうやって振りを覚えればいいんだろう?”と途方に暮れつつ、先輩たちの踊りを見よう見まねで身体に入れていきました。

そこで役に立ったのが、モンテカルロ・バレエ団での経験でした。モナコ時代、先輩の代役で急遽舞台に立ったことがありました。ツアー先の野外劇場で“自分は第二キャストだから”とのん気にリハーサルを見ていたら、突然“あなたの第一キャストが踊るヴァリエーションの、反対側のパートを踊るダンサーが足をケガしてしまった。急いで衣裳を着て踊って。反対のパートだけどできるでしょう?”と言われて……。すでに作品が仕上がっているところへ、新米の私が突然ぽんと放り込まれた状態です。ただそこで踊り切ったことで、役がたくさんつくようになった。もしそこで踊れなかったら、“じゃあ残念ね”となってしまっていたでしょう。いつでもどこのパートでも踊れように、見ただけで順番を覚える。そうした心構えはモナコ時代に叩き込まれていたので、新しいレパートリーもどんどん身体に入れることができたのだと思います。

NDT1の新作公演は年約6プログラム。たいていがトリプル・ビルなので、およそ計18作品です。 プログラムは新作の世界初演とレパートリーの再演、他のカンパニーのために振り付けられた作品のNDT初演で構成されます。

初演は木曜で、金曜、土曜と地元のハーグで公演を行い、そのあとオランダ国内をツアーで巡ります。オランダ国内の公演は秋と春の年二回あり、その間に世界ツアーが入ってきます。海外ツアー用のプログラムはオランダ国内のプログラムとはまた異なるので、リハーサルもオランダ国内用と海外ツアー用の二本立てで行います。海外ツアー用のプログラムは基本的にキリアン作品で構成されていて、一演目のみポール・ライトフットの作品がツアープログラムにも組み込まれていました。

新しいプログラムがはじまるとまた次のプログラムに取りかかるので、日中は次のプログラムの用意をして、夜になると現在上演中のプログラムの本番があって、と同時進行での作業が続きます。常に次のプログラムに向かって動いているので、本番を迎えたからといってほっとする暇はありません。

 

『Overgrown Path』(C)Joris jan bos

 

ぴりぴりだったNYツアー

NDT1に入って最初に行った世界ツアーがNYツアー。これはカンパニーにとって大きな意味を持つツアーでした。キリアンがまだ若い頃、アメリカツアーで成功を収め、それをきっかけに国際的な振付家として広く知られていった。けれど二度目のアメリカツアーでぼろぼろの批評を受け、以来アメリカはずっとNDTの鬼門になっていました。

NDTがNYへ行くのは悪評を得て以来、長い時を置いてのツアーです。季節は秋でしたが、NYに行ったらインディアンサマーで、真夏のように暑かったのを覚えています。キリアンはものすごくぴりぴりしてて、長いこと辞めていたタバコを立て続けに吸っていました。あんなにぴりぴりしているキリアンを見たのはあれがはじめてでしたし、キリアンがタバコを吸っているのを見たのもあのときが最初で最後でした。

劇場はブルックリンのBAMで、キリアンの『輝夜姫』と『Black & White』をプログラムに持っていきました。『Black & White』は6つの小品で構成されたプログラムで、16分〜20分の短編を休憩を挟んで上演します。『No More Play』と『Sweet Dreams』の二作と、女性だけの作品『Falling Angels』と男性だけの作品『sarabande』、『Ptite Mort』と『Sechs Tänze』の二作がそれぞれ対になっていて、タイトル通り衣裳も黒と白のモノトーンで統一されています。いわばNDTのザ・名作集といった定番のプログラムで、よく世界ツアーで上演してました。

NYツアーでは、私は『Falling Angels』と『Ptite Mort』に出演しました。『Falling Angels』はスティーブ・ライヒのドラム曲に振付けたとても難しい作品で、ワン、ツー、ワンツースリーワンツースリー、ワーン、ツー、スリー、とカウントがどんどん変わっていく上に、踊りがカノンになっています。リハーサルはテープを使うのでいつも一定のリズムで聴こえるけれど、本番は生演奏で劇場に音が反響して戻ってきてしまう。“ワン”の音がはっきり聴こえないとタイミングが掴めないので、それは大きな問題です。音と空間を厳密に使いこなさなくてはならない演目で、照明キューが非常に緻密かつタイトになっています。稽古場とは全く違った環境で、いつも以上に緊張して舞台に臨むことになりました。

NYツアーは大きな成功を収めました。新聞に好意的な評が出て、最終的に立ち見が出るくらいたくさんのお客さんが観に来てくれた。以降たびたびアメリカへツアーに行くことになりますが、評価が上がるにつれてブルックリンのBAMからリンカーン・センターに劇場が変わり、またホテルの格もぐんと良くなっていきました。

 

(C)Joris Jan Bos

 

魔力のように取り憑かれて

木曜に初演が明けて、土曜に次回のプログラムのキャストが発表されて、日曜・月曜と休みを挟み、火曜から次のプラグラムに取りかかる、というのが通常の流れ。キャストはキャスティングボードに貼り出される形で発表されます。公演数はとても多かったけど、私はキャスティングされるといつだってうれかったし、もっと踊りたいと思ってました。踊ること、創作すること、勉強することが大好きで、追求したいことが次から次へと湧いてきて止まらないんです。それはたぶん、本を読むこと、音楽を聴くこと、映画を観に行くといったこととも繋がっていると思います。

新しい作品づくりだとか、踊ったことのない振付家の作品だとか、今までと全く違う感触が自分の人生に訪れたとき、自分が自分ではないような、自分が発展するような感覚があって。それはキリアンとの仕事、オハッドの仕事、マッツとの仕事でより強く感じること。自分という限定されたひとりの人間の人生を生きているにも関わらず、そこから自由になる。何にでもなり得て、しかもそれが全部自分である。それは創作の大きな醍醐味だと感じています。

さっきまでは何もなかったのに、2秒、3秒、4秒後には少し形になっていて、一週間経つと5分の作品になって、三週間後には作品になっていたりする。ほんの少し前までは全く何もなかったのに、作品ができている。ただ作品ができ上がったとしても、私たちダンサーが身体を動かさない限り目には見えない。そこに魔力のように取り憑かれてた。どんなに若く駆け出しの振付家と仕事をしても、その時期はまるで恋をしているかのように魂を奪われたし、触発されるものがありました。

踊ることが楽しくて、いくら舞台が続いても、踊るのがいやだとか面倒だと思ったことは一度もありません。それは私だけではなかったように思います。公演が23時に終わり、そこから化粧を落として夜中の二時まで自分たちの作品の創作をしたり、夜車を飛ばしてマッツの新作を観に行って、朝帰ってきた足でそのままカンパニーのクラスを受けたこともありました。内側から出てくるエネルギーがとてつもなく高い、熱のあった時代でした。

キリアンの存在も大きかったと思います。私も含めダンサーは彼と仕事をしたいからNDTに集まっていて、誰もがキリアンに対して尊敬の念を抱いてた。キリアンはよく“僕らは同じ船に乗る者同士”と言っていたけれど、それはみんなの気持ちでもあり、カンパニー全員が一丸となっていた。火の中、水の中、最終的には沼の底までキリアンに付いて行く、といった気持ちをみんなが抱いてました。

普段のキリアンはクリエイティブでみんなを強いエネルギーで引っ張っていく素晴らしいリーダーでしたけど、精神的に常に安定しているかというとそうではなくて、浮き沈みの波が大きい人でした。新作をつくるときはいつもすごくナーバスになるので、スタジオの中はぴりぴりとした緊張感で満たされます。でも創作ができるのはまだいい状態のとき。精神的に不安定になるとそれもままならず、実際しばらくカンパニーを離れてドイツで休養していた時期もありました。精神的な悩み、芸術的な悩みを乗り越えた結果として作風が変わることもあるので、芸術家にとってはスランプも大切な時期なんだと思います。けれどNDTにはキリアンが内面に抱えている闇や苦悩をみんなで担おうとしているところがあって、キリアンの調子が悪くなって創作が難しくなるとカンパニー全体が集団で鬱に陥ってしまう、グループ・ディプレッションが起こるようなこともありました。

キリアンと創作ができるのはみんなにとってとても幸せな時間でした。とはいえキリアンのつくる作品も全てが全て名作ばかりとは限りません。世界中のカンパニーでレパートリー化されているキリアンの振付作は、売れる作品が買われていったいわば選りすぐりの作品ばかりなので、キリアン=完成された振付化というイメージを持たれがち。でもカンパニーで彼と一緒に仕事をしていると、また全然違った体験をすることになります。

過去の上演作の中には、“これは封印してしまおう”というような作品もやはりありました。クリエイションの最中から“今回の新作は失敗作だ”と全ての人がわかっていても、上演が決まっている以上は期日までに仕上げなければならないし、つくり変えるなんてとうていできないこともある。良からぬ方向に進んでいると思いつつ、軌道修正できずそのまま本番に近づいていく。“今回は批判が起きるかもしれない”という作品のときは、ダンサーの間に“ブーイング・アタックに備えるぞ”というある種の覚悟が生まれます。

日本の場合はたとえ作品に不満があったとしても、ブーイングはまず起こらないし、途中で帰ってしまうようなお客さんもほとんど見かけないもの。けれどヨーロッパの場合は露骨に反応が返ってくるので、ダンサーはときにブーイングの嵐に晒されます。ブーイングされるような挑戦作はツアーに持っていくことはないので、それは基本的にオランダ国内での話。ただイギリスやNYは例外で、大陸で成功したものに対してあえて批判しようとするところがあるので、どんな反応が返ってくるか別の意味で緊張します。

オランダの中でも特にハーグは昔からの常連客が多く、自分たちの街のカンパニーであるNDTに誇りと親しみを感じているし、“NDTにどこまでも付いていく”と思ってる。だからこそブーイングがあったとしても、“この作品良くないよ”というコミュニケーションとしてのブーイング。今回の作品は気に入らなかくても、この先も公演を観に足を運んでくれるというのはお互いわかった上での反応です。

ブーイングが起きたとしても必ずしも質が悪かったという訳ではなくて、観客が観たくなかったものを観せたことに対する反応、作品のメッセージ性に対する反応でもある。作品自体がいまいちというときは、何となく冷たい反応だったりと、ブーイングすら起こらない。挑戦的、挑発的な作品だからこそブーイングが起こるので、振付家もそれは覚悟の上なのでしょう。ただ実際にブーイングを受け止めるのはダンサーの役目。ものすごいブーイングの場合、大きな唸り声となって客席から舞台へと返ってきます。舞台上に立つダンサーは、ひたすら全身でそれに耐えるしかありません。

 

NDT1パリツアー(C)COLETTE MASSON / AGENCE ENGUERAND

 

オランダで暮らすということ

私たち外国人にとって、オランダはとても住みやすい土地でした。オランダはインドネシアをはじめ植民地にしていた場所がたくさんあったため、外国人も多く暮らしているし、他民族の文化や食べ物が混ざり合っている。多様な価値観が共存できる、非常にリベラルな国です。フランスも過去に植民地がありさまざまな人種が住んでいましたが、ダンサーはフランス人が多く、私はいつもよそ者のように感じていました。

オランダの中でもハーグは国連関係の施設や大使館が点在するとても落ち着いた街。自然も豊かで、海があって、砂丘もあって、森もある。私は散歩をするのが好きで、うつくしい自然の中をよく散歩しました。ときには恋人と、ときにはひとりで、そしていろいろな分野で活躍する知人たちと自然の中を歩きながら、議論を交わしたり静けさを味わったり、すてきな時間を共有しました。

ただ私が移り住んだ頃のオランダは、まだまだ治安が悪かった時代。抜け殻になった映画館やデパートが街の中心部に建ち並び、それらにジャンキーたちが骸骨の絵を描いて棲みついているような状態でした。車を駐車するときなどは、ハンドルを外しておかないと盗まれてしまいます。それまで暮らしていたモナコは経済が非常に潤っていたし、“ここはディズニーランドなの?”というくらい全てが完全に管理されていたので、その格差にはもう驚くばかりです。

治安が悪いとはいえ、とりわけ危ない場所や時間というのは暮らしている内に肌感覚でわかってくるもの。同じ道でも行きは安全だけど暗くなると危険だから避けた方がいいという場所もあり、その辺りを踏まえていればそこまで怖い思いをすることはありません。ただダンサーの中には危険を顧みず夜遊びしては袋叩きに合い、痣をたくさんつくってリハーサルにやってくるような人もいましたね。私が移り住んでしばらく経つと、オランダの経済も徐々に上昇して街もきれいになっていきました。

 

キリアン初期の振付作『Overgrown Path』再演後に記念撮影

 

ダンサーが勝ち取ってきたルール

NDT1には入団年齢の規定は特にありません。以前はバレエ学校を卒業したばかりの16歳でNDT2に入り、二年間の研鑽を経て18歳でNDT1に入るような人もいたようです。ただ私の時代はバレエ学校で学ぶことが増えたため18歳での卒業が通常となり、NDT2を経て20歳前後でNDT1に入るケースが多くなりました。カンパニーの体制にも変化があって、私がNDT1に入った秋にNDT3ができました。それを機に、NDT1、NDT2、NDT3のそれぞれにアーティスティック・ディレクターが立ち、三本柱の体勢になった。キリアンはその全てを監修するという図式ができ上がりました。

ギャランティの仕組みは非常に明確です。きちんと定められた労働基準がカンパニーにあって、若手のダンサーからキャリアのあるベテランまで共通のルールのもとで働いています。勤める年数が上がるにつれ給料が上がっていく、年功序列のシステムがまずひとつ。さらに国の物価上昇率と同じペースで給料が上がるという決まりがあり、加えてアーティスティック・ディレクターが“この人にはより高い給料を与えたい”と思うダンサーがいればそこでまたプラスアルファが支払われます。後々自分が退団して知ったことですが、これらのルールは基本的にフリーにも同様に適用されます。

キリアンがNDTの芸術監督に就く際の条件として、“カンパニーが組合に入るのなら自分はディレクターはやらない”と言った。それもありNDTは組合には入っておらず、常にダンサー側の意見を運営側に届けるという体制を取っていました。“よりよい活動をするために自分たちで必要なものを手に入れていく”という姿勢がNDTのアイデンティティ。もともとNDTはオランダ国立バレエ団で踊っていた10数人のダンサーが独立してできたカンパニーであり、“自分たちの本当に踊りたいものを踊っているか“という問いかけからはじまっているので、“上からのお仕着せではなく自分たちで運営していくんだ“、という意識が強いように感じます。

演目にしても、働き方にしても、全てダンサーが主体となって動き、自分たちで決めていく。リハーサルや本番といった実際の労働面についてはもちろん、本番前のどの時間帯に食事をとり、どんなホテルに泊まり、どんな保険に入るのか、さまざまな条件、労働の在り方を代表者がディレクションして、“その結果こうこうこうなりました”とダンサーたちも含めた全員で話し合いを行います。そうやって少しずつ改善していった部分は大きかったと思います。

NDT2は二年契約ということもありどこか宙ぶらりんな感覚でしたけど、NDT1になると将来に対する視野も長期的なものになってきます。ダンサーの中には家庭を持つ人もいれば、家を購入する人もいたりと、プライベートの時間がぐっと充実してきます。私はといえばかなりの引っ越し魔で、これまで移転した回数は18回。NDTにいたときはずっと“持ち家を買おうか、どうしようか?”と迷いつつ、結局賃貸を借りては引っ越してを繰り返し、カンパニーを辞めてはじめてハーグに自分の家を買いました。

生活面に関しては十分な余裕がありました。オランダは税金がとても高く、消費税が20%、所得税が40%引かれます。さらに保険や保障の積み立てが差し引かれるので手取りは少なくなるけれど、そのぶん医療費が安かったりと、安定した生活が手に入る。いろいろな面で守られていて、どこか社会主義的な部分があるように感じます。

ダンサーの中にはダンス以外の収入を得たりと、上手に資産を増やしている人もいました。私の恋人もそのひとりで、4階建ての一戸建てを購入し、1階と2階を人に貸して家賃収入を得てました。自分名義の建物に他者を住まわせると住宅ローンから税金が控除されるため、節税対策にもなるようです。部屋の借り主はNDT2のダンサーで、彼らは基本的に2年間の契約なので順々に回っていきます。しかも何をしている人間なのか素性もわかり、安定した運営ができるという訳です。彼はかなり若い内に最初の家を買い、そこからどんどん持ち物件を増やしていった、材を築く天才でした。

彼のお母さまもダンサーで、NDTの立ち上げ時期に関わってきた方でした。だからキリアン以前のNDTの状況もよく知っていたし、彼自身コンセルヴァトワールから上がってきたので、私たちのような外国からきた人間とは違って知識も豊富に持っています。当時彼はカンパニーの雇用や年金など生活面の改善をする取りまとめをしていて、NDTの労働環境が良くなったのもひとつは彼の働きがあったから。ダンサーとしても優れた才能の持ち主でしたが、まだ若い内にカンパニーを退団し、カリブ海にあるオランダ領のキュラソー島に移住してリゾート開発を手がける仕事をはじめました。

彼のように上手く資産を生み出す人もいるかと思えば、常に金欠状態でカンパニーのツケでお昼ご飯を食べているような人もいる。同じお給料なのにどうしてこんなに差が出るんだろうというくらい人によって差があって、やはりそこは自分たちの使い方次第なんだなと何だかおかしく思ったものです。

休みに関しても契約上細かいルールが決められています。12日以上連続で働いてはいけない規定になっていて、そこには移動日も含まれます。また月に6日間休みを取る決まりになっていて、週末は1日もしくは2日間の休みになります。さらに一日働いたら11時間休みを取らなければいけないルールがあって、例えば夜の12時に仕事が終わった場合、翌日仕事がはじめられるのは昼の11時過ぎ。とはいえ細かく決まりがあったとしても、スケジュール的にどうしてもルールを守るのが難しいこともあります。

海外ツアーのときなどは12日目に移動日が重なって休みが取れなかったり、リハーサルが押してしまって11時間の休憩が取れないような場合もある。休めなかった分に関してはどんどん加算されていき、現金で支給されるか、別日に改めて休日として支給されます。長期の休みは基本的に夏休みと冬のクリスマス休暇の年二回。そこに溜まった休日をつければ冬は2週間くらいのまとまった休みになって、夏は一ヶ月以上休みがもらえることありました。

私はクリスチャンなので、日曜日が休みのときは教会へ行きます。ハーグには日本人教会があって、オランダで暮らす日本人が週末になると集まってきます。オランダに古楽を勉強しに来ている人、ライデン大学の医学部に通っている人、ヘブライ語の教授をしている人など、みなさん分野も目的もさまざま。教会に行ったあと彼らと一緒に餃子をつくったり、お宅にお邪魔したりと、ダンス以外での広がりもそこでありました。

夏休みなど長期の休みのときは、たいてい日本に里帰りをしてました。帰国すると必ず小倉先生のお教室へ行き、レッスン受けさせていただいたり、レッスンを見学させてもらい、その後生徒さんたちと一緒にご飯を食べに行くこともありました。服部先生がお亡くなりになった後は、小倉先生と一緒に島田廣先生のお宅にお線香をあげにお邪魔しました。島田先生は私が小さい頃から何か機会がある度に声をかけてくださって、長くご縁をいただいていました。先生がはじめて日本で『白鳥の湖』を上演したときのお話や、バレエ団のお話、日本のバレエ界のお話など、興味深いお話をたくさん聞かせていただいたり、その後私がNDT1を辞めてキリアンのアシスタントとして他のバレエ団に教えに行っていたときは、“いつまでもアシスタントをしていてはいけません”と助言をいただいたものです。

島田先生が亡くなり、後を追うように続いて小倉先生も亡くなってしまった。小倉先生が亡くなったのは、私が『小さな家 UNE PETITE MAISON』(2013年10月初演)を新国立劇場で発表した直後。おふたりが立て続けにいなくなってしまい、私は何だかひとりぼっちになったような気分でした。

 

『Bella Figura』初演(C) Joris Jan Bos

 

 

vol.4へつづく。

 

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