ダンサーズ・ヒストリー 中村恩恵 (2)
レッスンで“壁の花”に
自分からやりたいと言ったはずなのに、最初の頃はレッスンに行っても何もせず、壁に張りついてじっとしているような状態でした。教室に行くと緊張して、身体がひゅっと縮こまってどうしても動けない。母が呆れて“何もしないなら帰りますよ!”と言うのだけれど、頑なに動かない。その状態はかなり長く続いたように思います。
ずっと後の話ですが、私の娘もバレエを習いはじめた頃は教室に行ってもじっと動かずにいて、そのくせ家に帰ると“今日はこんなことを習ったよ!”といろいろ披露してくれたものでした。自分の小さい頃と同じだなと思い、何だかおかしくなったものです。
バレエの稽古は木曜と土曜の週二回。家から教室までは少し遠く、母と一緒に、バス、電車、バスと乗り継いで通っていました。生徒さんは大半が地元の子どもでしたが、私同様電車を乗り継いで来ている人もなかにはいましたね。小倉先生は服部・島田バレエ団のプリマとして活躍されたとても美しいバレリーナだったので、彼女の教えを請いたいと遠方から習いに来ていたようです。
同時代に在籍していてプロになった方に、厚木三杏さん、岩田唯起子さんがいます。あと同世代ではないけれど、安達悦子さんも小倉先生の教え子でした。安達さんはその後関西に引っ越してしまいましたが、活躍されているという噂はよく聞いていて、私たちの憧れの先輩でした。
初舞台は5歳のときで、発表会でトリオを踊っています。すごくうれしくて、家で何度も練習しては家族の前で披露していましたね。振付もいまだに覚えています。お人形さんを持って、一歩、二歩、歩いて、とんとん。走ってきて真ん中でエシャッペをして終わる……。人形は祖母がつくってくれたもの。作品は小倉先生の振付です。小倉先生は創作が好きで、ご自身のオリジナル作品のほか、お嬢さんが書いた物語を舞踊に置きかえて上演するといったことをよくされていました。
発表会は年に一度で、みんなでチャイナを踊ったり、サン=サーンスの『動物の謝肉祭』に小倉先生が振付をした作品を金魚の格好で踊ったこともありました。小倉先生は身の丈以上のことを求めるようなことはなく、また生徒が競い合うような空気もなかったため、発表会では舞い上がることもなくいい緊張感を持って踊ることができました。
バレエは天職です!
幼稚園には行かずに済んだけど、小学校は行かない訳にはいきません。けれど私はやはり学校がキライで、毎日学校に行くのがイヤで仕方ありませんでした。通学路を歩いていて、学校が向こうに見えてくると、わーっと涙がこみあげてしまいます。姉はとてもしっかりしていて、下駄箱で私の靴を替えさせて、私を教室まで連れて行き、椅子に座らせ、クラスの友だちに“妹のことよろしくね”といつも頼んでくれました。
楽しいはずの給食も、私にとっては大きな苦痛でした。というのも、学校に行くと何故か物が食べられなくなってしまうのです。今と違って、給食を残したらダメという教えが一般的だった時代です。昼休みになってみんな外で遊びはじめても、“食べ終わるまで遊んではいけません”と言われ、私はずっと席に座らせられたまま。それでも食べないから怒られて、怒られるからまた学校に行きたくなくなってーー。
運動能力がとびきり高くてダンサーになった人と、運動能力はないけれどダンサーになった人と、ダンサーというのは二分化されるように思います。私の場合は後者で、特に走るのが苦手でとにかく遅い。泳ぎもダメで、全くのかなづちです。中学の担任は体育の先生でしたが、体育の成績は当然悪い評価しかもらえません。でも中学の二学期に創作ダンスの授業があって、はりきって作品をつくったら、そのときだけ良い点がつきました。
学校はキライ。だからといってバレエのお稽古が楽しかったかというとそういう訳ではなく、先生もぴしっとされていたし、とても緊張感がありました。私にとってバレエというのは習い事や趣味ではなくて、小さい頃から天職だと思って取り組んでいたところがありました。
その気持ちはたぶんバレエを習う前からで、“自分は何かしら身体表現をしていくんだ”という強い気持ちを抱いてた。姉にとっての天職が音楽なら、自分は踊りの世界で生きていくんだと思ってた。あるとき学校で“趣味は何ですか?”と聞かれ、“読書です”と答えました。先生に“バレエを習っているんでしょう? バレエが趣味なのでは?”と言われましたが、私は“バレエは趣味ではないんです”と答えています。
ブロイラーとスーパーカー
何より家にいるのが一番好きでした。家は里山のてっぺんの自然に満ち溢れた場所にあり、野性の動物もたくさんいます。当時は井戸水で、石炭でお風呂を沸かしていました。今でもあの辺りは乱開発ができないよう保存すべき里山に指定されていて、横浜の中でもプチ観光ができるような場所になっています。
ある時期、家で大量の鳥を飼っていたことがありました。ブロイラーは20羽、孔雀や七面鳥はつがいで飼っていて、鴨やチャボ、烏骨鶏もいます。鳥たちがいっぱい卵を生むけれど、たいていそれは私たちの口には入ることなく、野性の蛇に食べられてしまっていましたね。
印刷機械を全て売り払い、そのお金で父が購入したのがスーパーカー。スーパーの開店祝いや七夕など地元のイベントにスーパーカーで繰り出しては、ポラロイド写真を撮ったり、当時流行っていたスーパーカー消しゴムを売るのです。イベント用なので車も何台か必要で、赤や白のスーパーカーと、車種もときどき変わっていました。
当時の我が家は放し飼いの鳥たちと派手なスーパーカーが行き交っていて、かなり不思議な光景だったと思います。さらに父は金魚すくいや綿菓子売りもはじめて、家で綿菓子の機械を試していたこともありました。父がイタリアから帰ってきた後、ヴァイオリン制作をしながらのことです。父が母を連れてあちこちのインベントへ出掛けてしまうので、叔母が家に泊まりに来て私たち姉妹の面倒を見てくれました。合宿生活みたいで、はらはらどきどき毎日すごく楽しい時代でした。
ダンサーズ・ヒストリー 中村恩恵(3)につづく。
インフォメーション
<公演>
『邂逅』
2022年11月18日・19日
会場:オランダ大使館
https://www.naable.com/20221006-2/
DaBYツアー『パフォーミングアーツ・セレクション 2022』
〜2022年12月11日
https://dancebase.yokohama/event_post/performing_arts_selection2022
アーキタンツ ショーケース
2022年12月18日
http://a-tanz.com/event/28109
<ワークショップ>
中村恩恵 アーキタンツ コンテンポラリークラス
毎週水曜日 15:45〜17:15
http://a-tanz.com/contemporary-dance/2022/10/31153428
中村恩恵オンラインクラス
土曜日開催。詳しくは中村恩恵プロダクションへ問合わせ
mn.production@icloud.com
<オーディション>
(公社)神奈川県芸術舞踊協会主催公演 「モダン&バレエ 2023」
中村恩恵作品 出演者オーディション 2023 年 3 月 21 日開催
2023 年 10 月 28 日上演 「モダン&バレエ 2023」の出演ダンサーをオーディションで募集。
詳細は追って協会HPで発表。
https://dancekanagawa.jp/
プロフィール
中村恩恵 Megumi Nakamura
1988年ローザンヌ国際バレエコンクール・プロフェッショナル賞受賞。フランス・ユースバレエ、アヴィニョン・オペラ座、モンテカルロ・バレエ団を経て、1991~1999年ネザーランド・ダンス・シアターに所属。退団後はオランダを拠点に活動。2000年自作自演ソロ『Dream Window』にて、オランダGolden Theater Prize受賞。2001年彩の国さいたま芸術劇場にてイリ・ キリアン振付『ブラックバード』上演、ニムラ舞踊賞受賞。2007年に日本へ活動の拠点を移し、Noism07『Waltz』(舞踊批評家協会新人賞受賞)、Kバレエ カンパニー『黒い花』を発表する等、多くの作品を創作。新国立劇場バレエ団DANCE to the Future 2013では、2008年初演の『The Well-Tempered』、新作『Who is “Us”?』を上演。2009年に改訂上演した『The Well-Tempered』、『時の庭』を神奈川県民ホール、『Shakespeare THE SONNETS』『小さな家 UNE PETITE MAISON』『ベートーヴェン・ソナタ』『火の鳥』を新国立劇場で発表、KAAT神奈川芸術劇場『DEDICATED』シリーズ(首藤康之プロデュース公演)には、『WHITE ROOM』(イリ・キリアン監修・中村恩恵振付・出演)、『出口なし』(白井晃演出)等初演から参加。キリアン作品のコーチも務め、パリ・オペラ座をはじめ世界各地のバレエ団や学校の指導にあたる。現在DaBYゲストアーティストとして活動中。2011年第61回芸術選奨文部科学大臣賞受賞、2013年第62回横浜文化賞受賞、2015年第31回服部智恵子賞受賞、2018年紫綬褒章受章。