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笠井叡『高丘親王航海記』インタビュー!

舞踏家で振付家の笠井叡さんが、澁澤龍彦の遺作『高丘親王航海記』をダンス化。生前の澁澤さんと交流があったという笠井さん。没後30年以上の月日を経た今、総勢21名のダンサーを率いこの大作に挑みます。リハーサル中の笠井さんに、創作のきっかけと、本作への想いをお聞きしました。

澁澤龍彦さんとは交流があったそうですね。どんなご縁だったのでしょうか。

笠井>私はもともと大野一雄先生にダンスを習っていましたが、あるとき大野さんの稽古場に目つきの悪い男があらわれて、それが土方巽さんだった。私が土方さんの公演に初めて出たのが1965年の『バラ色ダンス—A LA MAISON DE M. CIVECAWA(ラ・メゾン・ド・ムッシュ・シブサワ)という作品で、それがある意味澁澤さんとの出会いでしょうか。

私が初めてソロリサイタル『舞踏集』を開催したのはその翌年のこと。そこで初めて“舞踏”という言葉を使っています。土方さんに“私もやりたいダンスがある。舞踊というと横に流れていくキレイなイメージがあるから、ここでは縦のイメージで舞踏という言葉を使いたい”と伝えました。そうしたら土方さんが“オレが振付ける”と言うので、“いやいや”と……。“じゃあオレは何をやったらいい?”“何もやらなくていいです”“でも何かやりたい”といったやりとりがあり、最終的に土方さんが制作をすることになりました。

 

 

私はまだ学生でしたけど、土方さんが制作したものですからものすごい面々が集まってきた。その中のひとりが澁澤さんでした。そこから縁がはじまり、学生時代から澁澤さんの家に出入りするようになりました。以来私がドイツに渡るまで、澁澤さんはほとんどの作品を観に来てくれましたね。

私の文学的・思想的な部分に大きな影響を与えたのが、澁澤さんに教わったヨーロッパの異端文学でした。キリスト教というとカトリックかプロテスタントですが、それとはまた違った異端の流れの中の文化です。当時ヨーロッパ異端文学の中心的存在だったマルキ・ド・サドだったり、ジャン・コクトー、ジョリス=カルル・ユイスマンスだとか、日本にはまだ紹介されていなかった作品をいろいろ教えてくれました。それが私のダンスにおけるイメージの原型になっているところがある。澁澤さんを通して私のダンスに対するひとつの概念ができた。そうしたものがヨーロッパに行くまで私の底辺にずっと流れていました。

 

 

澁澤さんの文学はもちろん素敵ですけど、それ以上に彼自身に人を惹きつけるものがありました。例えばドイツ文学者の種村季弘やインド文学者の松山俊太郎などは“澁澤の著作なんかなくても澁澤がいれればいいよね”と言っていたくらい人間的な魅力がある人だった。澁澤さんと会っていればいい、文学なんて二の次という感じ。彼と一緒にある日の午後お茶なり酒なり飲めればそれで十分、という雰囲気のあった人でした。鎌倉の彼の家に行くと、いつまで経っても“帰れ”と言わないんです。だからそのまま泊まっていったこともしばしばありました。僕と澁澤さんは15歳離れているけれど、よく一晩中話をしてくれましたね。

1987年に澁澤さんが亡くなり、『高丘親王航海記』が遺された。いつかこれを作品にしようとは思っていたけど、私にとっては彼の遺言のような本だから、そうやすやす取り組めないという気持ちでいました。しばらく手を出せずにいたんです。時期を見ていた感じでしょうか。けれど2017年に世田谷文学館で澁澤龍彦没後30年の回顧展があり、それを見たとき“あぁ、30年経ったんだな”と、“じゃあそろそろやろうか”と考えた次第です。

 

 

『高丘親王航海記』をダンス作品にするにあたり、苦心した部分とは? どこから創作に着手されましたか?

笠井>これまで『高丘親王航海記』は人形劇や演劇作品として舞台化されたことはありましたが、ダンスになったことはない。ダンス作品にするというのは演劇とはまた違う要素があって、ダンスというのはどうしても言葉を排除しますよね。そうすると澁澤の文学性がなくなってしまうし、言葉を入れるのなら小説を読めばいいとなってしまう。

言葉を使わない身体的な舞台において、どういう方法を使って表現したらいいか、というのが一番迷ったところです。その辺の折り合いを付けるために、今回は自分で台本を書いています。いつも台本を書くかというとそうでもなくて、以前泉鏡花が能の世界をテーマに書いた小説『歌行燈』でダンス作品をつくったときに書いたくらい。台本を書いたのはそれ以来でしょうか。

 

 

台本は澁澤さんの文学を抜粋して書きました。澁澤さんのお書きになった『高丘親王航海記』を一種の台本風にまとめた感じで、筋はそれほど変えていません。澁澤さんの言葉で“これは絶対に必要だな”という部分をばっと書き出して、ひとつの時間の流れの中に入れていきました。

作品は全部で7章にわかれていて、それぞれの冒頭の部分にそれぞれの話の舞台となる国の紹介と、高丘親王が何故そこに辿り付いたのかということを書いています。ひとつの章で7場面つくるとして、7章集まると全部で50景近くなる。ひとつのダンスで50景となるとかなり多くて、最初は120分以上になってしまった。三稿ほど書き直して、最終的にだいぶ削っていきました。

高丘親王は天竺へ行きたいと願ったけれど、何しろ行こうとしたときすでに67歳だったので、結局辿り付くことはなかった。マレーシアの辺りで虎の大群に出会って食われて死んだ、というのが定説になっています。先日みんなで高野山にある高丘親王ゆかりのお寺へ行ったら、住職がそんなことを話してました。だからこれは本当の話であり、史実でもある。

 

 

ただ澁澤さんの『高丘親王航海記』は弱冠話の流れが違っていて、パタタ姫が“天竺まで行けないのならいい方法がある。羅越という国に行くと虎がたくさんいるから、あなた虎に食われなさい。虎が天竺へ連れて行ってくれますよ”と言って高丘親王をそそのかす。高丘親王はパタタ姫に騙されて、虎に食われて死んでしまうという訳です。だから澁澤さんの『高丘親王航海記』はひとつの物語ではあるけれど、小説でもなく、一種の幻想譚のようなもの。史実だけれど史実ではない。“本当なのかな?”と思うとイメージの話だったりする。そこがちょっと面白いところでもありますね。

澁澤さんというのは史実をイメージに変えるのが好きな人。史実だけをきちっと書くのではなくて、イマジネーションに変えていく。ヨーロッパでいうと『博物誌』で有名なプリニウスもそう。『博物誌』について澁澤さんが書いた本によると、頭がなくて身体に目と口がある人間とか、空飛ぶ動物が出てきたりと、一見“本当かな?”というような幻想譚になっているという。すごく面白いし、そこにまた澁澤さんが書かれた『高丘親王航海記』と共通する部分を感じます。

 

 

 

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