dancedition

バレエ、ダンス、舞踏、ミュージカル……。劇場通いをもっと楽しく。

笠井叡 舞踏をはじめて <14>

大野一雄に学び、土方巽と交流を持ち、“舞踏”という言葉を生んだ笠井叡さん。その半生と自身の舞踏を語ります。

1976年3月、九段会館で『トリスタンとイゾルデ』を上演。

1969年の『タンホイザー』に続き、『トリスタンとイゾルデ』でもワーグナーを踊っています。これらは私にとって特別な作品でした。

『トリスタンとイゾルデ』には二人の女性が出演しています。ワーグナーのテーマは男女の愛で、一番それがはっきり出ているのが『タンホイザー』と『トリスタンとイゾルデ』の二曲。音楽と感情の力が結びついているのがワーグナーの特長で、死と生が結びついて感情を未知の場所まで引き上げてくれる。ワーグナーはまだ人間が発見したことのないものすごく膨大な感情の世界に浸って音楽をつくり出した人だったと思う。私がワーグナーの曲を使うのは、ワーグナーが発見してくれた自分の知らない感情を音楽を通して伝えてくれるから。それは私にとってものすごく魅力的なこと。ただワーグナーについては私自身やり切れているとはとうてい思えない。

この時期私にとってダンスをする根拠になっていたのが、“未知の感情を取り出す”ということでした。私はコンセプトだけでダンスをつくることはできないし、そこには意味が見出せない。こういうコンセプトでつくりました、ということでは私のダンスは成り立たない。コンセプトがあったとき、それを支えている部分に感情がないと私は全然動けない。いいとか悪いとかいう感情ではなくて、そのコンセプトの中に自分が出会ったことのない感情の力を誕生させることができるかどうか。

感情には私たちの知らない領域がまだまだすごくたくさんある。我々の知っている感情というのは本当にわずかで、それを思うとコンセプトで踊るなどということはどうでもよくなってしまう。音楽を通して、自分の知らない感情を知る。そのためには聴くだけではなく、踊らないとダメ。踊ると音楽の中の感情と身体が完全にひとつになる。自分の身体の中にある未知の感情が浮かび上がってくる。偉大な音楽家の音楽に限らず、童歌であろうと演歌であろうと、音楽の中にはそういう要素がある。自分の知らない感情を取り出すということ、それは今もって完成してはなくて、そういう意味でいうと踊りを辞めるわけにはいかない。辞める理由がなくなってしまいます。

1976年12月、日比谷第一生命ホールでソロリサイタル『物質の未来』を開催。ベートーヴェン『第九交響曲』全曲を初めて踊る。

1976年の年の暮れ、突然『第九』を踊ろうと決めた。全て即興で、全曲ソロで踊ろうと考えた。『物質の未来』というタイトルは、物質は永遠に物質ではなく、物質自身も未来的にだんだん変化していく、という意味。人間の身体をつくり出している根本が物質であって、そこには新しいひとつの未来がある、という想いを込めたものでした。

ベートーヴェンの曲というのは、何故こんなにもダンスのエネルギーを持っているのか。ベートーヴェンはダンスとの結びつきという意味でいってもやはり格別です。いくら偉大な音楽家の曲だろうと、ベートーヴェンの音楽から出てくるようなエネルギーはやはりない。ベートーヴェンは私にとって特別で、それはちょっと謎でもある。

かつてヨーロッパの作曲家たちが活動する場は限られていて、ひとつは教会音楽、もうひとつは舞曲の創作だった。音楽とダンスは兄弟のような関係で、ヨーロッパでは長い間ダンスと音楽が一体となって発展を続けてきた。

例えばチャイコフスキーは『白鳥の湖』をつくっているけれど、バレエがなければあの曲は生まれなかったでしょう。そんななか教会音楽でも舞曲でもなく、音楽だけを純粋に追求したのがベートーヴェンだった。純粋音楽という形で作曲された音楽をベートーヴェンがつくり出したとき、音楽が自立して、これを踊ろうという人がいなくなってしまった。音楽とダンスが別れていった。

ベートーヴェンは明確な意志をもって自分自身の中から作曲をした。それがベートーヴェンという音楽家のすごさ。自分の身体の中から音を生み出し、これを作曲するんだという鋼の意志を持って曲をつくり上げた。作曲家が作曲をするのは当たり前だと考えるのは間違いで、あの時代において作曲をするというのはものすごい出来事だった。

例えばバッハの場合は、自身の教会生活の中で神から音を与えられたという意識の方が強かったと思う。自分で作曲するという意識はほとんど持っていなかったはず。ドレミという音階にしても作曲家がつくったものではなくて、プレゼントとして与えられたもの。神がつくった音階を借りて表現したのがバッハの音楽だった。

バッハ以前の時代はバロック音楽があり、もっと遡ると教会音楽があり、その頃はドレミファソラシドがあれば音楽ができた。ドレミファソラシドという音階を人間が持ったことで音楽ができた。“宇宙は常に音楽を奏でている”と言ったのはピタゴラスで、私もそう考えています。音楽というのは人間がつくったものではなく、宇宙が奏でているものであり、人間はたかだかそれを聴き取っただけ。音階は人間がつくるより先にあったもの。

神々が歌ってくれている音楽を聴き取り、作曲したのがバッハ。バッハ自身に作曲意識が生まれたのはかなり後期で、それまでは音楽を創造したのではなく、与えられた音楽を受け取っているという意識でいたと思う。けれどベートーヴェンは神からのプレゼントではなく、自分が音楽をつくっているという意識がはっきりとあった。

ベートーヴェンの中にあるものというのは、音楽家というよりむしろ舞踊家に近い。それがあるのはベートーヴェンだけ。バッハにもモーツァルトにも舞踊的な要素はたくさんありますが、ベートーヴェンのように作曲家そのものが舞踊家であるという感じはありません。ベートーヴェンはとても激しい人で、貴族社会を批判したりと過激な言動を繰り返していた。その影響力は大きく、音楽家でありながら音楽以上の力を世の中に対して発揮していた。そうしたベートーヴェンの存在自体が舞踊家的であり、ダンス的なエネルギーと重なるように感じます。

『第九』の第一楽章は神々が地上に降りてくる落雷のようなイメージではじまり、途中でガラッと変わって人間の世界に降りてくるところで終わる。第二楽章のタンタンタンタンという有名なリズムになると神々が見えなくなり、人間のひとつの歴史が始まる。第三楽章になると神々と人間が互いに共存するようなある種の平穏があり、第四楽章であの歓喜の音楽がはじまる。歓喜の音楽というのはまだ地上に実現されていない未来のことで、人間が誰しも持つ暴力性を喜びという形にメタモルフォーゼして出てくるのが未来であり、それを歓喜の歌に託している。ここが一番ダンスと協調しているところ。

ダンスというのは暴力である。破壊的な暴力ではないけれど、エネルギー自体としては暴力としか言いようがない。暴力性を持たないダンスというのはあまり面白くない。『第九』を踊るということは、人間の中にある暴力性が愛に変化していくことでもある。そういう意味で『第九』はすごく魅力的な曲なのです。

『物質の未来』で初めてベートーヴェンの『第九』を全曲踊ることができた。私の中で、もっと音楽との結びつきを深めていこうという意識を持つひとつのきっかけになりました。

 

笠井叡 舞踏をはじめて <15> に続く

 

プロフィール

笠井叡
舞踏家、振付家。1960年代に若くして土方巽、大野一雄と親交を深め、東京を中心に数多くのソロ舞踏公演を行う。1970年代天使館を主宰し、多くの舞踏家を育成する。1979年から1985年ドイツ留学。ルドルフ・シュタイナーの人智学、オイリュトミーを研究。帰国後も舞台活動を行わず、15年間舞踊界から遠ざかっていたが、『セラフィータ』で舞台に復帰。その後国内外で数多くの公演活動を行い、「舞踏のニジンスキー」と称賛を浴びる。代表作『花粉革命』は、世界の各都市で上演された。ベルリン、ローマ、ニューヨーク、アンジェ・フランス国立振付センター等で作品を制作。https://akirakasai.com

 

-舞踏