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笠井叡 舞踏をはじめて <13>

大野一雄に学び、土方巽と交流を持ち、“舞踏”という言葉を生んだ笠井叡さん。その半生と自身の舞踏を語ります。

1976年1月、ソロリサイタル『月読蛭子』開催。続いて4作のソロ作品を発表する。

天使館ができてからは、天使館公演として群舞作品を発表することが多くなりました。なかでも一番代表的な作品が『七つの封印』で、続いて翌年『伝授の門』を発表しています。再び本格的にソロの形態に戻したのが『月読蛭子』。この年は3月に『トリスタンとイゾルデ』、9月に『個的秘儀としての聖霊舞踏のために』、12月に『物質の未来』と、一年間に4つのソロ公演を開催しています。

1970年代、大野一雄さんや土方さんと一緒に舞台をつくっていたころは、国家的な補助は一切貰っていませんでした。これは大きな特徴で、自分の個人的なお金で舞台をつくってた。私が最初に自分の舞台をつくったのは大学の3年のときで、当時の金額で何十万という赤字を出した。学生にとってそれはかなり大きな負担で、だから年に一回しか舞台ができなかった。

今のように毎月舞台をやりますなどという時代ではなくて、一年にたった一日の舞台をつくるためだけに集中してた。けれど今の時代はギャラの交渉からはじまるのが習慣化している。そんなところから新しいものなど絶対に生まれない。国家的なお金だとか、助成金をもらったから公演を打つだとか、そういうところからはじまるダンスなどあってもなくてもいいようなもの。私がドイツに行くまでの純粋性というのは、そこに懸けるものがありました。

ソロ公演をするたび大きな赤字をこしらえていて、公演をすればするほど借金が増えていきました。天使館の群舞公演はたびたび満員になることがあったけれど、お客が入ったからといってお金になるというわけでもない。いずれにしても舞台活動ではなかなかお金にはならなくて、キャバレーのショーやワークショップでの収入が生活の糧になっていました。けれど『月読蛭子』ではじめて黒字になった。私の中で黒字にしようと意識したわけではなかったけれど。

『月読蛭子』は1970年に割腹自殺をした三島さんへの想いを込めた作品で、日本刃を持って踊っています。私の中にずっと“三島さんはなぜ日本刀を用いたのか”という疑問がありました。日本刀で割腹自殺をする。それは三島さんにとって人生の結末というだけではなく、そうすることで日本を取り巻くあらゆる政治状況に彼なりの決着をつけたのではないか。日本刀というのは日本男性の精神的な象徴であり、人によっては自分より大切なものという意識もあったと思います。

それらの意味も含め、最初は三島さんの四部作『豊饒の海』のうち生前最後の作品『天人五衰』をダンスにしよう、タイトルを『天人五衰』にしようと考えた。そこで日本刀と文化の問題や三島さんの身体のことといったものが、ある程度私なりに捉えられるだろうと考えてのことでした。

ところがある夜、妻の久子が飛び起きて「三島さんの夢を見た。夢の中で三島さんがものすごく怒ってた」と言い出した。それを聞いて私も“ひょっとしてこういう形で自分の作品のタイトルを付けられるのは困るということなのか”と想い、迷いが生じてきた。三島さんの奥様の平岡瑤子さんに電話をかけ、「実は今度『天人五衰』というタイトルでダンスの公演をしたいと思っている」と相談したら、「いや、それはちょっとまだ困る」と奥様も戸惑っている。私も確かにそうだろうなと考えて、『天人五衰』ではなく、タイトルを『月読蛭子』に変えました。

『月読蛭子』は三島さんに捧げたというよりは、三島さんを通して自分が感じた日本刀のイマジネーションを舞台上に出したものでした。『タンホイザー』のときと同じ日本刀を持ち、即興的な踊りをいろいろつくりました。簡単に言えば、日本刀の舞です。真剣を使ったものだから、観客にとってもそれなりに強いものがあったと思います。公演時間は一時間半くらい。私は衣裳をたくさん使う傾向あって、『タンホイザー』でも5〜6着変えて踊りましたが、『月読蛭子』では衣装をほとんど変えず、日本刀を手にひたすら踊りました。

『月読蛭子』のチラシに「三島への感謝」という言葉を載せました。それを見た土方さんから「どうして三島に対して感謝なんだ」とずいぶん絡まれてしまった。土方さんの中には、三島さんに対して感謝という感覚はなかったのだろうと思います。でも土方さんにとって、三島さんが最も重要な人物のひとりであったことは確か。私から見ると、三島さんと土方さん、そして澁澤さんの三人は他の誰も介入できないくらい特別な関係だった。この三人はそれぞれ異なった身体性を持っていて、その上で結びついている人たちだった。

土方さんは、言葉を用いずダンスで自分の何かを表現できる人。そんな土方さんに対して、三島さんの中にある意味恐ろしさを感じる部分があったのかもしれません。一方三島さんは、剣道や空手で鍛えていたりと、ダンサーにはない身体性を持っていた人。文学者でありながら自分と同じ凶器の身体を持っている三島さんに対し、土方さんはある種の恐ろしさなり尊敬の念があったと思う。

澁澤さんもまた、ダンサーには到達できないある種の身体性を持っていた人。澁澤さんは常々「自分の身体は訓練なんかいらない。自分の身体の一番いい状態は幼児の身体でいること。アンファンテリブルであることだ」と言っていた。生まれっぱなしの身体、子どもの持つ最も純粋な身体があればいい、というのが澁澤さんの考えで、それは土方さんにも三島さんにもないものだった。

実際に澁澤さんという人は屈託のない自然児で、アンファンテリブルそのものでした。澁澤さんは至って明るい健康人で、「自分は魑魅魍魎だとか怪しげな夢など一度も見たことがない。常に青空しか見たことがない」と公言してた。だからこそ妖怪や悪魔といった世界にのめり込んだのでしょう。澁澤さんは無邪気であろうとしているのではなく、もともと無邪気な人だった。この無邪気さに勝てる人はなく、澁澤さんの前に出るとみんなOKしてしまう。天使的な無邪気さを持っていたのが澁澤さん。そういう身体というのは訓練では絶対につくれない。

私はこの三人には共通する何かがあるのを感じていた。けれど三島さんの割腹で関係性が変わってしまった。きっと土方さんの中でいろいろ複雑な想いがあったと思います。自分はとても感謝なんて言葉を使えない、という心境だったのかもしれません。

縁あって出会った人というのは、私自身にとってかけがえのない存在です。三島さんは『月読蛭子』で、澁澤さんは後に『高丘親王航海記』でと、何らかの形で彼らとの結びつきを作品として出しています。そういう意味で土方さんを舞台のテーマとして出したのは『病める舞姫/土方巽幻風景』でした。捧げたわけではなく、自分の勝手な想い入れを作品にしただけですが、それは私なりの土方さんとの接点で、唯一この作品で具体的な意味で接点を持てた。ただ作品にするまでかなりの時間がかかってしまったけれど。

笠井叡 舞踏をはじめて <14> に続く

 

プロフィール

笠井叡
舞踏家、振付家。1960年代に若くして土方巽、大野一雄と親交を深め、東京を中心に数多くのソロ舞踏公演を行う。1970年代天使館を主宰し、多くの舞踏家を育成する。1979年から1985年ドイツ留学。ルドルフ・シュタイナーの人智学、オイリュトミーを研究。帰国後も舞台活動を行わず、15年間舞踊界から遠ざかっていたが、『セラフィータ』で舞台に復帰。その後国内外で数多くの公演活動を行い、「舞踏のニジンスキー」と称賛を浴びる。代表作『花粉革命』は、世界の各都市で上演された。ベルリン、ローマ、ニューヨーク、アンジェ・フランス国立振付センター等で作品を制作。https://akirakasai.com

 

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