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リアル動画で大注目! 谷桃子バレエ団 大塚アリスインタビュー

リアル動画で話題沸騰中の谷桃子バレエ団が、この夏75th Anniversaryガラ公演「TMB HISTORY GALA PERFORMANCES」を開催。谷桃子バレエ団が誇る人気演目とダンサーが勢揃いする豪華プログラムで、大きな話題を集めています。ここでは、主要キャストを務める大塚アリスさんにインタビュー! 公演への意気込みとバレエ団での日々をお聞きしました。

バレエをはじめたきっかけと、これまでのキャリアをお聞かせください。

大塚>5歳のとき母に連れられて地元・神戸のバレエスクールでバレエをはじめました。でもそのときはあまりバレエが好きではなくて。バレエって毎日同じことを繰り返すじゃないですか。それがつまらなかったんです。母にしても、バレエをやっていたとか、観るのが好きだったというわけでもなくて、チュチュを着せたら可愛いかな、という軽い気持ちで私を連れていったみたいです。

小学校4、5年生までは本当にやる気がなくて、ずっと辞めたいと思っていました。でも発表会で踊ったバリエーションがすごく楽しくて、そこではじめてやる気が出てきた感じです。実は、その発表会が終わったらバレエを辞めると言っていたんですけど(笑)。ようやくバレエに集中するようになって、コンクールにも出るようになりました。

昔からスヴェトラーナ・ザハロワやアリーナ・ソーモワが大好きで、彼女たちと同じワガノワ・バレエ学校に行きたい、絶対に行くんだ、という気持ちがありました。コンクールに出るようになったのも、ワガノワ・バレエ学校に行くため。でも私が通っていたバレエスクールは地元の小さいお教室で、海外に行ったり、バレエ団に入ったりするような人はほかにいませんでした。

いろいろなコンクールやオーディションに出るようになったとき、先生が「私には教えられないから」と言って、法村友井バレエ団の杉山聡美先生を教室に呼んでくださって、ロシアメソッドを教わるようになりました。ロシアメソッドはまず重心が違って、音の取り方も違う。何より上半身のつけ方が全然違います。

杉山先生の稽古は個人レッスンではなく、みんなと一緒に受けています。ただ特別扱いをしていただいていたから、先輩からいじめられるようなこともありましたね。「なんでアリスちゃんだけ? アリスちゃんには来ないでほしい」といわれて、先生も困ってしまって。トゥシューズがなくなるようなこともありました。

最初の1年は週に1回杉山先生に地元の教室で見てもらい、その後私の方から法村友井の教室に通うようになりました。法村友井の教室に通っていたのは週に2、3回。コンクール前やオーディション前は多めに通うこともあったけど、それ以外は地元の教室で杉山先生に言われたことを思い出して自分で練習をしてました。

コンクールに出るようになって、ヨーロッパの学校からスカラシップや入学許可をもらったこともありました。でも全部断っていましたね。“ワガノワのじゃなきゃ嫌”と言って。

京都のコンクールでスカラシップをもらい、ミュンヘンのミュンヘン・インターナショナル・バレエスクールに1ヶ月間留学しています。それも短期だから行った感じです。私が通っていた地元の教室では、本気でバレエに打ち込むような人たちは周りにいませんでした。でもミュンヘンで同世代の子たちのバレエに向かう真摯な姿勢にびっくりして、さらに頑張ろうと思うようになりました。

ワガノワ・バレエ学校への執着心はずっと変わらずありました。あるときワガノワ・バレエ学校の先生が審査員を務めるコンクールを見つけて、横浜まで受けに行きました。そのコンクールは入学オーディションも兼ねていて、いわゆる素質審査もありました。1番で立って、「タンジュで出して」と言われ、甲の厚みや伸び、骨格を見られて、「ここ力を入れて」と言われて触られたり。ロシア人ほど厳格なものではないけれど、やっぱりスタイルや持っているものは重視していたようです。

ボリショイ・バレエ学校とノボシビルスク・バレエ学校からスカラーの申し出をいただいたけれど、肝心のワガノワ・バレエ学校からもらったのは仮のスカラーでした。ワガノワ・バレエ学校から来たのは審査員の先生ひとりだけで、校長や副校長が見ていないから、自分だけでは決められないということです。ビデオを撮って送るようにと言われ、バー、センター、バリエーションとスタジオで一通り撮影して送っています。けれどその返事がなかなかこない。

ワガノワ・バレエ学校

ワガノワ・バレエ学校の返事を待っている間に、ボリショイ・バレエ学校のスカラーにYesかNoを言わなけらばいけない時期が迫ってきました。母に「ボリショイならすっと行けるんだから、そっちでいいんじゃない?」と言われたけれど、でもやっぱり私はワガノワ・バレエ学校に行きたい。ボリショイ・バレエ学校に「No」と伝えて、ドキドキしながらワガノワ・バレエ学校の返事を待ち続けました。だからワガノワ・バレエ学校から「OK」の連絡をいただいたときは、本当にうれしかったですね。

高校は1年間だけ通って、2年生のときロシアに行きました。ロシア語の勉強はしていなくて、最初は本当に困りました。何よりクラスが難しすぎて大変でした。1学年2クラスで、ひとつはコワリョーワ先生で、もうひとつがカシェンコワ先生のクラス。私が入ったのはコワリョーワ先生のクラスで、メインで選ばれた生徒たちが揃うクラスです。マリインスキー・バレエに入団できるのは毎年1人か2人なのに、その年は結果的に半分以上入っています。それくらい上手な子、綺麗な子だらけだった。しかも子どものころからずっとワガノワ・バレエ学校で基礎から叩き込まれてきた子たちです。その中にいきなりぽんと入れられて、すごく困りました。でももう練習するしかない。言葉もそこまでわからないから、見よう見真似でした。

ワガノワ・バレエ学校時代

朝は座学で、そのあとクラシックバレエのクラス。大抵クラシックのクラスが伸びて、お昼休憩がなくなり、移動しながらいつもお昼を食べていましたね。午後は演技の授業かキャラクターのクラス、デュエットのクラスが毎日交互にあって、その後は歴史舞踊で『ロミオとジュリエット』のダンスをしたり、もしくはコール・ド・バレエの授業で『ジゼル』の2幕や『白鳥の湖』のコール・ド・バレエをならったり。それが終わるとリハーサルが夕方5時まで続きます。ハードでした。リハーサルが終わっても、試験の数ヵ月前からはもう1回クラシックの稽古をします。

あのときが1番しんどかったですね。先生もスパルタで、大きな声で怒られるし、本当に怖かった。私が注意されたのは、ターンアウトや上半身、足先の使い方。あとよく言われたのが、大きく踊ること。こんなに大きく踊ってもまだなんだ、というくらい言われました。

ホームシックは意外と大丈夫でした。ワガノワ・バレエ学校の寮で暮らしていて、食事もついてきました。ただあまり美味しくなくて。学校には食堂があったけど、お昼は行く時間がないし、結局自炊していましたね。共同キッチンがあって、大きいオーブンがついていたので、みんなでケーキを焼くこともよくありました。そこでお菓子づくりをするようになったのかもしれません。

ワガノワ・バレエ学校時代

ワガノワ・バレエ学校留学中、デュエットのクラスで怪我をしたことがありました。男性もまだ女性を持つことに慣れていなくて、私の方も慣れていない男性に持たれることに慣れていない、お互い手探りでやっていたときでした。リフトから男性が投げてキャッチする場面で、うまく着地できずにグキッといってしまった。救急車で病院に運ばれて、なぜかお尻に注射を打たれています(笑)。なんででしょう。でもお尻に注射するのって、ロシアあるあるなんです。医療用語をいろいろ言われたけれど、何を言われているかわからない。そこで足をぐるぐる巻きにされて帰されました。

石膏でギブスをつけてもらったけれど、いつの間にか歩きやすくなっていて、なんでだろうと思ったらギブスが折れてしまってた。全然固定されていない状態です。ロシアはアバウトなので、それもロシアらしいところです。結局のところ何のケガかはわからないままでした。歩けていたから、たぶん折れてはいなかったと思うけど、やはり痛みはありました。ただそのときは試験前だったので、あまり休んでばかりもいられません。学校の保健室で電気のような機械をあててもらって、試験に臨んでいます。ロシアは床の傾斜があるので足の負担が大きくて、全部踊ることはできなかったけれど、一応試験に参加することはできました。

ワガノワ・バレエ学校時代

ワガノワ・バレエ学校にいたのは2年間。就職活動はこんなに大変なんだと思うくらい大変でした。在校中からオーディションを受けはじめて、ロシアの地方にも行ったし、いろいろなオーディションを受けました。でもなかなか決まらない。クラスの子たちはマリインスキー・バレエにどんどん決まっていくから、どうしようとかなり焦りましたね。最後の最後に受け入れてもらえたのが、モスクワのロシア州立バレエシアターでした。大きなカンパニーではないけれど、劇場を持っていて、月給のほか家賃が補助され、ポワントも支給されます。レパートリーはクラシック作品が多く、『白鳥の湖』『眠れる森の美女』『くるみ割り人形』『バフチサライの泉』『コッペリア』などいろいろありました。ただロシアは毎日違う演目を上演するので、振付を頭に入れるまですごく大変でした。

ロシア州立バレエシアターはダンサーの人数が多かったので、半々にわかれ、交互に海外ツアーに出ていました。ツアーがたくさんあるのは私的にはとても助かりました。というのもツアーに出ると、そのぶん滞在ビザの日数が伸びるんです。ロシアではずっとビザの計算をしていましたね。ちょっとでも間違えたら不法滞在になってしまうから、「あと残り何日なんです」とカンパニーと交渉しては、ツアーメンバーに選んでもらうこともありました。

ロシア州立バレエシアター時代

コロナ禍がはじまったのは、中国ツアーの最中でした。中国からすぐロシアに戻ったものの、カンパニーがクローズしてしまった。ロシアはコロナに対する危機感を早くから認識していて、その辺りはシビアでしたね。中国からロシアに戻ってきたタイミングでビザをもう1度やり直す必要があったけど、「中国に持っていったパスポートは触りたくない」と言われてしまって。でも更新しないと罰金を払うことになる。

芸術監督に相談したら、「今はこんな状況だし、これはすぐに収まるとは思えない。飛行機も飛ばなくなってしまったらそれこそ不法滞在になってしまうから、一度日本に帰っておいで。落ち着いたらまた戻ってくればいいから」と言われて、帰国を決めました。実際あのとき日本にこなければ、本当に帰れなくなってしまうところでした。

そのときは少しだけ日本に帰るつもりでいたんです。でも戦争がはじまって、ロシアに戻れなくなってしまった。それがなければきっとまたロシアで踊っていたと思います。ロシア州立バレエシアターいたのは2年半。やっぱりロシアは好きですね。今でも無理矢理ロシアに戻ろうと思えば戻ることはできます。例えばカンパニーにビザを出してもらったり、自分で高いお金を払ってビザを買えばできないことはない。でも親も私もそこまでして今この状況でロシアで踊る意味があるのだろうか、だったら日本でもできることはあるだろうと考えて、しばらく日本で活動しようということになりました。

帰国後はしばらくフリーで踊っていました。いろいろな舞台に呼んでいただいて、すごく楽しかったですね。でも次第に“これをいつまで続けていけるんだろう”と思うようになって。男性だったら発表会などいろいろ仕事もあるけれど、女性はやはり難しい。

どこにも所属せず、宙ぶらりんな状態でいるのも嫌だった。そんなとき知人に「オーディションがあるよ」と教えてもらったのが谷桃子バレエ団でした。

ロシア州立バレエシアター時代

 

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