Kバレエ カンパニー 新プリンシパル日髙世菜インタビュー!
Kバレエ カンパニー3月公演『白鳥の湖』でオデット/オディールを踊ります。今年1月にプリンシパルとして移籍入団した直後の主演デビューということで、今大きな注目が集まっていますが、現在の心境とリハーサルの手応えをお聞かせください。
日髙>日本で全幕を踊ること自体初めてで、緊張感がありますし、プリンシパル入団させていただいたことでプレッシャーもすごく感じています。何より『白鳥の湖』での主演デビューというのはやはり特別なものがあります。
『白鳥の湖』を踊るのは4年ぶりです。リハーサルを重ねる内に動きを思い出し、同時に身体もだいぶ慣れてきた感覚があります。パートナーの髙橋裕哉さんとは初対面ですが、彼は海外で長く踊っていたからかどこか外国人のような感覚を持っている方で、私にとってはとても踊りやすいですね。髙橋さんにとっても私の腰の高さなど身体的な感覚がちょうど良いらしく、組みやすいと言ってくれています。
オデットもオディールも好きですが、表現の面で挑戦する感覚が強い分、オデットの方が踊っていて楽しいですね。もちろんオディールも踊っていてすごく楽しくて、男性を誘惑したりと普段できない経験ができるので(笑)、演じ甲斐を感じます。
これまで踊ってきたヴァージョンと熊川版との違いは、演技やマイムがしっかりあるところ。これまでは主に足先について指導されることが多かったのですが、Kバレエ カンパニーではより白鳥らしい動きに近づけるよう上半身の表現を細かく指導していただいていて、新鮮な気持ちで毎回リハーサルをしています。
初めて『白鳥の湖』に主演したのはルーマニアのブカレスト国立歌劇場バレエ団時代で、22歳のときでした。当時はプリンシパルに昇格したての頃で、立て続けにいろいろな演目の主役を踊らせてもらっていましたが、『白鳥の湖』はやはり特別で他の作品にはない難しさがありました。
コンクールやバレエ学校時代も『白鳥の湖』を踊った経験はなく、オデット/オディールを踊ったのは本当にそのときが初めて。『白鳥の湖』への憧れはずっと昔から抱いていて、いつか自分も踊ってみたいと思ってはいましたが、実際に踊ってみると想像以上に難しかったですね。人間を演じるだけではなく、白鳥らしさや悲壮感を伝える必要もあって、ただ単に憧れだけでは踊れない作品なんだと気づかされました。
舞台の後、振付家の方から“まだまだだね”と辛口な評価をいただきました。自分としてはできる限りのものを精一杯出し尽くしたつもりでしたが、やはり表現の面が至らず、オデットの感情やオディールの美しくセクシーな魅力を出し切れていなかったんだと思います。けれどデビューできちんと指摘していただいたことで、私自身そこで終わりだという気持ちにならなかったのはかえって良かったと思っています。その後アメリカのタルサバレエに移籍し、1シーズン目に『白鳥の湖』に主演しました。オデット/オディールを踊るのはそれ以来になります。
いろいろなダンサーが『白鳥の湖』を踊っていますが、なかでも私の憧れは英国ロイヤル・バレエ団のマリアネラ・ヌニェスのオデット。彼女のオデットはただ悲しいだけではなくて、王子に心を開いていくうれしさや喜びの表情を浮かべてみせる。それが私にとってはすごく新鮮で、こういう表現の仕方があるんだという発見があり、こういう風に踊っていいんだという閃きにもなりました。私もただただ悲しいだけではなくて、きちんと王子と向き合い、そして優しさもあるオデッドを踊れたらと思っています。
もともと地元関西でバレエを学び、ワガノワ・バレエ・アカデミーへの留学を経て、海外で長い間活動されてきました。バレエを始めたきっかけと、キャリアの経緯をお聞かせください。
日髙>小さい頃から踊るのが好きで、テレビの真似をしながら踊っているような子どもでした。バレエを始めたのは4歳のとき。幼稚園に入園したとき友だちに“近所にバレエ教室があるから行ってみない?”と誘われて、そこですっかり気に入って自分から“私もバレエをやる!”と言ったと親に聞いています。ただ小さい頃の私はすごく太っていて、こんな子がバレエをやったらダメでしょという感じでしたけど(笑)、気にせず大きなお腹で楽しくレッスンしていたようです。
最初はバレエだけでしたが、バレエの動きの役に立つとすすめられ、同じスクールで9歳からジャズダンスとタップダンスを始めました。タップはすごく好きでしたね。留学先のワガノワにはキャラクターダンスの授業があって、タップを習った経験は後々とても役立ちました。
子どもの頃からロシアバレエが好きで、ロシアバレエのDVDを繰り返し観ているうちに、次第にロシアに留学したいという想いが芽生えるようになりました。ロシアの先生のワークショップや一週間ほどの短期留学を経て、オーディションを受けて2008年から3年間ワガノワ・バレエ・アカデミーに留学しています。留学は17歳のときで、高校を中退してロシアに行きました。
憧れのロシア留学でしたが、現実は思っていたものとは違い、楽しい日々ではありませんでした。ロシアの天候や生活が私には合わなかったのと、何より自由に踊れないことがすごく辛かった。レッスンはひたすら基礎の繰り返しで、これはこうしないとダメという形がしっかり決められている。基礎は何よりも大切だと頭では理解しながらも、気持ちが沈むことが多く、バレエが好きという気持ちも少しずつ失せていきました。
ワガノワ・バレエ・アカデミーは9年生が最終学年で、私は6年生からはじめ、7年生に進み、飛び級で9年生に編入しています。最終学年にはオルガ・スミルノワやクリスティーナ・シャプランといった優秀な生徒がいて、大きな刺激になりました。クリスティーナは天才型。一方オルガは努力の天才で、その日できなくても次の日には完璧にできるようになっている。すごいなと思いましたね。今思うと恵まれた年代だったのかもしれません。
現実と憧れが違い、学校を卒業する頃にはバレエがちょっと嫌いになっている自分がいました。卒業後の進路にしても、プロとして踊るのではなく、もう日本に帰ろう、ワガノワで習ったことを後輩に教える仕事をしようと考えていました。けれど母に“せっかく海外にいるんだから海外で就職したら”とすすめられ、オーディション巡りをはじめました。
ロシアで就職しようという考えはありませんでした。というのも留学中にすごく太ってしまって、今より6〜7キロ重かったので、ロシアのバレエ団は無理だろうと自分でもわかっていたんです。痩せたのはずっと後になってから。ダイエットというよりは意識の問題で、コール・ド・バレエからソリスト、主役と段階を踏んでいくうちに、やはり責任感も生まれてくる。真ん中で踊るようになったとき、“こんな状態ではダメだ”という気持ちが芽生え、食生活も次第に変わり自然と痩せられた感じです。
2011年にルーマニアのブカレスト国立歌劇場バレエ団に入団し、プリンシパルとして活躍されています。ルーマニアはどんなカンパニーでしたか? 在籍中、特に印象に残っていることといえば?
日髙>ルーマニア国立歌劇場バレエ団は多国籍で、日本人も私が入団したときは5人くらい、その後さらに増えて多いときは12人くらい在籍してました。Kバレエ カンパニー プリンシパルの堀内將平さんも同じ時期に在籍されていたんですよ。
プリンシパル昇格は入団3年目。『ドン・キホーテ』の公演後、キトリデビューが終わってほっとしていたら、カーテンコールで芸術監督のヨハン・コボーが舞台上に出てきてプリンシパル昇格を告げられました。当時のブカレスト国立歌劇場バレエ団にはプリンシパルという階級自体がなく、昇格など全く想像してもいなかったので、本当にびっくりしましたね。
プリンシパルになって意識も変わり、まずリハーサルの態度からみんなの見本になるようにしなければと考えるようになりました。主演を踊ることも増えました。なかでも一番記憶に強くあるのはやはり『白鳥の湖』です。とにかく難しかったし、全てをこなしていくだけでデビューが終わってしまった感覚があります。『ジゼル』もすごく印象に残っています。『ジゼル』はアリーナ・コジョカルが指導してくれて、大切なのは役をきちんと理解することだと教わりました。一つ一つの演技について“こうだからこういう表現が自然なんだ”と指導していただき、そのどれもが“確かに!”と思うことばかり。彼女自身努力の人で、本当に役について深く考えているんだなと感じました。
ブカレスト国立歌劇場バレエ団時代、アリーナのガラ公演『アリーナ・コジョカル ドリーム・プロジェクト』に参加し、初めて東京で踊っています。ヨハンのキャスティングでしたが、日本で踊ること自体あまりなく、貴重なチャンスをいただき本当にうれしかったですね。母も喜んでくれて、私の舞台を全部観に来てくれました。ただ母はいつも辛口で、“初日以降の方がリラックスして見えた”などいろいろアドバイスをしてくれます(笑)。母はバレエとは全く関係ない人間ですが、実際公演を観に来るお客様と同じような一般の視点で意見をもらえるのはありがたいなと思います。
プリンシパルとして活躍されたバレエ団を退団し、タルサバレエに移籍されたのは何故でしょう。
日髙>ブカレスト国立歌劇場バレエ団には5年間在籍しましたが、4年目になった頃“これ以上ここに居続けてもバレリーナとして成長できないな”という想いが生まれ、移籍を考えるようになりました。最初はヨーロッパのカンパニーを探していたのですが、あるときタルサバレエがルーマニアにツアーで来る機会があり、それならということでオープン・オーディションを受けました。
移籍は2016年です。タルサバレエがあるのはアメリカの中部・オクラホマ。入団は決まったものの、現地に行ったわけでもなく、カンパニーの雰囲気も知らない状態だったので、最初はすごく不安でしたね。
実際ルーマニアとはかなり雰囲気も違ってました。ブカレスト国立歌劇場バレエ団はかなり自由で、朝のクラスは各自体調をみながら受けてもいいし、リハーサルのために途中で抜けてもいい。リハーサルを受ける時の服装も自由だったりと、個々の裁量に委ねられる部分が多くありました。けれどタルサバレエはとても厳しくて、クラスは毎日全力で受けなさい、もし痛くて踊れないならバレエを辞めた方がいい、という感じ。服装にしても、身体のラインがしっかり見えるレッスン着を着るよう決められている。怪我で様子を見つつクラスを受けるというのは聞き入れてもらえず、タルサバレエでは30歳を超えたらダンサーを引退し、教える側にまわるというのが慣例になっていました。
監督はイタリアの方で、普段はとても優しくていい監督ではありましたが、バレエに関しては“自分が現役のときはこうだった”と言って譲らない。ダンサーが振りを間違えると怒ってスタジオを出て行ってしまうこともよくあって、私もそれで一度ひどく怒らせてしまったことがありました。
レパートリーはクラシックとコンテンポラリーが半々くらい。私はそれまでコンテンポラリーはあまり踊ったことがなく、ほぼ初挑戦で厳しく指導していただきました。配役は団内オーディションで決まりますが、私はいわゆるコンテンポラリー作品ではなくて、ネオクラシックよりの作品に配役してもらうことが多かったですね。
なかでも特に心に残っているのは、2017年に踊ったデイヴィッド・ドーソン振付の『ア・ミリオン・キス・トゥ・マイ・スキン』。監督が私の経験のためにと配役してくださったようですが、私は何かと萎縮しがちなタイプで、あのときも振付家の迫力に押されて思うように自分が出せなくて。振付家のデイヴィッドもそれが不満だったらしく、“それでもあなたは主役なのか”と厳しく注意されました。ただリハーサルを重ねる内に私自身だんだん自分の領域を超えた踊りが踊れるようになってきて、それからはきちんと見てもらえるようになりました。大変ではあったけど、あの経験を通してひと皮むけたというか、自分の中の輪が広がる手応えが感じられた作品です。
バレエ団は厳しかったものの、アメリカの生活自体は心地良かったですね。アメリカはみんなフレンドリーで、スーパーの店員さんにしても、“ハイ、元気?”と気さくに話しかけてくる。何て過ごしやすいんだろうという、うれしい驚きがありました。とりわけタルサはのどかな場所で、おじいさん、おばあさんに囲まれながら、スローライフを送っていた感じです(笑)。
私はどちらかというとインドア派で、オフの日はたいてい家でのんびり過ごしています。アメリカにいた頃はよく家でお菓子作りをしていましたが、日本に帰ってきてからはまだ調理器具が揃ってなくて、最近はもっぱらテレビゲームが一番の趣味(笑)。ダンサーとして特別食生活を意識しているというわけではなくて、甘い物も食べれば、揚げ物を食べたりもする。基本的に夜は炭水化物を摂りませんが、ハードだった日は炭水化物も食べたり、休日は好きなものを食べたりと、そのときの身体のコンディションをみつつ臨機応変に変えています。自分のご褒美に何か特別なものを用意することはないですね。踊れていることがすごく幸せで、それがご褒美だと感じているから、特別なものは必要ないのかもしれません。
2021年1月にKバレエ カンパニーに入団されました。移籍のきっかけは何だったのでしょう。
日髙>最初に日本に帰ろうと考えたのはワガノワ・バレエ・アカデミーを卒業するときで、結局海外で就職しましたが、その後も30歳になるまでに日本で落ち着きたいという一つの目標を抱いていました。そんなときコロナでバレエ団の活動が休止してしまった。復活もいつになるかわからないという状況で、だったら無為に時間を過ごすより次のステップを目指そう、日本に一時帰国してオーディションを受けようと考えました。
オーディションは団員の方に混ざってクラスレッスンを受けるプライベートな形式で受験しました。熊川芸術監督とはそのときが初対面だったのですが、オーラがすごくて、稽古場にあらわれた途端緊張がグッと高まりましたね。ただ踊りはじめたら自然と緊張も解け、自分を出せた手応えがありました。
プリンシパル入団と聞いたときは本当に驚いて、初めはドッキリかと思ったくらい(笑)。光栄ですし、本当に感謝しています。9月にタルサバレエを退団し、10月に日本に帰国しました。
久しぶりの日本での生活はいかがですか? 今後日本で目指す新たなダンサー人生とは?
日髙>日本で暮らすのは11年ぶりです。しかも東京暮らしは初めてと、初めてのことだらけ。朝起きてテレビをつければ、日本語でニュース番組が流れてる。日本で、バレリーナとして働ける。日本に帰ってきてよかったな、本当に幸せだなと日々感じています。
Kバレエ カンパニーはすごくフレンドリーな雰囲気で、みんな気さくに声をかけてくれるのでうれしいですね。ルーマニアでは互いに距離を置くような雰囲気がありましたが、タルサバレエは家族みたいにみんなで助け合っていたところがあって、Kバレエ カンパニーもそれに近い感覚があります。
今は『白鳥の湖』のことで頭がいっぱいです。日本で初めて踊る特別な舞台であり、まずは目の前のことをきちんとこなしていく、今はそれしか考えられないですね。Kバレエ カンパニーに入団させていただいたおかげで、日本のみなさんに私のことを知っていただくことができる。本当に感謝の気持ちしかなくて、これから先自分がどうなりたいというよりも、与えていただいたこの状況にふさわしいバレエ団生活を送れたらという想いでいます。