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笠井叡 舞踏をはじめて <1>

大野一雄に学び、土方巽と交流を持ち、“舞踏”という言葉を生んだ笠井叡さん。その半生と自身の舞踏を語ります。

1961年5月、江口隆哉・宮操子舞踊研究所に入門。モダンダンスのレッスンを受け、ダンスの道へ入る。

私がダンスの稽古をはじめたのは高校卒業後すぐ、18歳のときでした。都立大学駅近くにあった江口隆哉・宮操子舞踊研究所に通い、モダンダンスを習っています。そこから私のダンス人生がはじまった。けれどそれは自ら望んだ道ではなくて、母に背中を押されてはじめたことでした。

幼い頃から私は将来の夢というものを持ったことがなく、高校卒業を間近に控えても、果たして自分はどんな仕事に就きたいのか一切見えてこなかった。自分は家をつくる人間でもなければ、列車をつくる人間でもない。何か生産的なことができるわけでもなく、具体的なことが何もわからなかった。

いざ高校を卒業しても、大学に行くでもなく、“人生の目的とは何なのだろう?”と悶々と過ごす日々が続いてました。そんな私を見かねたのでしょう、あるとき母から「江口隆哉・宮操子舞踊研究所というダンスの教室がある。そこに行って身体でも動かしてみなさいよ」と勧められ、言れるまま教室に足を運んでみることにした。江口先生の弟子だった正田千鶴さんが近所に住んでいらして、その御縁で紹介していただいた形です。

モダンダンスとは果たしてどんなことをするものなのか。全く知識はなかったけれど、どうやらダンスの稽古というのはタイツを履いてするものらしい。まずは渋谷に出掛け、それらしいタイツを手に入れて稽古に向かいました。けれど私が選んだのはまるでプロレスラーが履くような分厚いタイツで、もちろん江口先生の教室でそんなタイツを履いている人は誰もいません。私ひとり分厚いタイツ姿で、恥ずかしさを覚えつつ、仕方なくそれで稽古に参加しています。

当時の私は身体のことなど全然興味はなくて、“ちょっと今までとは違うことをやってみようか”という程度の軽い気持ちだったと思います。実際稽古に参加してはみたものの、ピアノに合わせて身体を動かす場所ということ自体が私には何だかすごく奇妙に思えたし、“こういう所に居てどうなるんだろう”という気持ちが強くありました。もちろん踊りを生業にしようなど全く考えてもいませんでした。

母の勧めがなければ、ダンスの道が開かれることはなかったでしょう。母は子どもたちに対してああしろこうしろとあれこれ口出すタイプで、私もさして抵抗せず母の言葉に従っていた。ダンス教室に通いはじめたのも、私自身はそれほど興味はないけれど、母に言われたからという想いが強かった。そこで江口隆哉先生と出会い、後に大野一雄さんと出会う。偶然ではあるけれど、そうなるともう全て必然なのかもしれません。

18歳の頃

当時は男性がダンスをすること自体が珍しかった時代。母はその時代には珍しく、常識にとらわれず生き、自由な気風を貫いた人だった。

母の出身は三重県の津市。銀行家の娘として生まれ、海沿いの大きな三階建ての洋館で育ちました。祖父は英語が堪能で、ときに外国から来た文化人や音楽家の通訳をすることがあり、その流れで彼らがよく家に泊まりに来ていたそうです。

ヨーロッパ的な気風の中で育ったせいか、母は日本の社会に馴染めずにいたところがあった。当時としてはケタ外れの生き方をした人だった。母は東京女子大学の数学科で学んでいますが、当時の大学には平塚らいてうや与謝野晶子らのように女性の権利を主張する女性たちが集まっていたそうです。

祖父母がキリスト教だったこともあり、母は幼い頃から教会に親しみ、日本のパイプオルガンの草分け的存在に手ほどきを受けた。当時としてはまだ珍しかったパイプオルガンを教会で弾くようになりました。

母・君子(右から二番目)

一方、父の家は九州の下級武士という庶民の出。父は非行少年など社会生活がうまくできない人たちの世話をする仕事をしていて、そこから裁判官を目指した人。尋常小学校を出ただけで、独学で判事になったという努力家でした。20歳で司法試験に受かったときは、新聞に取り上げられたと聞いています。

父は道徳的にも法律的にも非常に厳しい人でした。とにかく厳格で、私はいつも父の部屋に呼ばれては怒られてばかりいたものです。“ああしなさい、こうしなさい”とあれこれお叱りを受けるのだけれど、判決を読むかのような抽象的な物言いで、何で怒られているのか子どもの私にはさっぱり理由がわかりません。

父と母は正反対のタイプ。よくあの二人が結婚したなと思います。実際しょっちゅういざこざがありましたが、母の方が強かった。教育方針も全く違って、母は母で子どもたちを甘やかし、父は父で厳しく接する。私の中に自由な気質とある種の厳格さという矛盾した性質が同居しているのは、やはりあの環境によるもののように思います。

母は私を芦屋で身ごもり、疎開先だった三重県の堺市で私を生んだ。その後群馬県の沼田に疎開し、終戦までそこで暮らしています。戦時中の風景は私の記憶にはっきりと刻まれていて、アメリカの軍用機がよく頭上を飛んでいたのを覚えています。

私は三人兄妹の真ん中で、二歳上の姉と三歳下の弟がいます。弟が生まれたのは沼田でした。私の中に弟というのは自分の好きなように扱っていいものだという思い込みがあり、小さい頃はあれやこれやと好き勝手に命令していたものでした。けれど突然“お兄ちゃんのために何でもやらされるんだったら僕は死んだ方がいい!”と言われてしまった。私が小学校三年生のときで、それまで弟が我慢していたのに気付かなかったのだから脳天気です。

姉・禧子、三男・笠井瑞丈

弟は私と違って優秀で、東京大学の数学科に進学しています。そこでフルートと出会い、音楽家になった。意外に思われるかもしれませんが、理数系出身で音楽家になる人というのは実は多いそうです。人間感情が入らない一種ピュアなものが共通項としてあるのかもしれません。弟はスイスの管弦楽団に数十年間在籍し、定年後も向こうで暮らしています。奥様は早く亡くなりましたが、彼らの娘であり私の姪はバイオリニストになりヨーロッパで活躍しています。私の三男の瑞丈の連れ合いの上村なおかとは懇意のようで、世田谷美術館で一緒にパフォーマンスをしていました。

姉もやはり理数系の人間で、物理科に進みました。教育大学を経て、大学院はやはり東京大学です。姉は保母として働いていて、夫になった人は大学で経済を教えていました。けれど彼が早くに亡くなり、すると姉は驚くことに社交ダンスの先生になりました。

裁判官は癒着を防ぐためひとつの土地に長く住むことは許されず、三重県の津市から群馬県の沼田へ、そして札幌へ移転を繰り返す。小学校を6回転校し、その後は東京へ行くはずだった。

父は札幌の高等裁判所で判事をしていましたが、出張先の函館で海難事故に遭い、41歳のとき亡くなりました。1954年9月26日に起きた、洞爺丸事故の犠牲者です。当時私は11歳でした。もしあのまま父が生きていたら、「ダンス教室など通っていないで大学で法律でも勉強しなさい」などと言われていたのではないでしょうか。

厳格な父がなくなって、突然自由な世界に放り込まれた心境でした。何をしても叱られず、人間的に堕落するのではないかという危惧がある反面、何てラクなんだという想いを同時に抱いていました。

父・寅雄

母の再出発は早かった。父が亡くなり、東京へ移転しました。次の赴任先は東京だろうということで、父が生前に土地を手に入れていた。今私たちが暮らしている東京の国分寺で、新たな生活がはじまりました。

母が「公立の学校に行くと悪い友だちができる」と言って、私たち兄弟は私立のむさしの学園に通うことになりました。むさしの学園はミッション系で、シュタイナー的な自由教育を特徴とするやや特種な学校でした。

母はそこで弟の担任だった吉川先生と出会い、早くも再婚しています。吉川先生はまだ若く、30代後半だった母とは10歳以上の年齢差がありました。

吉川先生は演劇が好きで、よく私を芝居に連れて行ってくれました。はじめて芝居を観たのは小学校6年生のときで、俳優座の椎名麟三の公演です。プロセニアムの劇場で、ホリゾントにブルーの照明があたり、化粧をした俳優がいるーー。それは私が目にしたことのない光景で、なんてすごい世界があるのだと驚かされた。私たちが普段生活している町には家や畑や工場があり、車や電車が走っている。それとは別に、舞台という空間の中にもうひとつの世界がある。自分たちが生きている現実の中に、もうひとつの現実、虚の世界があるのだと知った。それはとてつもなく大きな衝撃でした。

演劇体験と並び強く記憶に残っているのが、子どものころに観たバレエの発表会です。舞台で踊る女の子を観て、人工的な動きで空間がつくられているということにものすごく驚かされた。さらに遡ると、3歳のとき見た指人形にも大きなショックを受けたのを覚えています。人間が物になって指で動いているということが衝撃だった。子どものころ強烈に惹かれたのはこの3つの体験で、これらの光景はいまだに記憶にくっきりと焼き付いています。

中高演劇部時代(右)

 

笠井叡 舞踏をはじめて <2>に続く。

 

プロフィール

笠井叡

舞踏家、振付家。1960年代に若くして土方巽、大野一雄と親交を深め、東京を中心に数多くのソロ舞踏公演を行う。1970年代天使館を主宰し、多くの舞踏家を育成する。1979年から1985年ドイツ留学。ルドルフ・シュタイナーの人智学、オイリュトミーを研究。帰国後も舞台活動を行わず、15年間舞踊界から遠ざかっていたが、『セラフィータ』で舞台に復帰。その後国内外で数多くの公演活動を行い、「舞踏のニジンスキー」と称賛を浴びる。代表作『花粉革命』は、世界の各都市で上演された。ベルリン、ローマ、ニューヨーク、アンジェ・フランス国立振付センター等で作品を制作。https://akirakasai.com

 

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