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笠井叡 舞踏をはじめて <2>

大野一雄に学び、土方巽と交流を持ち、“舞踏”という言葉を生んだ笠井叡さん。その半生と自身の舞踏を語ります。

小学校はむさしの学園に、中学受験をして中学・高校は山水学園に通う。かつて軍人学校の指定が入ていた学校で、現在は桐朋学園と変更。普通教育のほか音楽学校としても知られている。

吉川先生の影響もあり、中学・高校時代は演劇部に入りました。劇場にもたびたび足を運んでいましたが、私は大衆演劇のような作品はあまり好まず、文学座や俳優座を主に観るようになりました。芝居そのものだけではなく、舞台を通して社会がどう変わっていくかということに子どもながら興味がありました。

中高演劇部時代(右)

中学時代の私が演劇以上に情熱を傾けていたのが山で、演劇部と並行して山岳部にも入っていました。山に導いてくれたのもやはり吉川先生です。私は高い山、特に雪と氷に覆われた山が好きで、難度の高い岩山に挑戦することに情熱を燃やしてた。今でいうロッククライミングのような感じでしょうか。例えばある年の手帖を見てみると、夏休みに30日近くひとりで山に行っていた記録がある。

危険なことも相当していて、危うく命を落としかけたこともありました。中学三年生のとき、大人3人と谷川岳に登り、あと500mほどで山頂に辿り着くというところで絶壁に出くわし、立ち往生してしまった。加えて大吹雪になり、雪に穴を掘り、ひと晩過ごすことにした。けれど翌朝起きるとまだ吹雪が続いている。吹雪のなか岩山を昇っていると、表層雪崩が起きた。4人がザイルに繋がったまま斜面を落下し、雪の中に埋もれてしまった。呼吸もできず、このまま死んでいくのか……と思った瞬間、突然身体が雪の外にぽんと放り出され、空が見えた。どうやら近くでもうひとつ大きな雪崩が起き、その反動で私たちを閉じ込めていた雪が回転して押し出されたようです。谷川岳以降は山登りは辞めました。ただ山という場所は自分にとって重要な場所で、そこでの経験はとても大きなものがありました。

演劇と山が中高時代の私の大半を占めていた。姉と弟は優秀で早々に進路を決めていたけれど、私は高校卒業を間近に控えてもこれといった将来のビジョンが掴めす、大学に行きたいという気持ちもまるでありませんでした。

中高演劇部時代(後列右から二番目)

いちおう受験勉強もしています。けれどこの先何になりたいという夢もなく、勉強にもあまり身が入らなかった。舞台俳優の道を考えたこともありました。俳優座や文学座の養成所の試験を受けてみたけれど、箸にも棒にもかかることなく、自分には演劇の道は開かれなかった。そのうち演劇でできる言語的な表現は自分の求めるものとは違うと気づき、演劇でもダメだと思うようになった。自分が興奮できる世界、命をかけられる世界は何なのか。ひとつひとつ消去していった結果、残ったのがダンスの道だった。

高校卒業後、二年間にわたり浪人生活を送っています。しかしその間も受験勉強などろくにせず、江口隆哉・宮操子舞踊研究所に通ってダンスばかりする日々でした。

中高演劇部時代(後列左)

江口隆哉、宮操子はドイツに渡り、ノイエタンツの創始者マリー・ヴィグマンに師事した日本モダンダンス界の第一人者。帰国後は舞台活動と並行し、自身のスタジオを構えモダンダンスを教えていた。

江口先生が月・水・金、奥様の宮先生が火・木・土といった形で、日替わりで稽古をしていました。江口先生は非常に美男子で、宮先生もまた大変な美女でした。とてもお似合いの二人ではあったけど、タイプは全く違ってた。

江口先生の稽古で多かったのが、身体を整える動きや柔軟性を高める動きでした。生徒が3列に並び、ピアニストが弾くピアノにあわせて1、2、3、4と歩き、そこでひとつポーズをして……。江口先生がモダンダンス的な動きをしてみせて、みんながそれを真似して即興で動く、という稽古です。あの頃すでに江口先生は60歳を超えていたけれど、すごくお元気で、一時間半のレッスンを全く休むことなく自ら精力的に動きながら教えていたのを覚えています。

宮先生の踊りはある種の情熱を持った動きが特徴でした。それはタンゴ風でもあるし、フラメンコ風でもある。江口先生の動きは柔軟であらゆるところに力が均等にいくけれど、宮先生は上に伸びたと思えばすとんと脱力したりと、すごく激しい。江口先生の動きは1、2、3、4……と次第に力強くなっていくけれど、宮先生は最初の動きからして非常に力強い。だから見え方も全然違います。宮先生は性格もとても激しく、どちらかというと江口先生の方が温厚なタイプでした。

私が教室に入って間もないころ、『鬼剣舞』を上演することになりました。江口先生の代表作のひとつといわれる作品です。私はまだダンスを習いはじめたばかりでしたが、江口先生が「笠井さん、僕と一緒に振付をする練習をしましょう」と声を掛けてくださって、江口先生のもとで振付をすることになりました。足をバンと開いて、ジャンプしてーーとひとつひとつ振付をして、江口先生と一緒に舞台をつくっていった。個人的に薫陶を受けたような気がして、それは私にとってとても楽しい時間でした。

レッスンには通ってはいたものの、舞踊家になろうという考えはなく、“自分は一体何をすべきなのだろう”と模索の日々が続いていました。あるとき江口先生に「僕はどうしたらいいのでしょうか。僕は踊りができるのでしょうか」と訊ねたら、「君がどう考えるかで決まるんだ。それは自分には言えない!」とひどく叱られてしまった。私としては、「大丈夫だよ、君」なんて言ってくれるかなと思っていたのだけれど。

モダンダンスと並行して、バレエの教室にも通っています。私にバレエを教えてくれたのは千葉昭則先生。個人レッスンで、当時日本ではまだ知られていなかったフロア・バーを教えていました。

千葉先生は身体に芯を通すことにすごくこだわった人。例えば家を建てるとき四隅に梁を入れないとグラグラしてしまうけれど、身体も同じで梁を入れるか入れないかで全然強度が違ってくるという。不思議なことに、千葉先生のレッスンを受けると背が高くなるような感覚があった。自分の身体が確かに変わるのを毎回のレッスンで感じていました。

レッスン代はかなり高額で、一回20分で7000円〜8000円だったと思います。それでも受ける価値があったのでしょう、有名なダンサーも内緒で習いに来ていたようです。私は一年間通ったけれど、それ以上はレッスン代が続かなかった。

江口隆哉・宮操子舞踊研究所をきっかけに、ダンスの仕事を得る。期せずしてダンスが生活の糧となった。

江口先生の稽古場には男性のお弟子さんも少ないながら何人かいて、西田尭さんや庄司裕俊さん、三上弥太郎さんなどが通っていました。なかでも親しくしていたのが吉続正義さん。彼は酒田でお父さまがダンスの先生をしていて、江口先生の稽古場で同時期に学んでいます。あるとき吉続さんに誘われて、テレビの仕事をはじめることになりました。カモシカプロというプロダクションが制作するNHKの子ども向け番組で、歌っている人の後ろで踊ったり身体を動かす仕事です。30分番組で、報酬は1000円くらい。当時はそれで生計を立てていたところがありました。

カモシカプロの稽古でいくつかダンスのクラスがあって、そこでパントマイムを教えていたのがジャン・ヌーボさん。生粋の日本人で、本名は太田順造さんです。ジャンさんから「パントマイムを教えてあげるよ」と言われ、マイムを習うことになりました。マイムを通して知ったのが、動きの違いだけではなく、動きに伴う身体の感覚があるということ。それまでにない身体の動かし方を知ることができたという意味では、非常に良い経験になったと思います。

ジャンさんが『ジャン・ヌーヴォ実験劇場』と銘打ち、ご自身のリサイタルを開くことになった。演目のひとつに能の『隅田川』を題材にした作品があり、そこで船頭役を踊ったのが大野一雄さんでした。ジャンさんから大野さんに出演を頼んだそうです。

ジャンさんは淡々とした動きをしてほしいと大野さんに言ったけど、大野さんは「私はそんなことできません。動きの中には人生がある。船を漕ぐことで人生を感じさせる動きをしたい」と言って、ひとつひとつの動きの中に想いを込めて動いてみせた。そこは大野さんとジャンさんの世界の違いでしょうか。ジャンさんからその話を聞いたときは、私はまだ大野さんの名前も存在も知りませんでした。後になって大野さんの噂を聞き、そこで“あのときジャンさんが言っていた人だ”と気づくことになります。

 

笠井叡 舞踏をはじめて <3>に続く。

 

プロフィール

笠井叡
舞踏家、振付家。1960年代に若くして土方巽、大野一雄と親交を深め、東京を中心に数多くのソロ舞踏公演を行う。1970年代天使館を主宰し、多くの舞踏家を育成する。1979年から1985年ドイツ留学。ルドルフ・シュタイナーの人智学、オイリュトミーを研究。帰国後も舞台活動を行わず、15年間舞踊界から遠ざかっていたが、『セラフィータ』で舞台に復帰。その後国内外で数多くの公演活動を行い、「舞踏のニジンスキー」と称賛を浴びる。代表作『花粉革命』は、世界の各都市で上演された。ベルリン、ローマ、ニューヨーク、アンジェ・フランス国立振付センター等で作品を制作。https://akirakasai.com
 

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