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笠井叡 舞踏をはじめて <5>

大野一雄に学び、土方巽と交流を持ち、“舞踏”という言葉を生んだ笠井叡さん。その半生と自身の舞踏を語ります。

『あんま~愛欲を支える劇場の話~』で目にした土方は強烈だった。その興奮も覚めやらぬまま、同年12月、土方と会う。

『犠儀』の2ヶ月後のことです。大野先生のお宅にいたら、やたらと目つきの悪い男が廊下の向こうからやってきた。ヤクザが来たかと思ったら、大野先生が「土方さんです」と紹介してくれた。それが土方さんとのはじめての出会い。土方さんは『犠儀』の噂を人から聞いていたようです。はじめて会ったとき、「君、ヒヨコ3000羽殺したんだって?」と言われてしまいました。

土方さんと出会った翌春、二年間の浪人期間を経て、明治学院大学に入学しました。キャンパスは白金にあり、それが土方さんと深く付き合うようになった要因のひとつになりました。目黒駅から左に行くと大学へ向かうバスがあり、右に行くと土方さんのスタジオ・アスベスト館へ向かうバスがある。目黒駅に降り立ち、どちらに行こうか考える。もちろん大学へ行くべきなのだろうけど、ついついアスベスト館の方に向かってしまう。当時はアポイントメントを取るという習慣がなく、ふらりと行って土方さんがいなければ帰ってくるし、いたら一緒に酒を飲んで、話をして、そのまま一晩一緒に過ごすこともありました。

土方さんが作品の創作をするのはたいてい夜。昼間はアスベスト館で子どもたちにバレエを教え、22時を過ぎたころになると若い人たちが集まりだして、そこから朝まで練習が続くこともよくありました。私も土方さんの作品に出演していて、『バラ色ダンスーA LA MAISON DE M.CIVECAWA(澁澤さんの家の方へ)』と『性愛恩懲学指南絵図、トマト』、あと小さな作品にいくつか参加しています。

土方さんは私の15歳上でした。世代は違いはしたけれど、あまり年齢は気にせず私も言いたいことを言っていて、失礼なことばかりしていたかもしれません。ただ土方さんの中では教育的な側面、私を育てようとしてくれていたところが確かにありました。

『犠儀』(左)

大野一雄と土方巽、日本舞踊史を変える強烈な二人の存在と出会い、共に時間を過ごし、多大な影響を受けた。

土方さんの話は謎かけからはじまります。土方さんが電気ストーブを指して、「笠井君、これは何でしょうか?」と聞く。「いや、電気ストーブですよね」と私は思う。けれど土方さんは、「これはストーブではなく、物が必死になって太陽の真似をしているんだ」と言う。またあるときは、「俺の方に向かって歩いて来る人間がいる。裏から見るとその人間の背中はまっ黒に焦げているんだ」と言う。私には土方さんが何を言わんとしているのかわからない。「そうですか」とも言えず、「あぁ、そうなんですね」と答える。ピンポン玉的なやり取りではなく、一方的で、一種の禅問答のような会話です。

土方さんの物の扱い方は独特で、日常的に意味のなされているものをひとつひとつ剥いでいくところから成り立っていた。だから一個のストーブであってもイメージが無限に湧いてきて、見ようによっては太陽にもなるのでしょう。

土方さんは「一本の棒を立ててパタッと落とす、その何秒間かの間に自分は無限のイメージを取り出すことができる」と言っていた。土方さんは人間の物の見方の貧弱さを生涯言い続けてた。いろいろな仮説を立てることで、はじめてそこに何かが見えるはずなんだと、ひとつの見方を教えられた。物の新しい捉え方というものを、繰り返し言い続けていた人でした。

見るに耐えないある種の衝撃を与えるものを、土方さんは“犯罪ダンス”と呼んでいて、そこに大きな力を注いでた。そんな土方さんに私もそれなりに惹かれるものがあり、共感できるものがありました。表現された犯罪と犯罪そのものがあるとしたら、表現された犯罪は私にとって非常に重要だと感じる部分だった。嘘を吐くというのは言葉の領域になるけれど、身体で嘘を吐くというのはどういうことなのだろうと大きな疑問を抱いてた。身体で本当のことをするのは当たり前だけど、身体で嘘ができるというのはすごいことだという想いがあった。たぶんそのあたりが、土方さんの犯罪ダンスのコンセプトと似ていたのでしょう。

イサドラ・ダンカンはクラシック・バレエの様式化された動きから身体を解き放ち、風や水といった自然の様子を自由な動きで表現してみせた。私はそこには何ら興味がもてなくて、自然の動きが嘘のない動きだとするならば、身体の中で最も反自然的なものに興味が向かってた。自然を裏切るくらい身体で虚偽のものを表現すると、犯罪の領域までダンスがいく。大野さんの稽古に通ううち、そういう想いが次第に明確になっていき、だから土方さんと出会ったとき、どこか共通するものを感じたのだと思います。美意識の持ち方という意味で、私にとって土方さんは一種の先輩のような感覚がありました。ただそこに道徳的な要素というのは一切なく、大野さんと土方さんの決定的な違いはそこかもしれません。

大野さんは熱心なキリスト教信者で、女学校の教師もしていて、モラルをしっかり持っていた人。同時に残酷さと通常の人間が行かない先まで行こうとする側面があった。表と裏というのでしょうか、両者のバランスは上手く取れていたと思います。大野さんは通常の人間では絶対に興味を持たないところに興味を持ち、どこまでも自分のイマジネーションを発展させる人で、そのこと自体が大野一雄というひとつの存在になっていた。私にとって大野さんは理解しがたい部分もあって、だから土方さんには共感を覚えても、大野さんのダンスのつくり方はよくわからないところがたくさんありました。

土方巽

1965年、『バラ色ダンスーA LA MAISON DE M.CIVECAWA(澁澤さんの家の方へ)』ではじめて土方作品に出演。会場は信濃町の千日谷会堂で、土方のほか、大野一雄、石井満隆、玉野黄市等がキャストに集い、美術は中西夏之、加納光於、赤瀬川原平が、音楽は小杉武久、刀根康尚が手がけた。

作品の冒頭、上下二段になったセットの上に、白い衣裳を着た10人の男たちが後ろ向きで立っている。男たちは壁に向かって立ち小便しているようにも見えて、それだけでかなりのインパクトがありました。

人力車に乗った男たちが舞台に登場したかと思えば、舞台の脇には旭日旗を身体に巻いた男がいて、床屋が彼らの頭をバリカンで刈っていく。男たちの顔や身体を緑色に塗って身体が変化していく様をみせたり、魚のウロコを取って舞台に運んだり、大きな顔のイラストにホクロを描き、土方さんがそこにフェンシングの剣を突き刺しながら踊ったり……。本当に面白いことがたくさんありました。なかでも私が忘れられないのは、大野さんと土方さんのデュエット。シンプルな純白のドレスを着て踊る二人のはじめてのデュエットで、非常に印象に残っています。

あとこれは実現しなかったけれど、当初土方さんは舞台の冒頭で元衆議院議員で右翼活動家の赤尾敏さんに演説してもらい、そこから舞台をはじめたらどうかと言っていました。もうひとつ、土方さんは数メートルの巨大な耳掻きをつくり、あちらとこちらで互いの耳を掻きたいとも言っていた。イメージしただけでちょっともぞもぞするようなシーンです。

20歳の頃

笠井叡 舞踏をはじめて <6> に続く。

プロフィール

笠井叡

舞踏家、振付家。1960年代に若くして土方巽、大野一雄と親交を深め、東京を中心に数多くのソロ舞踏公演を行う。1970年代天使館を主宰し、多くの舞踏家を育成する。1979年から1985年ドイツ留学。ルドルフ・シュタイナーの人智学、オイリュトミーを研究。帰国後も舞台活動を行わず、15年間舞踊界から遠ざかっていたが、『セラフィータ』で舞台に復帰。その後国内外で数多くの公演活動を行い、「舞踏のニジンスキー」と称賛を浴びる。代表作『花粉革命』は、世界の各都市で上演された。ベルリン、ローマ、ニューヨーク、アンジェ・フランス国立振付センター等で作品を制作。https://akirakasai.com

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