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笠井叡 舞踏をはじめて <6>

大野一雄に学び、土方巽と交流を持ち、“舞踏”という言葉を生んだ笠井叡さん。その半生と自身の舞踏を語ります。

1965年、21歳のとき土方作品『バラ色ダンスーA LA MAISON DE M.CIVECAWA(澁澤さんの家の方へ)』に出演する。

私はパンツに白塗りの格好で、透明のビニールホースを口にくわえ、それを吸いながら床に叩きつけるという踊りを石井満隆さんと二人で踊りました。土方さんの中に“物を消す”というテーマがあって、私たちの踊りは“胎児が物を消していく”というイメージだったようです。

土方さんは舞台の上に二匹のビクター犬を置いた。ビクター犬はレコード会社のマスコットキャラクターで、二匹並ぶとすごく可愛い。土方さんに「笠井君、これを指さして“あ、ビクターの犬だ”と言ってくれ」と言われました。けれど私はあえてそれを「あ、ビクターのいるだ」と発音しています。

土方さんは物を舞台に上げることがよくありました。ビクター犬にしてもそうですが、いったい物というのは何なのか。土方さんがやろうとしたのは、物質は新しいダンスであるという提示。ダンサーの身体とビクター犬を一緒に並べたとき、動きでは絶対に出てこない身体性が出てくるのは確か。それまでダンスは身体を前提としてつくるところがあったけれど、土方さんはそこで身体では絶対に出せない身体性を取り出してみせた。人間が物と出会うことによって、舞踊の歴史の中ではじめて人間の身体性の何かが見えてきた。そういう意味では、土方さんはすごく重要な瞬間をつくったと思います。

この作品の創作中に土方さんが夢中になっていたのが砂糖菓子。土方さんの監修で唇と手と男性のペニスを砂糖菓子でつくり、色を塗って、ちょっとした老舗のお菓子のように桐の箱にきちっと納めて会場で販売した。これをデザインしたのが加納光於さん。とてもいい出来だったけど、あまり売れずに大量に残っていましたね。

『バラ色ダンスーA LA MAISON DE M.CIVECAWA(澁澤さんの家の方へ)』

 

美術は中西夏之さんです。中西さんの視点というのは独特で、男の裸の背中をキャンバスにして、女性の生殖器を大きく色鮮やかに描き上げてみせた。そこにライトがあたると、素晴らしく綺麗に見えたものでした。

中西さんは、高松次郎さん、赤瀬川原平さんと一緒にハイレッド・センターというグループをつくり、独自の活動で当時注目を集めていました。高松=ハイ、赤瀬川=レッド、中西=センターで、ハイレッド・センターというわけです。ハイレッド・センターは物としての作品ではなく、行為を美術として提示していた。いわゆるハプニングです。ハプニングはアメリカのアラン・カプローがはじめたゲリラ的なアート活動で、当時のアート界に大きな影響を与えていました。

ハイレッド・センターは非常に過激でした。あのころ東京であちこちに小さな爆発物が届けられるという事件・草加次郎事件が世間を騒がせていた。事件は未解決ですから犯人が誰かはわからないけれど、実はハイレッド・センターがハプニングとして仕掛けたのではないか、という噂が立った。ハイレッド・センターにはそういうこともやりかねない雰囲気があった。

そうかと思えば白衣にマスクをつけた医者のような格好で銀座の街中にあらわれ、道路に敷かれた石畳をひとつひとつ何十分もかけて克明に磨き上げてみせた。磨くことが目的ではなく、微細な表現をするというハプニングです。ハイレッド・センターは普通では考えもつかないようなことをしていて、土方さんは彼らのことを高く評価していました。

公演のポスターは横尾忠則さんが手がけています。横尾さんはポスターに旭日をカラフルに描いたりと、日本とポップを結びつけるようなアートを発表していて、土方さんもそのころから日の丸をよく衣裳に使うようになりました。土方さんが日の丸を纏うと、日本がエロスのように感じられる。いわゆる国家神道ではなくて、日の丸がエロスに変わる、そういうひとつの力があった。天皇がつけるキラキラした勲章のようなものを衣裳に使うこともあって、土方さんがそれをつけると勲章もエロスに変わる。土方さんは勲章をヒエラルキーを示す道具ではなく、身につけることで日本がエロスに変わるということを提示してみせた。

『バラ色ダンス』にはエロスの根源としてのイメージがあって、その具体的な人物が澁澤龍彦さん。土方さんは、澁澤さんの存在自体をエロス的なものとして捉えていたのだと思います。はっきりと口にしたことはなかったけれど、土方さんの中にはどこか澁澤さんに対する強い憧れがあったように感じます。二人は同じ年でした。

『バラ色ダンスーA LA MAISON DE M.CIVECAWA(澁澤さんの家の方へ)』

 

土方さんは澁澤さんが『バラ色ダンス』をどう捉えたか聞きたかったのでしょう。ある晩土方さんと話をしていたら、「これから澁澤さんの家に行こう」と言い出した。すでに夜の12時近くで、澁澤さんの家は鎌倉です。私は「えーっ、これから行くのは失礼なのでは?」と言ったけれど、土方さんは「どうしても舞台の話を聞きたいから今から行く」と言ってききません。私はあまり気が進まなかったけど、仕方なくお供することにした。

澁澤さんのお宅に着いたら、案の定家は真っ暗です。チャイムを鳴らすと奥様の澄子さんが出てきて、「澁澤はもう休みましたけど、聞いてみます」と言う。5分ほどしたら澁澤さんが目をこすりながら下りてきた。澁澤さんという人はそういうとき絶対に追い返すような人ではなくて、結局そのままお邪魔することになりました。

土方さんは恥ずかしがりやで、本当は舞台がどうだったか聞きたいくせに、なかなか本題に入れずにいる。せっかく鎌倉まで来たにもかかわらず、面と向かって切り出せず、関係のない話ばかりしていましたね。そのとき話題になったのが、身体をトレーニングして舞台に出す方がいいのか、何もせずにありのままで出す方がいいのか、どちらが今の私たちがやっているダンスの捉え方なのか、というテーマでした。土方さんはトレーニングした身体ではなく、そのままの身体を見せるのが好きなタイプ。実際普通の高校生を捕まえてきてそのまま舞台にのせたり、目黒の銭湯で三味線のサークルをしているおばあさんを舞台に乗せたり、といったことをよくしてた。澁澤さんは私たちの仲介役といった感じで、「笠井君はどう思うの?」「土方君はどうなの?」と話をふってくれました。朝まで三人で話したけれど、澁澤さんが舞台についてどう捉えたかということは結局聞けずじまいでした。

澁澤さん、三島由紀夫さん、赤瀬川原平さん、横尾忠則さん、中西夏之さん、吉岡実さん、池田満寿夫さん、金子國義さん、四谷シモンさん、一柳慧さん……。作家、文学者、詩人、画家など、さまざまな人たちが土方さんの周りに集まっていた。みんなジャンルも活動もバラバラだけど、バラバラだから結びつく何かを探しているようなところがあった。

土方さんという人はダンスだけでダンスをつくろうとした人ではなくて、ジャンルを超えてクロスオーバーする人だった。土方さんは特に文学関係者と多くの交流があり、また土方さんが彼らに与えた影響は大きいものがあったと思います。土方さん自身も秋田でダンスを習っていたとき「土方鵺」というペンネームで文章を書いていて、文学に進むかダンスにするか一時期悩んだと聞いています。

当時はいろいろなジャンルの芸術家が結びついていた時代だった。土方さんや彼を巡る人たちが昭和の時代にしようとした一種の総合芸術は実はまだ終わってなくて、あれがはじまりだったのではないかとときどき考えます。今の時代は何か新しいものが生まれるというよりも、もう一度過去へ戻る傾向が強い。それは悪いことではないけれど、ただ単に昭和へ戻るのではなく、昭和にあったあの事柄は何だったのかということをもう一度捉え直すことが、ひょっとしたら未来に繋がるのかもしれない。改めてそう思います。

『バラ色ダンスーA LA MAISON DE M.CIVECAWA(澁澤さんの家の方へ)』

 

笠井叡 舞踏をはじめて <7> に続く。

プロフィール

笠井叡

舞踏家、振付家。1960年代に若くして土方巽、大野一雄と親交を深め、東京を中心に数多くのソロ舞踏公演を行う。1970年代天使館を主宰し、多くの舞踏家を育成する。1979年から1985年ドイツ留学。ルドルフ・シュタイナーの人智学、オイリュトミーを研究。帰国後も舞台活動を行わず、15年間舞踊界から遠ざかっていたが、『セラフィータ』で舞台に復帰。その後国内外で数多くの公演活動を行い、「舞踏のニジンスキー」と称賛を浴びる。代表作『花粉革命』は、世界の各都市で上演された。ベルリン、ローマ、ニューヨーク、アンジェ・フランス国立振付センター等で作品を制作。https://akirakasai.com

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