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笠井叡 舞踏をはじめて <3>

大野一雄に学び、土方巽と交流を持ち、“舞踏”という言葉を生んだ笠井叡さん。その半生と自身の舞踏を語ります。

都立大学の飲み屋で耳にした噂話が、その後の人生を大きく変えた。1963年、19歳で大野一雄の門下生となる。

江口先生の稽古終わり、女性たちに誘われて、みんなで飲みに行くことになりました。そこで「すごく変わったおじいさんが天井から大きな牛肉の塊をぶら下げて、小指一本でつついてダンスをしているのを観た」と誰かが話すのを聞き、たいそう興味をそそられた。「それは誰?」と尋ねると、「大野一雄という人だ」と言う。以前ジャン・ヌーボさんから聞いた話を思い出し、“『隅田川』で船頭を踊ったあの人だ”と記憶の中で繋がった。女性が観たというダンスは、土方巽の舞台『650 Experience の会』で大野さんが踊ったものでした。

小指一本で牛肉とダンスをするなんて、とても普通のことではない。すごい人がいるな、ぜひ一度大野さんの稽古を受けてみたいと考えた。でもあの当時の教室のしきたりとして、自分の先生以外のところへ習いに行くというのはなかなか難しいものがありました。それもあってジャンさんに「紹介状を書いてほしい」とお願いしています。ただジャンさんはあまりいい顔をしなかったけれど。

1963年の春、相鉄線に乗り、横浜の上星川にある大野さんの稽古場を訪ねました。ものすごい土砂降りで、着いたときはもうびしょ濡れです。大野さんとは初対面でしたが、濡れ鼠の私を親切にも稽古場へ上げてくれました。私としては稽古をしてもらえるかどうかわからないまま、とりあえず稽古場を訪ねた状態だったけれど、大野さんは「じゃあ、稽古をしましょう」と言い、すぐさま一対一の稽古がはじまりました。

大野さんの稽古は基本的に即興です。大野さんが太鼓を叩きながら、「お前の目の中に鉛が入っている。鉛の目は肉眼よりもっとよく見える目だ」などと詩的な言葉を口にする。それに合わせて私が思ったように動いていく。大野さんはシュールレアリスムが好きで、とりわけ魅了されていたのが悪魔文学でした。当時澁澤龍彦さんが『みづゑ』という雑誌に『悪魔のいる文学史』を連載していて、それを朗読しながら太鼓を叩くこともありました。大野さんの机には画集が山ほど積まれていて、絵からくるイメージをダンスにすることもよくありました。ひとつひとつ画集を開いては、大野さんが絵からきたイメージを次から次へと口にして、それを私が即興で動いていく、という稽古です。

19歳。新人舞踊公演に出演

大野一雄のスタイルは独特だった。ゆえに当時の日本モダンダンス界には受け入れられず、異端児扱いされていた。弟子もいつかず、一対一の薫陶を受ける。

大野さんの名前は知られてはいたけれど、そのころはほとんどお弟子さんがいなかった。私が通い出した前後から中嶋夏さんなど若い人がぽつぽつと来るようになってはいたけれど、それでも数えるくらいです。稽古場には埃が溜まっていて、踊ると床に跡がついていた。そのくらい人が寄りつかない状態でした。

大野さんはもともと江口先生のお弟子さんでしたが、私が訊ねて行ったときは研究所を辞め、ご自身の活動を淡々とされていた。大野さんは江口先生のところにいたころから本当に独特な人で、江口先生に大きな動きを学びながら、小さな動きにこだわっていた。大野さんは「小さな動きは人を感動させる力があるんだ」と言い、実際作品の中にも、目だけ、指だけ、といった小さな動きを入れていた。そうしたスタイルは当時のモダンダンスではとても珍しいものでした。

大野さんと江口先生の教えは全く違っていました。江口先生は身体を大きくいっぱいに使う。一方大野さんは、指先だけ、顎だけと、身体の部分だけを使う。最初に大野さんの稽古を受けたとき、江口先生に習った通り大きな動きをしていたら、「笠井君、そんなんじゃダメだよ」と言われてしまった。大野さんは「小さな動きの中に小さな感覚や感情がある。動くことよりむしろ動かないことの方に小さな感情がある」とよく言っていた。うれしいとか悲しいとか好きだとか嫌いだといった大雑把な感覚ではなくて、小さな動きの中にある、気づかれないまま通り過ぎていく小さな感情を探しなさい、という教えです。例えば畳の隅に気持ちを持っていき、そこで留まっている。畳の目と目の間に気持ちを持っていく。小さな小さなところに入っていくのが大野さんの練習の特徴でした。小さな事柄の中に入っていくと、宇宙感情のような大きな感情がそこから出てくる。小さな動きの中に大きなものが流れている、というのが大野さんの考えでした。

大野さんが決定的にモダンダンスと決別したのが『老人と海』。タイツ姿で舟を表現した作品で、息子さんの大野慶人さんと数人の女性が出演しています。大野一雄さんは当時ひどい胃潰瘍でとても踊れるような身体ではなかったけれど、痛みを堪えながら舞台に立ったそうです。『老人と海』の舞台監督をしたのが土方巽さん。そのころから少しずつ土方さんと大野さんが接近するようになっていった。私がはじめて大野さんの稽古場に行ったのは『老人と海』の数年後のことでした。

19歳。新人舞踊公演に出演

師・大野一雄とは稽古以外でも多くの時間を共有した。大野の懐深い人柄に触れ、そして内に抱えた大きな傷を知る。

稽古が終わったあと大野さん自ら食事をつくって食べさせてくれたり、「これを持って行って読みなさい」と宇宙論やパール・クレイの絵画論といった書物を貸してくれたり、手持ちのお金がなくて月謝が払えないようなときは私の交通費まで出してくれたこともありました。

大野さんはとても優しくて、こちらが何を言ってもノーとは言わない人だった。例えば夜中の3時に稽古場へ行き、「これから練習してください」と言ってもダメだとは絶対に言わないような人。けれど、ただ単に温厚というのとはちょっと違う気がします。

大野さんは自らについて「自分は悪徳の限りをやり尽くした」と言っていた。私からすると大野さんほど懐の深い人はなく、最初は何のことを言っているのだろうと思ったけれど、きっとそれは戦争のことなのだろうと後々気づくようになりました。

大野さんは戦争体験者で、ニューギニアに赴き、人がたくさん亡くなるような現場を経験した。あまり多くを語りはしなかったけれど、「一匹の魚を200人の兵士で食べた」という話を聞いたことがあります。それは壮絶な体験だったのでしょう。大野さんは陸軍大尉で、現地に潜入して情報を手に入れる工作員的なことをしたり、軍が水銀を必要としたときは箱いっぱいそれを集めるようなことをした、といったこともちらりと聞いています。

大野さんの中で、第二次世界大戦の経験というのはとても大きな部分を占めていた。戦争経験を自分ひとりでは贖いきれないくらい大きな罪だと感じていて、だからこそ今こうしていることがもったいなくてしょうがない、人生の一片一片を大切にしていきたいーー。そんな想いを常に持っていたような気がします。

大野先生の稽古には3年間通いましたが、並行して江口先生の研究所にも変わらず通い続けていました。江口先生の動きも私にとっては捨てがたいものがあった。公演にも出るようになり、あのころはよく日本舞踊の花柳流や藤間流の会に出てはモダンダンスを踊っていました。

19歳の頃

 

笠井叡 舞踏をはじめて <4> に続く。

プロフィール

笠井叡

舞踏家、振付家。1960年代に若くして土方巽、大野一雄と親交を深め、東京を中心に数多くのソロ舞踏公演を行う。1970年代天使館を主宰し、多くの舞踏家を育成する。1979年から1985年ドイツ留学。ルドルフ・シュタイナーの人智学、オイリュトミーを研究。帰国後も舞台活動を行わず、15年間舞踊界から遠ざかっていたが、『セラフィータ』で舞台に復帰。その後国内外で数多くの公演活動を行い、「舞踏のニジンスキー」と称賛を浴びる。代表作『花粉革命』は、世界の各都市で上演された。ベルリン、ローマ、ニューヨーク、アンジェ・フランス国立振付センター等で作品を制作。https://akirakasai.com

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