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笠井叡 舞踏をはじめて <7>

大野一雄に学び、土方巽と交流を持ち、“舞踏”という言葉を生んだ笠井叡さん。その半生と自身の舞踏を語ります。

『バラ色ダンス』に続き、土方巽の『性愛恩懲学指南絵図、トマト』に出演。1966年7月、新宿紀伊國屋ホールで開催された。

『性愛恩懲学指南絵図、トマト』は当初『神々の恩寵』というタイトルになるはずでした。けれど土方さんが「神に対する恩寵というのはあまりいいとは思わない。“寵”は“懲らしめる”の方がいい」と言って、最終的に“恩懲学”に変えています。

作品の発端になったのが、ルネ・ホッケの『迷宮としての世界』でした。これはマニエリスムについて書かれた文献で、澁澤さんの前の奥さまの矢川純子さんと種村季弘さんが翻訳をして、当時ほとんど日本で知られていなかった美術のジャンルをはじめて紹介しています。土方さんはこれを読み、ダンスにしたいと考えた。

舞台のイメージにも本に描かれた挿絵がいろいろ取り入れられています。例えばミケランジェロの『天地創造』で、土方さんはこれを舞台の後ろに水彩で描かせた。銭湯にあるような大きな絵で、舞台美術の人間が描くのでは面白くないということで、近所のペンキ屋に頼んでいます。土方さんはできあがるまで「すごく面白い」と言っていた。けれど、仕上がったものがあまり気に入らなかったようです。完成した絵の上に絵の具や何やらあれこれ吹きかけ、せっかく描き上げた絵を未完成の状態に戻してしまった。遠くから見ればなんとなく『天地創造』だとわかる程度です。

幕が開くと、舞台の奥に4つの絵が並んでいる。その前に、土方さん、大野一雄さんほか2名のダンサーがそれぞれ立っていて、後ろからぐっと押されていく。どんどん舞台の前に押し出されていき、そのまま絵を客席の方に落としてしまう。そこから舞台がはじまります。

土方さんが客席でかき氷機を回してかき氷をつくったり、大野一雄さんがマントの内側に水を入れたビニール袋を忍ばせて登場し、ビニールに金魚を泳がせながら踊ったり、舞台の上に古めかしい電球を4つぶら下げ、そこでヒヨコが温められて孵化するような動きもありました。そのとき電球が割れてしまい、踊りながら踏みそうになって、ちょっと大変だったのを覚えています。

『性愛恩懲学指南絵図、トマト』の翌月、処女リサイタル『舞踏輯 磔刑聖母』を銀座ガスホールで上演

『バラ色ダンス』『性愛恩懲学指南絵図、トマト』と二作続けて土方さんの作品に出演し、土方さんのダンスのつくり方というのを知った。そのとき“自分のやりたいものはこういうものではない。自分はこれがやりたいわけではない”と思ってしまった。“私は私で、自分のやり方でダンスをつくろう”と考えた。まだ経験も浅いことだし、せっかく土方さんと知り会いになったのだから、もっといろいろ学べばよかったのかもしれない。謙虚じゃないなと今となっては思うけど、当時の自分には不満だったのでしょう。

ダンスには作品主義という捉え方とダンサー主義というとらえ方の2種類がある。作品主義は作品を自分がつくったものとして見るのではなく、自分がつくったものでありながら、ある意味自分も観客の方に行ってみる。対して私が行っているのはダンサー主義的なもの。自分の身体が自分の作品となる。

土方さんはどちらかというと作品主義的な人だった。ものすごく見え方を考える人で、またすごく計算する人だった。だから土方さんは肝心な部分で物を持ってきてしまう。例えばビクターの犬を持ってきたりする。そこは一番の土方さんの特徴でもある。けれどそういう物でダンスをつくるというのは私の本文ではないと思った。私はダンサー主義にこだわった。それが私のひとつのスタイルになった。

ダンスでする事柄を、土方さんは物を出すことで提示した。そこが私が一番不満に思ったところでした。私にとって、ダンスというのは身体でするものだった。本来ダンスというのは時間と空間があって成り立つものだから、そういう意味では物だけでは成り立たない。土方さんがしようとしたのは物の本質で、物と人間の身体が出会うことによってしかはじまらないものだった。そういう意味でいうと、私は身体だけでやろうとするから、身体を過信しすぎているのかもしれないけれど。

人間の身体というのはそれだけだと本当に抽象的で、対して具象というと物質になる。大野さんの場合は具象でもなく抽象でもない、半具象。大野さんの言う半具象というのは、物質的なものと肉体的なものが出会うことによって出てくるもの。それを大野さんは自分のダンスの出発にしていて、そういう意味では土方さんと共通しているように思います。ただ土方さんの場合は、物と身体の設定をイメージとして捉えてはいない。そこが大野さんとの違い。土方さんは物と人間の身体は舞台の上で等価であり、身体も物として捉える。舞台の上にビクター犬と笠井が並んでいたとすると、笠井もビクター犬と同じように物質として出す、という傾向がある。

「舞踏」をはじめる

私がこのリサイタルでしたかったことはただひとつ。身体だけで新しいダンスをつくること。動きというのは一体何なのか、物を使わないで踊るということの根源は何なのか。前提にあるのは動き。物に依拠せず、身体と動きの出発点を探したいという想いがあった。そうなると「舞踊」という言葉ではダメだと思った。「舞踊」というと、何かすでに出来上がったイメージがある。だから、自分がこれからはじめようとするものを、「舞踏」としようと考えた。そのときはじめて、「舞踏」という言葉を使いました。

「舞踊」の“踊”には美しく流れるイメージがあって、それに対して「舞踏」の“踏”には縦に踏むイメージがある。それが「舞踏」という言葉にした理由のひとつ。“踊”より“踏”の方がダンスらしいというイメージもあったかもしれない。さほど「舞踏」という言葉に込めたものはなく、むしろ「舞踊」ではない言葉を使いたい、という感覚の方が強かった。私の中で「舞踏」というと、一切の前提や助けもない、身体ひとつ、動きの一番の原点になるもの。ダンサーは当然訓練された身体というものを持っているけれど、訓練された身体を前提にするのではなくて、私はそれをつくろうとした。

土方さんの所へ行って、「私はこれからはもう自分のやりたいことをやります。これからは「舞踊」という言葉は使わずに「舞踏」という言葉を使います」と生意気にも宣言をした。それが1966年の5月頃だったと思います。大学三年のときでした。土方さんはじっと聞いていた。けれど、その年の7月に土方さんが上演した『性愛恩懲学指南絵図、トマト』で彼は“暗黒舞踏派解散公演”と銘打ち「舞踏」という言葉を使ってしまった。処女リサイタルの前年に土方さんが上演した『バラ色ダンス』のサブタイトルが“暗黒舞踏派提携記念公演”だといわれているけれど、当時は「舞踏」という言葉は使っておらず、「暗黒舞踊」としていたのが後に変わったものでした。

 

笠井叡 舞踏をはじめて <8> に続く。

 

プロフィール

笠井叡

舞踏家、振付家。1960年代に若くして土方巽、大野一雄と親交を深め、東京を中心に数多くのソロ舞踏公演を行う。1970年代天使館を主宰し、多くの舞踏家を育成する。1979年から1985年ドイツ留学。ルドルフ・シュタイナーの人智学、オイリュトミーを研究。帰国後も舞台活動を行わず、15年間舞踊界から遠ざかっていたが、『セラフィータ』で舞台に復帰。その後国内外で数多くの公演活動を行い、「舞踏のニジンスキー」と称賛を浴びる。代表作『花粉革命』は、世界の各都市で上演された。ベルリン、ローマ、ニューヨーク、アンジェ・フランス国立振付センター等で作品を制作。https://akirakasai.com

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