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笠井叡 舞踏をはじめて <8>

大野一雄に学び、土方巽と交流を持ち、“舞踏”という言葉を生んだ笠井叡さん。その半生と自身の舞踏を語ります。

1966年8月、処女リサイタル『舞踏輯 磔刑聖母』を銀座ガスホールで上演。プログラムは「磔刑聖母」「母装束」「龍座の森ほか。制作は土方巽で、大野一雄、高井富子が賛助出演をした。

処女リサイタルは誰にも頼らず私ひとりでやるつもりでいた。ところが土方さんが「自分が振付をする」と言い出した。「ありがたい申し出だけど、ひとりでやりたいので今回は……」とお断りしたら、「じゃあ制作をする」と言って譲らず、結局土方さんに制作を任せることになりました。すると今度は大野さんが「自分が振付をする」と言い出した。そうなるともう任せるしかなくて、舞台の前半は大野さんの振付で高井富子さんと踊り、後半は大野さんと私のデュオを踊ることになりました。

たった一晩だけのソロ公演というのは当時珍しかったと思います。あまり集客のことは考えていなかったけれど、土方さんが制作をしてくれたということもあって、澁澤さんをはじめ錚々たる方々が来てくれました。

本当はソロで即興を踊るつもりでいました。けれど私が考えていたゼロから動きをつくる完全即興はできず、自分のやりたいことはやり切れなかった。大野さんの振付は『アランフエス協奏曲』を使った20分ほどのソロ作品でした。舞台の上で踊りながら「これは絶対にダメだな」と感じていた。踊れていない自分に打ちのめされた。

緞帳が下りると、お客が騒ぐ声が聞こえてきた。あまりにひどい舞台だったから怒っているのだろう、というのが私の解釈でした。このまま幕が上がらなければいいのに、という心境です。ビクビクしながらカーテンコールに出ていくと、床を踏み鳴らすはお金を舞台に向かって投げる人がいるわと、もう大変な状態になっている。私は何が起こったのかわからなかった。失敗したと思っていたら、実は違って、みなさん興奮して騒いでた。正直言って何がそんなにウケたのかわからなかったし、いまだによくわからない。だけど観客は喜んでくれた。

ずいぶん後になってそれと似たような体験をしています。2005年の南米公演で、チリのサンティアゴでソロを踊ったときのことです。当時チリの日本大使館が被災し、その救済ということで入場料を無料にしたら、思った以上にたくさんの人が来てくれて、お客の多くが会場に入れなくなってしまった。閉め出された人たちが暴力的な雰囲気になり、警察が介入して制止するという騒ぎになった。こんな状況で開幕できるのだろうかと思ったけれど、何とか上演するところまでこぎつけた。

舞台が終わり、カーテンコールで再び幕が開いたら、観客が大暴れしてる。みなさんすごく興奮して、舞台の方に走り寄ってくるではないですか。あれには驚かされました。でもどうしてあのときそうなったのか、私にはよくわからない。だから私にとって、何が良くて何がダメなのかというのはよくわからずにいるのです。

1967年は公演が続く。4月、『ゲスラー・テル群論』に出演。5月、都市センターホールで開催された中村智子プロデュース第2回ダンス・エキシビションで『O嬢の物語』を発表。7月、高井富子舞踏公演『形而情學』に出演する。

『ゲスラー・テル群論』は及川広信さん演出の舞台で、映像作家の大沼鉄郎さんが台本を書き、土方さん、大野慶人さんらが出演しています。

大沼さんは「みなさんの好きなようにしてください」というスタンスで、かなり自由にさせてくれました。ビートルズが流行っていた時代で、土方さんは『イマジン』でソロを踊っています。

大沼さんから「笠井さんには中国人になってほしい」とリクエストされました。「衣裳はどういうものにしたらいいですか」と訊ねたところ、やはり「自由にして」とのことです。そこで私が選んだのが、女性のチャイナ服。子どもの死体を入れる棺を客席から担いで持ってきて、その棺を開けながら踊っています。後でわかったことですが、大沼さんの考えていた中国人とは中国の仙人のこと。中国の仙人が現代に甦る、というイメージでしょうか。けれど私は女性のチャイナ服姿で、身体を真っ白に塗り、少年にも少女にも見える出で立ちです。大沼さんの想い描いた仙人のイメージとはかなり違っていたと思います。

この公演を詩人の吉岡実さんが観に来て、「こういうひとつの舞台芸術があるんだ」とたいそう驚かれた。吉岡さんにとってはそれが舞踏との初めての出会い。以降舞踏の舞台に立ち会うようになり、そこから吉岡さんと土方さんの付き合いがはじまりました。 

『O嬢の物語』はフランスの作家ポーリーヌ・レアージュの小説で、Oという女性が主人公。Oが白塗りの化粧を施し、物として置かれ、そこに来た人たちと自由に身体の関係を持つ。正常な性行為ではない性の形態ではあるけれど、それを人が持つのは自由であって、無限のバリエーションがあっていい。ある種のロマンで書かれた、とても美しい小説です。

美術は中西夏之さんにお願いしました。中西さんは私の身体を白くして、そこに色をつけた。身体を白くするというのは、やや人形化するような、物質化するようなところがある。私のイメージでは、身体を白く化粧するという方が近い。このときもソロを踊っています。

高井富子舞踏公演『形而情學』は加藤郁乎の詩をテーマにした作品で、演出は土方さん。会場は紀伊國屋ホールで、出演は高井富子、大野一雄、石井満隆さん、美術には中西夏之さん、清水晃さん、谷川晃さんらが名を連ねています。

ポスターに名前を載せるとき、土方さんが「ただ単に名前を書くだけじゃ面白くない。オレが名前を付けてやる」と言い出した。そして「オレはローマ皇帝ネロから取って“ネロ土方”、大野さんは“アレクサンデル大野”、石井は“カラカラ石井”、高井富子は“クレオパトラ高井”にしよう、笠井は17歳で死んだ皇帝の“ヘリオガバルス笠井”だ……」とひとりひとりネーミングしていった。チラシに載っているのもそれで、チラシ自体はシルクスクリーンでつくられた非常に凝ったものでした。

高井さんは江口先生の弟子で、彼女と知り合ったのも江口先生の研究所でした。特別親しくしていたわけではないけれど、高井さんが突然「私の舞台に出てくれない?」と声をかけてきた。「何をするのですか?」と聞いたら、「指揮者の動きを踊りにしたい。笠井君は独特な動きをするから、その動きを舞台に乗せたいのよ」と言う。私はあまりピンとこなくてしばらく放っておいたのだけれど、彼女もなかなか粘り強い。「笠井君にどうしても出てほしい」と押し切られ、結局一緒に練習することになりました。ただそのときつくったのは指揮者の作品とはまた別の作品で、“子どもが死んで悲しむ”というのが彼女が掲げた新しいテーマでした。

ただ練習をしようにも稽古場がない。高井さんから「笠井君、どこかいい場所ない?」と聞かれ、大野さんの稽古場で練習することにした。ところが高井さんと二人で練習をしていると、大野さんが「そんなんじゃダメだ、こうした方がいい」とあれこれ口を挟むようになってきた。それも「顔をベニヤ板で覆い、そこに口を書いて花を咥えさせろ」「乳母車に人形のように壊れた人体を乗せて舞台を横切ったらいい」などとかなり具体的な提案で、そうこうしているうちに大野さんの感覚が随分入り込むようになってしまった。けれど高井さんはそれが楽しいらしく、すごく盛り上がっている。どうやら二人はウマが合うようです。この作品は1965年7月、全日本芸術舞踊協会第四回創作舞踊公演で『乳母車』として発表しています。

国分寺にて。妻・久子と

 

笠井叡 舞踏をはじめて <9> に続く。

 

プロフィール

笠井叡

舞踏家、振付家。1960年代に若くして土方巽、大野一雄と親交を深め、東京を中心に数多くのソロ舞踏公演を行う。1970年代天使館を主宰し、多くの舞踏家を育成する。1979年から1985年ドイツ留学。ルドルフ・シュタイナーの人智学、オイリュトミーを研究。帰国後も舞台活動を行わず、15年間舞踊界から遠ざかっていたが、『セラフィータ』で舞台に復帰。その後国内外で数多くの公演活動を行い、「舞踏のニジンスキー」と称賛を浴びる。代表作『花粉革命』は、世界の各都市で上演された。ベルリン、ローマ、ニューヨーク、アンジェ・フランス国立振付センター等で作品を制作。https://akirakasai.com

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