笠井叡 舞踏をはじめて <9>
1967年10月、『舞踏への招宴』を上演。『磔刑聖母』に次ぐ二度目のソロリサイタルで、第一生命ホールで踊った。
本当は処女リサイタルでソロを踊るつもりだったけど、そうはいかなくなってしまった。だからこのリサイタルは完全なソロにしようと決意した。『舞踏への招宴』は小品集で、処女リサイタルで大野さんが振付けてくれた『磔刑聖母』や『O嬢への譚舞』、『薔薇の精』、『牧神の午後への前奏曲』、『変宮抄』、『菜の花の男装に 聖セバスチャンの殉教』を踊っています。本当の意味で、これが自分の最初のソロ形式の公演でした。
このときはじめて三島由紀夫さんが私の舞台を観に来てくれました。私が招待状を出したように記憶しています。『聖セバスチャンの殉教』を踊ったというのも、三島さんの興味をひいた理由のひとつかもしれません。三島さんが亡くなったのはこのリサイタルの3年後のことでした。
ただ私はこのとき三島さんにお目にかかることはできず、澁澤さんと会場でお話をして帰られたと聞いています。三島さんは小説の取材ためにインドへ行っていたとのことで、日焼けした顔で「ガンジス川は非常に汚いのだけれど、ヒンドゥー教の人たちが浸かってお祈りをしている。そこに朝陽があたる光景が印象的だった」というようなお話をされていたそうです。
三島さんとはじめてお会いしたのは土方さんの稽古場でした。あるとき土方さんが、アスベスト館に会員制のバーをつくると言い出した。私は“何でダンスの稽古場なのにバーなんだ?”と思いましたけど。バーの名前は『ギボン』で、『ローマ帝国衰亡史』というローマの古代史を書いた人の名前から取ったと土方さんから聞いています。土方さんが『ギボン』の開店祝いを開き、そこに三島さんが駆けつけた。三島さんはものすごくパリッとしていました。でもそのとき私は大学生のひよっこでしたから、個人的にお話しするようなことはありませんでした。
三島さんはちょっと声が甲高くて、『ギボン』でお見かけしたときカッカッカッカッカとよく笑ってた。私の舞台にいらしたときも、カッカッカッカッカと笑っていたそうです。澁澤さんいわく、「『牧神の午後』というのは普通は立って踊るものだけど、笠井が四つん這いで動物の格好をして踊っていたのがおかしかったらしい」とのことでした。
『舞踏への招宴』には瀧口修三さんをはじめ詩人の方たちもたくさん観に来てくれました。私自身は個人的に詩人の方々と交流はなかったけれど、前年に開催した処女リサイタルに土方さんの縁で詩人の方たちが来てくれて、以降いろいろな方が本を送ってくださるようになりました。土方さんの交友関係は広く、とりわけ澁澤さん、三島さんと密接な友人関係にありました。
踊り終わったとき、土方さんと大野さんが大きなバラの花束を舞台に持ってきてくれました。100本くらいあったけど、私はそれを床に叩いて粉々にした。花びらを天に向かって蒔きちらし、舞い降りてくの花びらの中で、花びらを食べながらアンコールをした。せっかくいただいたバラなのに、全部ばらばらにしてしまいました。
三年間の稽古を経て、師・大野一雄から独立する。
大野さんと三年間にわたり一対一のレッスンを受けることができた。本当に貴重な時間だったと思います。
大野さんの稽古で多かったのが、ヨーロッパの画家の絵画を見て、そこからくるイメージを即興で動く、というものでした。ただ大野さんのイメージのつくり方というのは、絵画を見て出てきたものを直接動きにするのではなく、受け取ったものをもう一度自分の中で消化し、イメージに変えていく。つまり大野さんの動きのつくり方は二重になっていて、それは大野さんの特徴でもある。
あるとき大野さんが、「笠井君、昨日学校でボイラーの掃除をしていたらコオロギがやって来たので、家に持って帰ってきた。何故かというと、コオロギをよく見たら僕のお母さんだったから」と言っていたことがありました。もちろんそれはイメージとしての話ではあるけれど、ひとつの物を見てそのまま何かをイメージするのではなく、もうひとつ自分の中でイメージに変える。妄想に近いイメージで、それはでたらめであり、素晴らしくもある。
いろいろ個性的な人に会ってきたけれど、なかでも大野さんは他にはいない、私にとってはじめて体験する人でした。“こういう人が世の中にいるんだ”というのが、大野さんに対する私の一番の印象です。大野さんは物の見方が普通とは全く違ってた。ひとつの物を見たり考えたりする上で、正面から素直に見ることはしない人。ひとつの物がそこにあったとき、ただ単にそれそのものと見ることはせず、普通には見えない物の側面に興味を持つ。“これはこっちから見るとこうなんだけど、こっちから見たらこうだし……”と多角的に物を考えて混乱していき、その混乱の中に溺れてしまうような人。普通ではなかなか理解しがたいところがあったかもしれません。
大野さんには大野さんのひとつの世界がある。けれど「君はどんなひとつのイメージを持つのか」と問われたとき、私は「客観的なイメージがほしい」と思った。自分の考えるイメージというのは妄想ではなく、客観的なイメージだった。妄想を出発にするのは悪いことではないけれど、もうひとつの客観的なイメージのセッションを知りたいという想いがあった。大野さんのイメージはあまりに私的なイメージで、大野さんの道ではあるけれど、私の道とは思えなかった。そのあたりで大野さんとの時間が私の中から脱落していきました。
1968年、土方巽が舞踏公演『土方巽と日本人—肉体の叛乱』を開催。土方の最初で最後のソロ公演となる。
1968年はいろいろな意味で重要な年でした。この年、土方さんは『肉体の叛乱』を、私は『稚児之草子』を発表しています。
ある日のこと、土方さんが「笠井君、今度オレ、やるからね」と言い出した。土方さんはずっとソロ公演というものをしておらず、いよいよはじめて手がけるという。日本青年館で上演した『肉体の叛乱』です。ただ『肉体の叛乱』は本来のタイトルではなく、これは細江英公さんが撮った土方さんの写真に種村季弘さんが『肉体の叛乱』と題して文章を寄せたことから広まったもの。当時チラシやポスターに書かれていたのは『土方巽と日本人』でした。これをタイトルと言っていいのかわからないけれど、土方さんが言いたかったのはたぶんそこだと思います。
本当に素晴らしい舞台でした。けれど私の中に“ソロダンスとはこういうものではない”という想いがあって、その印象記を『現代詩手帖』に書いた。それがネガティブに受け止められた。「笠井が土方巽の舞台を酷評した」といわれ、それが後々まで残ってしまった。
私は決して酷評したつもりはありませんでした。あのとき何が言いたかったかというと、土方さんはダンスを見せたのではなく、物と身体の出会いだけをしてみせた、ということだった。舞台に豚を乗せてその隣に彼が座ってしばらくじっとしていたり、巨大な男根を舞台の上で動かしたり、ものすごく大きなアルミ板を舞台上で鳴らしたり、両手両足を結び十字架に張りつけになった状態で空中に吊られたり……。土方さんがしたそれらのことは、私にとってソロダンスではなかった。身体と物を設定したら、ひとりであるということの意味が全然出てこない。ソロであるという意味がなくなってしまう。だから「これはソロダンスのひとつの在り方としてどうだろう」と書いた。すると、「土方巽を批判した」となった。
私が考えるソロダンスは、物に依拠せず身体だけでどこまでひとつの空間をつくることができるのか、というもの。土方さんのソロは物に依拠したソロだった。それは私の考えるソロではない。でもそれが土方さんにとって良いことならば、私がとやかく言うことではないのだけれど。
笠井叡 舞踏をはじめて <10> に続く。
プロフィール
笠井叡
舞踏家、振付家。1960年代に若くして土方巽、大野一雄と親交を深め、東京を中心に数多くのソロ舞踏公演を行う。1970年代天使館を主宰し、多くの舞踏家を育成する。1979年から1985年ドイツ留学。ルドルフ・シュタイナーの人智学、オイリュトミーを研究。帰国後も舞台活動を行わず、15年間舞踊界から遠ざかっていたが、『セラフィータ』で舞台に復帰。その後国内外で数多くの公演活動を行い、「舞踏のニジンスキー」と称賛を浴びる。代表作『花粉革命』は、世界の各都市で上演された。ベルリン、ローマ、ニューヨーク、アンジェ・フランス国立振付センター等で作品を制作。https://akirakasai.com