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笠井叡 舞踏をはじめて <11>

大野一雄に学び、土方巽と交流を持ち、“舞踏”という言葉を生んだ笠井叡さん。その半生と自身の舞踏を語ります。

1969年、ソロリサイタル『タンホイザー』を厚生年金会館で開催。リヒャルト・ワーグナーを初めて踊った。中西夏之が舞台美術として参加している。

『タンホイザー』のチラシに、澁澤さんが寄稿してくれています。「とどまるところなく分裂と背叛をつづけて行かねばならない私たちの生は、すでに観念にも絶望し、肉體にも絶望し……」とあります。当時はまさにそういう時代でした。“全ての出発を言葉ではなく身体からはじめる。良い意味でも悪い意味でもその特権を持っているのが舞踊家だ”という捉え方で、一番それをストレートにイメージしてつくったのがこの作品です。

チラシには少女の写真がありますが、これはもともと池田満寿夫さんがヨーロッパを旅行したときにイタリアで購入した版画で、あまりにも美しいからと澁澤さんにプレゼントされたそうです。私はそれを澁澤さんの部屋で見つけて、「今度の公演のチラシに使わせてください」と頼み、中西夏之さんに装丁してもらいました。けれどそこに少女の性器が写っていたため、私は猥褻罪の容疑ありと言われ、四谷警察署にお呼ばれすることになってしまった。警察で「これはダメです」と言われたけれど、すでに何百枚とチラシをまいた後ですから、私としてももうどうしようもありません。

中西さんは土方さんの舞台『バラ色ダンス』で美術を手がけていて、それが縁で『タンホイザー』をはじめいくつか私の作品の美術をお願いしています。中西さんはこのとき大きなパネルに人間の手を二つ描き、それを舞台の奥に美術として置いた。遠くから見ると手は羽のようにも見える。羽と関係があるわけではないけれど、『タンホイザー』では鳩を二、三羽つないで劇場の中を飛ばしています。

舞台は全て真っ白です。床も全部真っ白で、白い緞帳がかかってる。舞台の四隅は白い布で覆われ、公演が始まると会場の後方からお客の頭上を斜め上に布が引き上げられていく、という仕掛けです。これは私の発想でしたが、自分たちでつくったものだから本当に大変で、ミシンをかけるだけでひと苦労でした。

作品のひとつの軸としてあったのが、『タンホイザー伝説』でした。タンホイザーがヴェーヌスの丘で快楽の日々を送り、性愛の極致まで達したところで山を降り、自分の生活を振り返り、改めて殉教の道に入っていくーー。もうひとつの軸となったのがワーグナーの楽曲『タンホイザー』で、このとき初めてリヒャルト・ワーグナーを踊っています。

1972年1月、もう一度『タンホイザー』をソロで踊っています。このときの『タンホイザー』は、1970年に亡くなった三島由紀夫さんを想ってつくった作品でした。衣裳はカーキ色の日本陸軍の軍服で、軍帽をかぶり、本物の日本刀を持って踊りました。日本刀というのは三島さんの死の衝撃によるところがあったのでしょう。

三島さんが割腹死された。私がそのニュースを聞いたのは、天使館のブロックを積んでいたときでした。あの三島さんの行為により何かが解決したとは私は全然思っていないし、あれが政治運動だとは思わない。あの行為は日本というものに対する三島さん個人のひとつの決着のつけ方だった、というのが私の考えです。

1968年に土方さんが『土方巽と日本人』という作品をつくり、何らかの意味で日本とのつながりを見せようとした。方向性は違うけど、三島さんの行為はそれと同じようなことだった気がします。個が大切なのか、日本が大切なのかということでいうと、三島さんは個より日本が大切な人。この作品について澁澤さんが評論をお書きになっていましたが、渋澤さん自身はどちらかというと、日本ではなく個が大切だと考えていたと思います。

1971年4月、自宅の一角に手作りで稽古場をつくり、「天使館」と銘々。多くの若者たちが集い、舞踏家を輩出した。

1960年代の後半はほぼ年に一度のペースで公演を開催しています。ひとつの会を開くとそれを自分の中で消化するのに一年くらい時間がかかる。年に一度というのは私にとってちょうどいいペースではあったけれど、『タンホイザー』を境にソロ公演はしばらくストップすることになりました。

どういうわけかそのころから私の周りにいろいろな人たちが集まりだして、ソロ活動を続けるのが難しくなってきた。私としては彼らを受け入れざるを得なくなり、国分寺の自宅脇のスペースに小さな稽古場をつくり、「天使館」と名付けました。現在の建物は建て替えた後のもので、当初はロマネスク建築のような無骨でもっと小じんまりした建物でした。電気の配線以外ほとんど手作りです。私のところに集まってきた若い人たちと一緒にひとつひとつブロックを積み、素人ながら自分たちの手でつくり上げました。

もともとこの土地を購入したのは父でした。札幌高等裁判所で裁判官をしていたとき、あと二〜三年すると別の土地に行くことになるだろう、次の赴任地はおそらく東京だろう、と考えてのことだったようです。けれど父は41歳で亡くなり、結局この地に住むことはありませんでした。

自宅を建てたのは1954年で、2013年に現在の家に建て替えています。現在の家は澁澤さんのお宅をイメージしたもの。澁澤さんの家は吹き抜けで天井がとても高く、こんな家に住んでみたいと長らく思っていたものを形にしました。

当初天使館に集まってきたのはほとんどが学生でした。私の公演に来たり、雑誌に書いた文章を読んで、面白がってくれた人も多かった。当時は学生運動がまだ盛んで、赤軍や左翼の過激派と呼ばれるグループに所属していた人たちも多くいました。いずれにせよ、私としては、来る者は拒まずというスタンスです。

みなさんはっきり意識していたかわからないけれど、言葉を生み出す前の身体で自分と対話したいという人が多かったように感じます。舞踊家になりたい、職業にしたいという人はまずいなかった。ただ後に職業的な舞踊家として活動された方もいて、山田せつ子さん、山崎広太さんなどがそう。当時山崎さんは高校を卒業して新潟から上京してきたばかりのころで、せつ子さんは明治大学演劇科の学生でした。せつ子さんは当初は全く踊れず、稽古場に来るには来るのだけれど、壁際に立ちっぱなし。きっとその場にいたかったのでしょう。話はしていたけれど、二年間くらい踊りは何もしていなかったと思います。あと慶応の学生だった杉田丈作さん、天狼星堂主宰の大森政秀さんのほか、場所柄もあり武蔵野美術大学の学生もたくさんいました。

稽古は週に4回くらい。一回の稽古時間は二〜三時間。大きな音を出すものだからだんだん周りの人に嫌がられるようになり、遂に隣の人が引っ越していった。悪いことをしたと思います。

たくさん人は来たけれど、私は集団があまり好きではないから、何かを組織しようという気持ちは全然ありませんでした。動きたければ動けばいいし、動きたくなければずっと座っていたらいいというスタンスで、指導らしいことは全くしなかった。私が何も教えないものだから、みんな私の踊りを見よう見まねで踊ってた。

指導するでもなく、「やりたいようにやりなさい」という稽古でした。とはいえ人が集まりはじめると、なんやかやと指導的になってしまう。「こうしなさい」ではなく、「あなたがやりたいことをやりなさい」という指導になる。10人の人間がいれば、ダンスの有り様というのはみんなそれぞれ10人違う。その人の持っているものが自身の中から自然と引き出されてくるのが一番いい踊りだと私は信じていて、だから自身の身体から純粋に出てくるものだけを引き出そうとしてた。踊りについて「こうすればいい」というようなことは遂に一度も教えなかった。ただ一緒に踊っていただけでした。

毎日のようにみんなと会っていた感覚です。稽古以外の時間で語らうこともよくありました。「どうしてダンスをはじめたか」というようなことをそれぞれが話していた覚えがあります。

1971年の4月に天使館を設立し、翌月『開く会』を開催しました。母がオルガンを弾いて、みんな好きなように踊ってた。みんなそれぞれ自分のやりたいことをやり、集まってきた人たちに見せる、という自由な会でした。

天使館の窓

 

笠井叡 舞踏をはじめて <12> に続く。

 

プロフィール

笠井叡
舞踏家、振付家。1960年代に若くして土方巽、大野一雄と親交を深め、東京を中心に数多くのソロ舞踏公演を行う。1970年代天使館を主宰し、多くの舞踏家を育成する。1979年から1985年ドイツ留学。ルドルフ・シュタイナーの人智学、オイリュトミーを研究。帰国後も舞台活動を行わず、15年間舞踊界から遠ざかっていたが、『セラフィータ』で舞台に復帰。その後国内外で数多くの公演活動を行い、「舞踏のニジンスキー」と称賛を浴びる。代表作『花粉革命』は、世界の各都市で上演された。ベルリン、ローマ、ニューヨーク、アンジェ・フランス国立振付センター等で作品を制作。https://akirakasai.com

 

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