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笠井叡 舞踏をはじめて <12>

大野一雄に学び、土方巽と交流を持ち、“舞踏”という言葉を生んだ笠井叡さん。その半生と自身の舞踏を語ります。

1972年8月、天使館公演『三つの秘蹟のための舞踏会』を開催。高橋巌と出会い、ドイツへの道が開かれる。

天使館公演『三つの秘蹟のための舞踏会』の会場は厚生年金会館で、そこに高橋巌さんが観に来られた。高橋さんはルドルフ・シュタイナーを日本に紹介した方で、高橋さんと出会ったのがヨーロッパに行くひとつのきっかけになりました。ただ実際にドイツに行くのはそれから10年ほど先になります。

日本にはどうして霊学がないのだろう、という疑問がずっと私の中にありました。人間の内面の世界に対する基礎学というのは、霊学にしかないと思ってた。日本は仏教国ですから心の世界にまつわる学問はお寺に行けば学べるだろうけれど、私はそこには何の興味も持てなかった。ただいろいろ調べているうちに、私の求めていた身体を通して人間の内面に入る道は、どうやらチベットの密教の中にあるらしいと知った。それは一般的にはヨーガを通して人間の内面的な世界に入っていくひとつの道で、その一番深い道がチベット密教だということを知った。ならば、全てを捨ててチベットへ勉強しに行こうと考えた。24歳のときでした。

けれど中国がチベットを自治区にしてしまい、そこでブレーキがかかった。 第二次世界対戦時にチベットへ潜入したという方に連絡を取り、どうやってチベットに入ったらいいか相談してみたけれど、現地に行ったところでもはや密教の勉強は何もできないだろうと言われてしまった。あのときもしチベットに行っていれば、もう踊りはしていなかったでしょう。人間の内面の基礎学というのは、自分にとって踊りよりも重要なものだった。自然科学に変わる身体の基礎学が本当にあるのなら、当時は踊りよりもそちらの方を極めたいという気持ちが強くありました。

自分なりに研究し、基礎学とはこうだとまとめて、1972年に自著『天使論』を刊行しました。天使館ができる前、ソロ公演と並行して4年ほどかけて書き上げています。それに高橋さんが目を通されて、自分と同じ問題意識を持っている若者がいるということで付き合いがはじまりました。

高橋さんから「あなたの知りたいことはヨーロッパでルドルフ・シュタイナーという人がやっています」と聞き、非常に興味を持ちました。高橋さんを通してシュタイナーを知り、勉強するうちに、チベット密教と同じくらい深いものがあると気づかされた。それがなければずっと『天使論』的なことを勉強していたと思います。天使館でも踊りの稽古に加え、高橋さんが翻訳された『神智学』をみんなで読む勉強会をはじめました。

シュタイナーの勉強と並行してはじめたのが言葉の勉強でした。踊りというのは身体のことだけしていればいいというわけではありません。光があるから闇があるように、対の概念で考えれば、身体のことを知るには言葉のことをわかっていなければいけない。じゃあ自分はどのくらい言葉について知っているのだろうかと考えた。言葉の本体がわからなければ、身体のことを知ることはできないだろうと考えるようになった。それは私が天使館という集団のはじまりと並行して取り組んだことでした。

『七つの封印』

1973年、天使館舞踏公演『七つの封印』開催。赤坂国際芸術家センターを会場に、6月30日〜9月30日の毎週土日、三ヶ月間にわたり上演を行う。

1973年の『七つの封印』が初の正式な天使館舞踏公演です。

この公演を開くにあたり、「天使館要項」を発表しています。私自身ずっとひとりで自由に活動していたけれど、人が集まると理念を出さざるを得なくなってくる。大阪の大学の学生の自治会に頼まれて書いた原稿が「天使館要項」のもとになっていて、冒頭に「天使館は、—無政府主義—X軸に、—肉体の位階制度—をY軸にした時空間である……」という文章を載せています。抽象的で難解ではありますが、よく読むとそのころの想いが伝わってきます。これが天使館のひとつの理念になりました。

赤坂国際芸術家センターはTBSの裏にあった大きなダンススタジオで、公演は18時半からはじまり、長ければ22時近くまで続きました。週末になると白い袴のような衣裳を着た若者が何十人と集まり、バッハやベートーヴェン、キング・クリムゾン、ビートルズなどさまざまな曲を大音量でかけて集団で踊り狂ってる。きっと怪しげな宗教団体か何かだと思われていたのではないでしょうか。

あるとき集団の中から私ひとり外に飛び出し、踊りながらTBSの本社前まで進んでいったことがありました。ふと気づけば大勢の人が私の周りに集まっている。赤坂国際芸術家センターはお客が入ってもせいぜい60人くらいだけれど、何百人もの人がそこで私の踊りを見ていた。“なんだ、単純に踊りを伝えるならこちらの方がいいな”と思い、さらに広いところで踊ろうと、そのまま進んでいきました。

『七つの封印』

赤坂東急ホテルの前を横切り、赤坂見附交差点の真ん中に立ち、そこで踊り続けた。私が交差点の真ん中で踊り出したものだから、車が動けず立ち往生してる。けれど私はライトが四方から当たって、すごく良い気分です。自分で自分のやっていることがわかってはいるのだけれど、何かに憑かれたような感覚になり、自分でも止まらなくなってしまった。

いい気になって踊りまくっていたら、ヤクザのお兄さんたちがやってきて、「兄ちゃん、そのままウチのクラブに来て踊ってくれよ」と言ってきた。たぶん私が踊りながら店に行けば、お客がたくさんついてくると考えたのでしょう。でも私はそんな話は聞いていられず、彼らを無視してそのまま交差点で踊りまくってた。すると誰かが通報したのか、パトカーが5台やってきた。日枝神社の中に入ってしまえばパトカーも追いかけて来られないだろうと思い、踊りながら移動したら、神社の中まで大勢の人がぞろぞろついて来てしまった。結局警官に追いつかれ、そこで御用となりました。

日枝神社でパトカーに乗せられ、麹町の警察署に連れていかれました。しかしいざ尋問がはじまっても、私の身体は止まらない。調書を取られながら踊り続ける私に、警察官たちが釘付けになってしまった。「何なんだこれは?」と、調書を取るのをやめてしまった。ひとりの若い警察官がとりわけ熱心に私を注視するものだから、私も救世主みたいな顔をして「お前はこんなことをやっていてどうするんだ」と説教をしてみせた。すると入信ではないけれど、警察官を辞めて天使館に入りそうになってしまった。

私もいろいろな場所で踊ったけれど、警察署の中で踊ったのはあのときがはじめてでした。警察署の中でもやりたい放題で、もう誰にも止められません。警察官も「もう結構です」ということで、結局何のお咎めもなし。そのうえ「どちらに帰るのですか。お送りします」と言って、パトカーで劇場まで送ってくれた。劇場に戻ると、ちょうど舞台が終わるころでした。そっちはそっちでみんなの踊りが続いていたわけです。集団で踊り狂っている中にそのまま紛れ込み、最後まで踊って舞台を終えました。

『七つの封印』

 

笠井叡 舞踏をはじめて <13> に続く。

 

プロフィール

笠井叡
舞踏家、振付家。1960年代に若くして土方巽、大野一雄と親交を深め、東京を中心に数多くのソロ舞踏公演を行う。1970年代天使館を主宰し、多くの舞踏家を育成する。1979年から1985年ドイツ留学。ルドルフ・シュタイナーの人智学、オイリュトミーを研究。帰国後も舞台活動を行わず、15年間舞踊界から遠ざかっていたが、『セラフィータ』で舞台に復帰。その後国内外で数多くの公演活動を行い、「舞踏のニジンスキー」と称賛を浴びる。代表作『花粉革命』は、世界の各都市で上演された。ベルリン、ローマ、ニューヨーク、アンジェ・フランス国立振付センター等で作品を制作。https://akirakasai.com

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