笠井叡 舞踏をはじめて <10>
大学四年生のとき、ソロリサイタル『稚児之草子』を開催。世は学生運動が激化の一途を辿っていた。
東大安田講堂で学生がバリケードを組んで学校を占拠する事件、いわゆる東大紛争が起こり、学園闘争が激しさを増しつつありました。あちこちでデモが起きていて、学生たちが警察相手にゲバ棒を振り回しているような時代です。
私も同じ大学生ではあったけど、学園闘争には一切興味が持てずにいた。しらけているというか、そんなことをしたってどうしようもないだろうと思ってた。ひとつのグループができ上がると、どうしても周りと共に動くことになる。自由にものが言えなくなり、グループから抜けるとなると仲間を裏切る行為といわれ、最終的には粛清になる。きっとそれは学園闘争をしていた当事者たちもわかっていたことでしょう。
そもそも私は集団の力というものを信じていない。人が集まってできる集団の力ではなく、一個の身体とはどういうものなのか、というのが私がダンスをやっている根拠。そうしたことも含めて政治運動というのは私はダメで、結局踊りばかりしてた。そのころから学校という場所は私にとってあまり魅力的なところではなくなっていたけれど、はじめたことを途中で中断するのはイヤだったので、入ってしまったからにはなんとか遂行しようと一応卒業するまで通っています。
決して学生運動をする人たちのことを馬鹿にしていたわけではなかったけれど、自分もしようという気は私にはなかった。ただダンスや演劇に流れるエネルギーというのは、一歩方向が違うと政治運動に行き得るところもあると思う。その傾向は演劇の方が強く、実際に革命的共産主義の方向性を持つプロパガンダ的な集団が当時いくつも生まれています。
自分の身の処し方として、何かの政党に属するということは私にはありえなかった。身体のあり方自体が思想であるとすると、ダンスあるいは舞踏のような表現形態を取らざるを得なかった。演劇の人に対して「ああいう風にはなれない」という線引きがはっきりとあった。土方さんもたぶんそう。「あの人たちは演劇の人たちだから」と区別していたように感じます。
学生運動が盛り上がるなか、土方さんはデモを取り締まる機動隊と学生がせめぎ合いをするその狭間をスイカを持って歩いたりしてた。そのときの身体の有り様は機動隊のそれではないし、学生たちのそれでもない。その両方がダメだと言っているのではなく、もっと何か別の人間の有り様があるのではないかという、舞踊家的な身の置き方を提示してみせた。
『稚児之草子』の会場は新宿厚生年金会館の小ホールでした。開幕間際のこと、装丁家の山本美智代さんが会場に駆け込んできて、「警察につけられている。巻きたいから逃してほしい」と頼まれました。山本さんのご主人は安田講堂を占拠した東大全共闘議長の山本義隆さんで、警察に追われて地下活動を続けてた。義隆さんの潜伏先を探るべく、警察は美智代さんを尾行していたようです。美智代さんは普段からよく私の舞台を観に来てくれていて、友だちですから匿うのも全然構わない。「どうぞどうぞ」と通したら、うまく警察の目を逃れることができたようです。今だったら考えられないようなことがたくさんあった時代でした。
『稚児之草子』で初めて髪の毛を全部剃りました。髪の毛には情緒的な側面があり、剃ることで即物的な側面を超えようという想いがあったのかもしれません。
舞台の上に大きな虎を描き、それを4つに割って揺らしてみせた。虎というのはアジア的な香りのする動物で、それが闇の中で揺れている。稚児というのは神様のような存在の少年で、絢爛豪華な着物を纏ってる。パイプオルガニストの母が舞台の上でリードオルガンを演奏して、私はオルガンの上で踊りました。母が舞台で弾いたのはそのときと、土方さんの『性愛恩懲学指南絵図、トマト』でも演奏をしています。
24歳で大学を卒業。結婚のため、最初で最後の就職をする。
大学卒業を間近に控えても、どこかに就職して勤め人になろうという考えは私の中には一切ありませんでした。ただ会社勤めらしきものをしたことはあります。妻の親に「就職しなければ結婚させない」と言われ、“結婚したらすぐ辞めてしまえばいいや”と辞める前提で働き出した。それもほんのわずかな期間でしたけど。
妻の久子と会ったのは私が高校三年で、彼女が高校二年のときでした。私は中学・高校と国立にある桐朋学園の男子校に通っていて、久子は仙川にある桐朋の女子校に通ってた。あるとき演劇部の後輩の声かけで、女子校の演劇部の子たちとみんなで集まることになった。久子も演劇部に入っていて、そこで彼女と知り合った。その後、結婚するまで7年ほどかかっています。
新宿の『船橋屋』という老舗の天麩羅屋が久子の実家。彼女の父は戦後新宿の街の復興に尽力し、焼け野原だった街を町内会と共に再生させた人でした。そのころ新宿ではヤクザの一大組織が暗躍していて、ヤクザの街になりそうだったのを、お父さんたちが守り抜いたと聞いています。そういう家柄もあったのでしょう、お父さんに「久子さんと結婚します」と言ったら大反対されてしまった。「ちゃんとした学歴なり仕事なりを持つ人間でないと娘をやれない」と言われ、大学に進学した。大学を卒業して、会社に就職もした。広告会社です。一応就職したということで彼女の親も認めてくれて、24歳で結婚をして、国分寺で暮らしはじめました。けれどやはり会社というものが合っていなかったのか、働き出して三ヶ月間で3回入退院を繰り返した。これはダメだということで、入社後三ヶ月で早くも会社を辞めています。
会社を辞め、さてどうやって収入を得ようかと考えた。働くにしても、普通の仕事では面白くない。そこではじめたのが、キャバレーのショーでした。といっても大学の頃からキャバレーでアルバイトをしていたので、また元に戻っただけのことです。
当時はキャバレー全盛の時代で、どこの店にもショータイムが必ずありました。土方さんもあちこちのキャバレーで踊っていて、私も一緒にキャバレーで踊ることにした。四谷のクラブのほか、日暮里、鶯谷、池袋のキャバレーにもよく土方さんと行きました。その時々でメンバーが変わって、ソロやデュエットで踊ることもあれば、多いときは7〜8人で踊ることもありました。
ショータイムはほとんどが生演奏で、小さい店でも3〜4人のバンドが、大きいところだとオーケストラが入ります。音楽はジャズやブルースが多く、曲だけ決めて、あとはほとんど即興です。本当に自分たちのやりたいようにやっていましたね。月に20日くらい踊って、それで生活費の大半を賄っていた。面白い時代でした。大学を卒業したのが24歳で、キャバレーは27〜28歳ごろまで続けています。
笠井叡 舞踏をはじめて <11> に続く。
プロフィール
笠井叡
舞踏家、振付家。1960年代に若くして土方巽、大野一雄と親交を深め、東京を中心に数多くのソロ舞踏公演を行う。1970年代天使館を主宰し、多くの舞踏家を育成する。1979年から1985年ドイツ留学。ルドルフ・シュタイナーの人智学、オイリュトミーを研究。帰国後も舞台活動を行わず、15年間舞踊界から遠ざかっていたが、『セラフィータ』で舞台に復帰。その後国内外で数多くの公演活動を行い、「舞踏のニジンスキー」と称賛を浴びる。代表作『花粉革命』は、世界の各都市で上演された。ベルリン、ローマ、ニューヨーク、アンジェ・フランス国立振付センター等で作品を制作。https://akirakasai.com