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湯浅永麻 ダンサーズ・ヒストリー

ネザーランド・ダンス・シアター(NDT)の主力ダンサーとして11年間活躍し、イリ・キリアン、マッツ・エック、ピーピング・トムなど錚々たる振付家の作品に出演。2015年に独立、以降フリーランス・ダンサーとして精力的な活動を続けている湯浅永麻さん。身体ひとつで世界を駆ける、湯浅永麻さんのダンサーズ・ヒストリー。

キライだったモダンバレエ。

三人姉妹の末っ子で、上の姉とは9歳、二番目の姉とは7歳離れています。両親は男の子が欲しかったらしくて、三人目に期待をかけてはみたけれど、生まれてきたのはまた女の子。それでがっかりしたらしく、私の赤ちゃんの頃の写真ってほとんど残ってないんです。一度親に“生まれた時の写真くらいないの?”と聞いたら、“ない。ごめん”とあっさり言われてしまいました。

生まれは大阪で、5歳のとき広島に引っ越しをしています。私は記憶がないけれど、大阪にいた頃ふたりの姉はバレエを習っていたそうです。

 

 

私が初めてダンスを習ったのは8歳のとき。モダンダンスの教室を母が見つけてきて、そこに通うようになりました。私が小さい頃よく菜箸にビニールテープをつけてひとりで新体操ごっこをしていたとかで、それを見た母が“ダンスを習わせてみたらどうだろう?”と考えたみたいです。でも私はモダンダンスがすごくキライで、稽古に行くとなるとお腹が痛くなるくらい。

そうこうしている内に、上の姉がまたバレエを習いたいと言い出した。ただし、モダンダンスではなくクラシック・バレエがいいという。姉と一緒に地元にあった池本恵美子先生の教室へ見学に行き、そこで“自分がやりたいのはこれだ!”とひと目惚れ。モダンダンスをすっぱりやめて、姉と一緒にクラシック・バレエを習うことになりました。9歳のときでした。

 

母、姉と

 

当時池本先生はご自身のスタジオをお持ちではなくて、曜日ごとに公民館や集会所を借りて教えてました。地域の公民館だったので、もちろん地元の方々も使います。時折生徒たちの間に連絡網が回ってきては、“誰々のお爺さんが亡くなってお通夜に使うので明日の稽古はキャンセルです”、なんてこともありました。

稽古場はすごく狭くて、ガラス窓に映る姿が鏡代わりという状態。生徒数もさほど多くはなくて、全部で30人いたかどうかというくらい。アットホームな雰囲気の、本当に地元のお教室といった感じです。ただすごくいい先生で、とても熱心に教えてくださった。大きなお教室ではなかったのがかえって良かったのかもしれません。とにかくひとりひとりをじっくり見てくださいました。

 

七五三

 

上の姉はバレエが大好きで、池本先生の教室でお稽古として長く続けていましたが、結婚して千葉へ移り、今はふたりの子どもがバレエを習っています。真ん中の姉は踊りが好きではなくて、広島に移ってからは結局バレエは習わずじまい。でも運動神経が良かったので、たぶん才能はあったと思います。彼女は広島に住んでいて、今は子供が池本先生のもとでバレエを習っています。

私も小さい頃から運動が好きで、少年野球チームに入って野球をしたり、サッカーや水泳をしたりと、身体を動かすことばかりしてました。ただバレエ教室に通いながらだったので、なかなか毎日忙しい。小学校6年生のとき、池本先生から“さすがに野球は辞めようか”と言われ、その後はバレエに専念しています。

ポワントを初めて履いたのはバレエを習いだして割とすぐの頃。小学校4年生だったと思います。脚が強かったんです。初めて発表会でポワントを履いて踊ったとき、ピルエットで大コケして大泣きしたのを覚えています。発表会といっても、近くの公民館を借りて日頃の成果をお披露目するような小じんまりとした会でした。

 

池本バレエスクール発表会 12歳

 

仲間と共に月に一度の京都通い。

小学校6年生の終わりには毎日稽古に通うようになりました。バレエが本当に大好きだったんです。また中学に入ると池本先生の教室と並行して、京都の宮城昇先生の教室にも通っています。当時池本先生の教室に同世代の友人がふたりいて、京都行きも彼女たちと一緒です。

広島から京都までは新幹線で約3時間。京都には週末を利用して、一ヶ月に一回のペースで通いました。毎月となるとさすがに金銭的にも大変なので、教室に寝泊まりさせてもらってました。スタジオに布団を敷いて三人で並んで寝てたので、京都では“広島グループ”と言われてましたね。宮城先生の教室には男性もいたので、そこで初めてパ・ド・ドゥを教わりました。

 

池本バレエスクール発表会 14歳

 

中学生の頃にはもうすっかりバレエ漬け。学校が終わると稽古場に行き、終電ぎりぎりまでレッスンに打ち込むという日々です。スタジオから家まで在来線で1時間かかるので、23時の最終電車に乗らなくてはなりません。親が車で迎えに来てくれるときもあって、その日は終電を気にせずレッスンすることができました。レッスン帰りに疲れ切って車の中で居眠りをしていたら、車が蛇行しているのにふと気付いて。何事かと思ったら、母が運転しながらウトウトしているじゃないですか。慌てて母を起こしてーー、なんてことも日常茶飯事。今となっては笑って話せる思い出だけど、親は金銭面等、できることは何でも協力してくれました。

中学一年からコンクールにも出ています。当時はコンクールの数も今ほどなくて、私が出たのはこうべ全国洋舞コンクール東京新聞主催の全国舞踊コンクール、北九州&アジア全国洋舞コンクールくらい。北九州&アジア全国洋舞コンクールの三位になったのが自己最高記録です。

 

父と

 

中学を卒業したらバレエ一本の生活にしようかという考えもあったけど、父に“バレエでは生活していけないから”と反対されて、結局進学することになりました。高校は一校しか受験しませんでした。稽古場のそばにある公立の学校です。高校時代は、毎朝5時に起き、電車で一時間かけて学校へ行き、学校帰りにスタジオへ行き、終電で帰ってーー、の繰り返し。さすがにくたびれてしまって、先生のご自宅に泊まらせてもらい、翌日先生がつくってくれたお弁当を持って学校に行くこともありました。

高校一年のとき、教室のバレエ仲間と三人でフランスに短期留学することになりました。京都に一緒に通っていた友だちです。三人でそろって二週間学校を休んで、カンヌのロゼラ・ハイタワー・バレエ学校とパリのオープンスタジオでレッスンをしています。フランスの稽古は違いましたね。基礎がきっちりしてるし、すごく洗練されている。

フランス行きをきっかけに、留学という将来像を思い描くようになりました。池本先生も “これ以上私が教えてあげられることはないから、海外に行くなり何か考えた方がいい”と言う。友人ふたりの内ひとリはジョン・クランコ・バレエ・スクール、ひとリはボリショイバレエ・アカデミーと、早々に留学先を決めてしまった。私はできればフランスがいいと考えて、最終的にモナコのプリンセス・グレース・アカデミーに決めています。かつて森下洋子さんが学んでいたのと、日本のダンサーも何人かいたというのが大きな決め手になりました。ビデオ審査に通り、高校二年の5月から留学しました。

 

池本先生と

 

-コンテンポラリー