dancedition

バレエ、ダンス、舞踏、ミュージカル……。劇場通いをもっと楽しく。

さわひらき×島地保武『siltsーシルツー』インタビュー!

映像作家として国際的な注目を集めるさわひらきさんと、ダンサーであり振付家として活躍する島地保武さんが初タッグ。さわさんの映像作品『silts』から想起したイメージをもとに、島地さんがダンス作品を創作するという新たな試みに挑みます。開幕を前に、クリエイション中のおふたりにインタビュー! 作品の構想と創作の様子をお聞きしました。

アートと身体表現という異ジャンルのおふたり。創作に何か共通する部分はありますか?

さわ>島地さんとは制作過程がすごく似てて、僕も創作のときよく言葉を羅列するんです。『siltsーシルツー』と並行して開催する展覧会では、カタログのフロントページに僕の書いた言葉を載せています。日本語に訳すと、“ひきだしの中にシンボルや断片などいろいろなものを詰めて、目に見えない石を手で紡ぐ。それは線でなぞられて……”といった感じでしょうか。

創作の共通点は、一緒に作品をつくってみて初めて知ったこと。というのも、作家とかダンサーって完成形を見せるじゃないですか。僕がいくら島地さんの公演を観ていたとしても、つくっている過程というのはそこでは見えないし、ワークショップにでも参加しない限りそれを知ることはない。僕も作品をつくるけどその創作段階の思考というのは見せないし、完成したものだけが世に出ていく。

僕が書く言葉の羅列はストーリーといえるものではないし、台本はないし、実際にそれ通りにつくるとは限らない。きっと島地さんもテキストにはこう書いたけど、いろいろ迷走した上で選りすぐりのものが舞台になっていくのかなという気がします。

 

 

島地>頭で思い浮かべたものに対して、実際に身体を使うとそうではないところに転がっていく可能性はあって。だからテキストを書いてはいても、そうはならないこともありますよね。

さわ>そこはすごく共感できる。僕も机に座って考えているだけでは作品はできなくて、カメラを持って何かを探しに行くんです。そこで見つけたものをきっかけに、また次の何かが出てきたりする。その後自分が書いた文章を読み返してみると、だいたい30%〜40%くらいは予言の書のように言葉に則していたりする。自分でも忘れていたけど、結果として作品に出てくるんでしょうね。

島地>クリエイションの現場でいろいろな人が出すアイデアを大事にしたい、それを汲み取って紡いでくという作業を本番がはじまっても続けたいという気持ちがあって。だから完成したときよりも、過程の方が楽しいこともあります。もちろん本番ではお客さんに観せるためにも、いったん完成させなければいけない。ただ観せる作品として昇華していったとき、大事なことが薄れていくような感覚があるというか。昇華しきることなく舞台ができるか、というのが最近のテーマ。決まった時間に作品をお客さんに観せはするけど、ずっと行われていたことをたまたま人が観に来る、そんなものがつくれたら、そんな活動ができたらいいなと考えています。

 

さわひらき《Going Places Sitting Down》2004年

 

共演はパートナーの酒井はなさん。振付はどのように行っていますか?

島地>ダンサーによりますが、彼女が相手の場合は割と具体的に振付をします。彼女に対して“じゃあここは燃えさかる炎のように動いてください”というようなことはないですね。きっちり決めたものを渡して、それを身体に入れた上で工夫していく方が彼女自身もやりやすいと言うので。振付をするときはいつもそうですが、抽象的ではありつつ、身体の使い方についてはかなり具体的に伝えます。セオリーをきちんと共有できるようにしたいというのと、もやもやしているとコンテンポラリー・ダンスってもやもやのまま終わってしまうから、それは極力避けるようにしたい。もやっとしたものをもやっとした身体で表現すると、何だかわからなくなってしまう危険性がある。まずは身体がしっかりなければと常々思っているので、そこはかなり細かく伝えています。

現場とプライベートではモードが違って、彼女にはいちダンサーとして接している感じ。だからこれまで一緒に仕事をした人の中には、パートナーだというのを最後まで知らなかった人もいたくらい(笑)。彼女は古典で、僕はコンテンポラリー・ダンスを踊ってきたし、ずっと同じカンパニーにいたということもない。そういう意味では踊りに関してお互いを知り尽くしている訳ではないかもしれない。彼女もアルトノイ以外の舞台に関わっていく過程できっといろいろな経験をしてきてるはず。だから新しく作品をつくるときは前回とはまた違ってくるし、実際のところ作品ごとに毎回違うものになりますね。

 

酒井はな (C)yumiko inoue

 

昇華しきることない舞台を目指していく上で、島地さんにとって作品の完成とは?

島地>その日はお客さんがいる。それはもう完成になります。だけど次の日はまた違ってくると思う。だからできれば再演を望みます。『ありか』も運良く再演させてもらっているけれど、やはりやっていく内に気付くことというのはたくさんあって。初演から再演までの間に僕らも年を取っていくから生活も変わっていく。例えば環さんには子供ができましたとかプライベートな変化も起こって、それは絶対に作品に関わってくる。だから再演できるというのはすごくうれしいです。

同じ作品でもやっぱり毎回違うし、また特に違いが出るようなつくり方、自由度のある構成にはしています。今回の自由度はまだわからない。でも自由ではありたいと思います。

 

『ありか』(C)羽鳥直志

 

さわ>僕のいるアートの世界にはそういった形での再演はないし、例えば美術館に収蔵されてしまうと再演、変更というのは許されない。ペインティングだって描き終わった後に筆を足したらダメですから。変更するということは完成していないとみなされる。完成させたものを出してないという評価をされることになる。だけどパフォーマンスには再演というものがあって、例えばロバート・ ウィルソンは上演する度に作品が変化していくと聞きます。だから同じ演目でも再演するごとに毎回違うということも起こりうると思う。

アートでもそれをやっていいんじゃないのということをアートギャラリーに提案したこともあるけれど、それで終わってしまって(笑)。そういう融通が自分にはないのが悩ましいところでもあり、ミュージシャンやダンサーに対してジェラシーを感じるところでもある。彼らに対してすごい憧れがある。だからこの作品がもし再演できるとなったら変更していきたいという気持もあるし、そこは楽しみにしているところでもありますね。

 

 

-コンテンポラリー