ダンサーズ・ヒストリー 中村恩恵(25)
キャリアチェンジをサポート
NDTにはいわゆる退職金というものはありません。それに代わるシステムがふたつあり、ひとつがカンパニーを辞めてセカンドキャリアをはじめるまでの期間をサポートする制度。カンパニーを辞めた、次に何をしようと考えて、新しい道が見つかるまでだいたい6ヶ月くらい必要だろうということで、最後に受け取っていた月給とほぼ同じ額が6ヶ月間にわたって支給される。これは保険のように自分たちが掛けているもので、実際にその立場になると支払われます。
もうひとつもやはり自分たちが掛け金を積み立てているもので、10年間その職業につくと、次の仕事を探すまで最後に支払われていたお給料の何割分かが3年間支払われるというシステム。キャリアチェンジをする際、次の道を模索するための学費と生活費にあてられます。
退職金としてまとまったお金をもらうことはありませんが、カンパニーを辞めてこの先どうしようと6ヶ月間悩み、その後次の仕事のための勉強を3年間して、新しいキャリアに滑り出すまで計3年半はサポートされるというわけです。
カンパニーを辞めたとき、私の中でひとつ関心を抱いていたことがありました。当時北海でアザラシなど野性動物たちが油田の油で汚染されていて、大きな社会問題になっていた。オランダのとある施設が動物たちを保護し、治療して、また野性に戻すという一連の作業を行っていて、実地で働きながら環境問題や動物保護全般の知識を身に付けることができるという。そこで働いてみようかと考え、いろいろ下調べを重ねていました。私自身幼い頃からたくさんの鳥や動物たちに囲まれて育ってきたので、その影響もあったのでしょう。環境問題に加え、野性の動物と人間が隣合わせに住むこと、共生に深い関心を持っていた。結局具体化はしなかったけれど、もしあのとき北海に行っていたら、3年間のサポート制度を使って動物たちを救う勉強をしていたかもしれません。
オランダは社会保障が安定しているので、カンパニーを辞めてもし仕事にあぶれても、最悪それに頼ることもできます。とはいえ誰もが“カンパニーを辞めた、じゃぁ失業手当をもらおう”というわけにはいきません。失業保障を申請するためには、カンパニーに“このダンサーを解雇しました”という書類を書いてもらう必要があります。私の場合は解雇されたわけでもなく、退団するまでたくさん舞台で踊っていたので、失業保障の対象にはなりません。
またオランダでは退団したダンサーが失業補償に移行するための条件として、カンパニーから解雇され、なおかつ次のカンパニーに就職するためにオーディションを毎月受けていなければいけない、という決まりがありました。なかには踊りたいのに辞めされられて、オーディションを受けても仕事が得られず困っているダンサーが実際にいて、そういう人たちのために保障があるわけです。
雇われる側から雇う側へ
オランダの場合、仕事をする人間は雇う側と雇われる側に立場がわかれていて、ダンサーは雇われる側の立場になります。誰かが雇ってくれないと仕事として成り立たないので、基本的に自営というのはあり得ないという考えです。一方振付家は自身が主体となってダンサーを雇う立場なので、仕事を与える側であり、自営業ということになる。私はカンパニーを退団後もダンサーとして踊ってはいたけれど、振付家として自営の立場に切り変えています。
日本では同じ時期にいくつかの仕事を同時進行で掛け持ちして働くことができますが、オランダではそれは許されておらず、フリーランスになると上手くプランニングしなければなりません。例えば新作をつくってパフォーマンスをするまでの期間として、とある劇場と3ヶ月間の契約をしたとする。その3ヶ月間は社会保障や年金制度、休みを含めた13ヶ月分の給料が月割りや日割りで換算されるので、劇場との専属契約となる。契約もそれに伴う保障もしっかりしているけれど、その分Aと契約しながら同時期にBと契約するというダブル契約ができないよう定められています。
退団したばかりの頃は生活が心配で、なるべく稼いでおかなければという気持ちが強くあり、仕事が来ると何でも引き受けてしまいがちでした。そのためひとつの仕事を受けた直後にもっとやりたかった仕事が来ても、そのときにはもう予定が埋まってしまっている、というジレンマに悩まされるようになった。
そんなときキリアンに“一度約束した仕事はそのままやるべきだ。もし本意ではなかった仕事でも、その仕事を入れないと生きていけないなら感謝して精一杯取り組まなければいけない”と言われ、それが私の基本ルールになった。“もしどんなにいい仕事が後から来ても、ムリやりねじ込んだり、こちらの方がよかったからとキャンセルしてはいけない。その結果次に仕事を選ぶとき、これは本当に自分がしたい仕事なのか、ただ不安だから入れている仕事なのか、真剣に考えるようになる”というのがキリアンの考えです。
あのときキリアンに言われたことは、今も自分の中の大きな基盤になっています。仕事は吟味するけれど、一度約束したら精一杯取り組む。その後他の仕事が入ってきて、タイミング悪く断ることになったとしても、縁があればまた必ず戻ってくる。断るときはこれで縁が切れてしまうかもしれないと不安になるけれど、“今回はできないけれどすごくやりたい”と伝えておけば、その先に繋がっていく、ということがだんだん身をもってわかるようになりました。
ダンサーズ・ヒストリー 中村恩恵(26)につづく。
インフォメーション
新国立劇場『ダンス・アーカイブ in Japan 2023』
2023年6月24日・25日
https://www.nntt.jac.go.jp/dance/dancearchive/
貞松・浜田バレエ団
『ベートーヴェン・ソナタ』
兵庫県立芸術文化センター
2023年7月16日・17日
http://sadamatsu-hamada.fem.jp/sche.shtml
神奈川県芸術舞踊協会
『モダン&バレエ』
神奈川県民ホール
2023年10月28日
https://dancekanagawa.jp
<クラス>
中村恩恵 アーキタンツ コンテンポラリークラス
毎週水曜日 15:45〜17:15
http://a-tanz.com/contemporary-dance/2022/10/31153428
中村恩恵オンラインクラス
土曜日開催。詳しくは中村恩恵プロダクションへ問合わせ
mn.production@icloud.com
プロフィール
中村恩恵 Megumi Nakamura
1988年ローザンヌ国際バレエコンクール・プロフェッショナル賞受賞。フランス・ユースバレエ、アヴィニョン・オペラ座、モンテカルロ・バレエ団を経て、1991~1999年ネザーランド・ダンス・シアターに所属。退団後はオランダを拠点に活動。2000年自作自演ソロ『Dream Window』にて、オランダGolden Theater Prize受賞。2001年彩の国さいたま芸術劇場にてイリ・ キリアン振付『ブラックバード』上演、ニムラ舞踊賞受賞。2007年に日本へ活動の拠点を移し、Noism07『Waltz』(舞踊批評家協会新人賞受賞)、Kバレエ カンパニー『黒い花』を発表する等、多くの作品を創作。新国立劇場バレエ団DANCE to the Future 2013では、2008年初演の『The Well-Tempered』、新作『Who is “Us”?』を上演。2009年に改訂上演した『The Well-Tempered』、『時の庭』を神奈川県民ホール、『Shakespeare THE SONNETS』『小さな家 UNE PETITE MAISON』『ベートーヴェン・ソナタ』『火の鳥』を新国立劇場で発表、KAAT神奈川芸術劇場『DEDICATED』シリーズ(首藤康之プロデュース公演)には、『WHITE ROOM』(イリ・キリアン監修・中村恩恵振付・出演)、『出口なし』(白井晃演出)等初演から参加。キリアン作品のコーチも務め、パリ・オペラ座をはじめ世界各地のバレエ団や学校の指導にあたる。現在DaBYゲストアーティストとして活動中。2011年第61回芸術選奨文部科学大臣賞受賞、2013年第62回横浜文化賞受賞、2015年第31回服部智恵子賞受賞、2018年紫綬褒章受章。