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笠井叡 舞踏をはじめて <15>

大野一雄に学び、土方巽と交流を持ち、“舞踏”という言葉を生んだ笠井叡さん。その半生と自身の舞踏を語ります。

1980年2月、シュツットガルト・トリュビューネでヨーロッパ初のソロダンス公演を開催。『物質の未来』の4年後、二度目の『第九』を踊る。

ドイツに行った翌年、再び『第九』を踊っています。会場のシュツットガルト・トリュビューネは小さな演劇の劇場で、私にとってヨーロッパでの初のソロ公演でした。ここで私は『第九』を踊ろうと決めた。けれどそれをトリュビューネの劇場主に伝えたら、「『第九』だけは絶対にやめてくれ」と言われてしまった。

ドイツ人にとってベートーヴェンは神様のような存在で、しかも『第九』を、一介の日本人が踊るという。とても受け入れられない、という気持ちだったのでしょう。でもダメと言われれば言われるほど私としては踊りたくなってしまう。私は「『第九』を踊る」と言って譲らず、最終的に劇場が折れてくれました。作品自体は『物質の未来』とは全く違う内容ですが、このときも全四楽章を全て即興で踊っています。私が在籍していた学校の先生をはじめ、たくさんの方が観に来てくれました。

公演評がシュツットガルト新聞に写真入りで大きく取り上げられました。タイトルは「笠井は悪魔か天使か」というもので、“ひとつの新しい踊りがドイツではじまった”とかなり好意的に紹介されています。

場所が違うせいか、同じ『第九』を踊っても、私自身の中ではドイツの公演の方が強く印象に残っています。ベートーヴェンにより近づいた感覚があった。音楽との結びつきという点でいうと、『第九』で踊るということ自体はどうでもいいし、別に『第九』でなくてもいい。ベートーヴェンの曲が力を与えてくれるのではなくて、ベートーヴェンの持つ創造力の根本的なものが私に力を与えてくれる。ベートーヴェンの中に『第九』をつくらせたエネルギーがあるということ、それが大切なのです。

三度目の『第九』は2019年で、天使館で踊っています。シュツットガルト以来ですから、約40年ぶりです。このときは『第九』は第一楽章だけで、それとルー・リードの『ベルリン』を踊りました。

ソロ公演以外では、2012年に麿赤兒さんと共演した『ハヤサスラヒメ』でも『第九』を使っています。ただあのときはベートーヴェンを踊ることがコンセプトというより、ベートーヴェンを麿さんたちと踊ることができたら面白いのではと思って取り組んだものでした。そのほかベートーヴェンの曲は『日本国憲法を踊る』の中で『英雄』を使っています。

これまで三度『第九』をソロで踊ってきました。『第九』という曲を踊ることで、ベートーヴェンの出現でバラバラになってしまった純粋音楽とダンスをもう一度結びつけよう、というひとつの試みが私の中にありました。

ベートーヴェンの出現で純粋音楽が世に広まり、ダンスと音楽が離れていった。それを救ったのがイサドラ・ダンカンだった。彼女ははじめてベートーヴェンの交響曲やソナタなど純粋音楽とダンスを結びつけた。けれどドイツ表現主義の辺りから純粋にダンスだけで踊ろうとする動きが起き、またダンスは音楽と離れてしまった。音楽と一緒に生きてきたダンスが音楽と離れていき、遂にダンスは完全に音楽と決別した。そして音楽的な要素を全て排除したとき、身体というものを純粋に捉える動きが生まれた。それが日本の舞踏。日本で起きたことなのです。

それは大野さんというよりも、むしろ土方さんでした。たぶん大野さんの方が音楽性は残っていたと思います。土方さん自身は意識はしていなかったと思うけれど、彼は何千年という舞踊の歴史の中から完全に音楽を抜いた人。私から見ると、土方さんは音楽を拒絶して、音楽が入る余地なくダンスをつくろうとしてた。土方さんは文学や絵画などさまざまなジャンルとクロスオーバーしていたけれど、音楽とダンスの結びつきについては深く考えていないように私には見えた。音楽は自分のジャンルだとは考えていなかったのかもしれません。

自分の身体の中から音楽性を消去したのが土方さん。土方さんほど歌の似合わない人はいなかった。あの時代の人たちは酔うとすぐ軍歌を歌って盛り上がったものだけど、土方さんは絶対に歌わなかった。誰がこんなところで歌うかと、歌に対する憎悪があるかのように断固として拒絶していた。公演で使う楽曲にしてもそう。土方さんに「次の公演の音楽どうしますか?」と聞いても、「俺は音楽には興味はない。笠井が好きに考えて」という返事です。実際私が公演に使用する曲を選び、「これを使ったらどうでしょうか」と土方さんに提案していました。土方巽以降のコンテンポラリー・ダンスは必ずしも音楽がなくても成り立つものであり、音楽と身体の結びつきを捉えてダンスをするということが途絶えてしまった。

土方さんとは対照的に、私にとって音楽はあまりに当たり前に身近にあるものでした。母が教会のオルガニストをしていたこともあり、物心つく前から音楽に浸かり、パイプオルガンの音色を聞きながら育ち、空気を吸うように音楽の中で暮らしてきた。ダンスは音楽と共にあるものだけれど、私自身の中には幼いころから音楽が身近にあったので、改めて音楽をゼロから勉強しようという気持ちにならなかった。音楽を対象化する生き方というものを経験してこなかった。

けれどルドルフ・シュタイナーの翻訳者である高橋巖さんと出会い、音楽と身体の結びつきから出てきたダンスをはじめて知った。ヨーロッパの音楽の成り立ちの中で、身体と音楽がどう結びついているのか、というところからはじまるのがオイリュトミー。純粋音楽でも舞曲でもなく、音楽と身体の結びつきの原点から音楽を捉え直すというのがオイリュトミーだと知りました。

オイリュトミーを学んだからといって、新しい自分のダンスの道が見出せるかというと自信はなかった。ただそこを通らなければ、音楽と決別する・しないという問題に到達できそうになかった。それでヨーロッパに行こうと考えた。音楽との結びつきというのは音楽理論がわからないと絶対にできない。日本にいたらできないことでした。

1979年1月、舞踏作品集一マルキ・ド・サド作『悲惨物語』を、3月に舞踏作品集二マルキ・ド・サド作『ソドム百二十日』を上演する。

この年は“ダンスと文学的な題材を結びつける”というテーマが私の中にありました。

一般的にダンスといったとき、犯罪と結びつける方向で考える人はいないでしょう。けれど大野一雄という人は、自分がダンスをしている限りにおいては犯罪者だ、自分は犯罪者だ、という意識をはっきり持って踊りをつくってた。土方さんは自身の踊りを暗黒舞踏と言っていたけれど、暗黒というのは暴力のことであり、犯罪に向かう恣意的な側面がある。犯罪的な側面で身体との結びつきを持たない限り、舞踏というものは誕生しなかった。

大野さんと土方さんが犯罪や人間の暗黒の部分とダンスを結びつけたのは、やはり日本のダンスの歴史の中ですごい出来事だったと思います。私も若いときお二人に出会ったことで、人間の暴力性や闇がダンスと結びついているということを当たり前の行為として考えるようになっていたのかもしれません。

例えば恋人が“私のことをどう思っているのか言葉で語ってみて欲しい”と言ったとき、踊ってみせたら相手にとっはある種の暴力になる。それを自分に許しているダンサーという存在は、ある意味犯罪者で、自身意識する必要がある。それを意識しないと舞踏家とは決していえない。

マルキ・ド・サドを題材にした『悲惨物語』と『ソドム百二十日』はサドの犯罪性の側面でつくった作品であり、身体のアナキズムに取り組んだ作品でした。『悲惨物語』ではソロを踊っています。『悲惨物語』の副題は“ジュリエットとジュスティーヌの物語”で、これは日本ではサド裁判の元になった作品です。

『ソドム百二十日』は天使館の男性5人と共演しました。ダンサーはみんな即興で踊っています。舞台の上にマイクが一本あって、ある人が喋ったら次の人にマイクを飛ばし、それを受け取った人が喋る。一応ダンサーにはコンセプトを説明したけれど、そこで誰が何を喋るかという取り決めはありません。何をしても成り立つという舞台で、実際みんなしたい放題していましたね。

今になって思うと、果たしてこの二つの作品を上演して良かったのかどうか、自分でも正直わからない。改めて考えてみると、サドをテーマに踊っただけじゃないか、ということにもなりかねません。二つの犯罪文学をテーマに舞台で踊ったからといって、それが身体の暴力性と本当に向き合えていたかどうか。テーマにすることと踊ることは果たして両立するのか。

笠井叡 舞踏をはじめて <16> に続く

プロフィール

笠井叡

舞踏家、振付家。1960年代に若くして土方巽、大野一雄と親交を深め、東京を中心に数多くのソロ舞踏公演を行う。1970年代天使館を主宰し、多くの舞踏家を育成する。1979年から1985年ドイツ留学。ルドルフ・シュタイナーの人智学、オイリュトミーを研究。帰国後も舞台活動を行わず、15年間舞踊界から遠ざかっていたが、『セラフィータ』で舞台に復帰。その後国内外で数多くの公演活動を行い、「舞踏のニジンスキー」と称賛を浴びる。代表作『花粉革命』は、世界の各都市で上演された。ベルリン、ローマ、ニューヨーク、アンジェ・フランス国立振付センター等で作品を制作。https://akirakasai.com

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